第531話 ペーパーバックと栞

 ウエブ会議用のアプリを起動し、栗田准教授から送られたミーティングIDとパスコードを順番に入力すると、僕のタブレットの画面には栗田准教授の執務室の光景が映し出された。

 画面の中央には、現地でゼミが開催された時に学生や先生が囲む大きなテーブルが映っているが、今は無人だ。

 栗田准教授と面談するのは修士論文の進捗度合いについて確認するためなのだが、ここしばらく心ここにあらずという状態だった僕の場合、論文執筆がはかどっている訳もない。

 それでも早めに着手していたため、ある程度ストックがあるのが救いだった。

 僕は腕時計を見たが、事前に通知されたミーティングの開始時間は既に過ぎているので、僕はマイクのミュートを解除して栗田准教授に呼びかけた。

「栗田准教授聞こえますか?内村です」

 僕はテーブルの上に置いた、円盤型のスピーカー兼マイクに心なしか接近して話したが、今時のウエブマイクは人の声の周波数帯を選択的にピックアップするので僕の声は拾えているはずだ。

「ああ、内村君か。意識が彼岸に行ってしまっていたがようやく戻って来たと奥さんに聞いたが、元気そうでよかったよ。早速で申し訳ないが、修士論文の執筆状況を画面共有して説明してくれないか」

 何か別の用事をしていたらしい栗田准教授は、フレームインして僕の復活を喜びつつも、面談を少し巻き気味に進行させようとする。

 おそらく、僕の後も他の院生との面談が控えているに違いないと気付き、僕は慌てて修士論文のファイルを画面共有する。

 修士論文の進捗状況を説明し、今後の課題について話すうちに、栗田准教授との面談時間は瞬く間に過ぎて行った。

「ふむ、思ったよりはかどっているじゃないか。プレ発表会までにパワーポイントも作るのを忘れないようにね。何か聞きたいことがあったらメッセージを送っておいてくれ」

 栗田准教授は必要な情報を早口で伝えると、温厚な笑顔を浮かべて僕に言う。

「発表会が終わったら、ゼミ旅行に行きたいものだね。君は一回生の頃から私の趣味的な旅行に同行してくれたから、すごい心霊スポットを探したいものだ」

「是非よろしくお願いします」

 その辺で僕に割り当てられた時間は終わりつつあったので、ぼくは栗田准教授に挨拶するとミーティングを退出した。

 客観的にみると、僕は久しぶりに外部の人間と会話したことになるが、別段疲れも感じないので少し気を良くした。

 この調子で、鳴山さんとも直接会って話しをして、社会復帰を確実なものにしたいところだった。

 お昼の時間が近くなると僕は山葉さんと一緒にカフェ青葉の店舗のフロアに久しぶりに顔を出した。

「ウッチーさん大丈夫なんですか?話もできなくなっていると聞いてチョー心配していたんですよ」

 木綿さんが「嬉しい」と「心配」が半々といった表情で僕に話しかけ、小西さんが遠巻きに様子を窺う構図だったが僕はいつも通りに接することにした。

「もう大丈夫だよ。留守中は心配かけたね」

 僕の言葉を聞いた山葉さんはあきれたように言う。

「留守中って言うけどウッチーはここしばらくカフェ青葉から一歩も出ないで暮らしていたんだよ」

 それは自明の話だが僕にとってはどこか遠くに行っていたに等しい時間だった訳で、木綿さんは僕たちの会話を聞くうちにその表情から心配の影は少なくなっていた。

「なんだ、ウッチーさんすっかり元どおりになっているんですね。沼ちゃんと私は進路のことで相談に乗ってもらいたいから、時間がある時にお願いしますね」

 彼女たちは僕の学科の後輩にあたり、既にインターンシップ等が始まっていてもおかしくない頃だ。

「わかった、時間を取るようにするから日程調整しよう」

「それでは、沼ちゃんの都合を聞いてから改めてご連絡します」

 ランチタイムの忙しい時間帯なので木綿さんと小西さんは仕事に戻り、祥さんはフロアの仕事は任せろという雰囲気で目配せする。

「僕たちが居なくてもカフェの仕事は滞りなく回るんだね」

 僕はちょっと寂しい思いもしながら山葉さんにつぶやいた。

「基本的に田島シェフと祥さんが居ればお店は回せる。アルバイトが入れば余裕なのだ。人手不足の昨今有能な人材がいてくれて助かるよ」

 山葉さんは余裕の表情で答える。

 莉咲を身ごもった頃に比べると、スタッフを信頼した表情からは経営者のオーラが出ているように感じられた。

 夏場に蔓延していたコロナウイルスの感染症の発症者数も秋に入って一段落し、来客者数も伸びてきたことが彼女の心に余裕を与えており、それ以上に彼女が様々な経験を経て成長したのかもしれない。

 そんなことを考えて、僕は山葉さんの顔を見ていたのだが、店舗の窓越しに鳴山さんが歩いているのが目に入った。

「鳴山さんが来たみたいですよ」

 山葉さんは入り口に背を向ける形で座っていたので、振り返ってカフェ青葉のドアを開けようとしている鳴山さんを見た。

「本当だ、彼は意外と時間に正確だね。一緒にいる男性は誰なのかな」

 彼女に言われて気が付いたが、鳴山さんはもう一人の男性と並んでドアを開けようとしており、その男性は何となく見覚えがあるような気がしたが、僕も思い出すことが出来ない。

 いずれにしても二人が店内に入ればわかることだと僕が考えた時に、目の前に閃光が走った。

 それは稲光のような瞬間の光だったが、残像が残ってしばらく周囲が見えないほどのものだった。

 ようやく視力が回復したとき、僕は鳴山さんと連れの男性がカフェ青葉のエントランスに足を踏み入れたところで倒れていることに気が付いた。

「何が起きたのだろう? 」

 僕は席を立って鳴山さん達が倒れている場所に急ぎ、山葉さんも続く。

 オーダーを受けた料理を運んでいた小西さんと祥さんも集まり、皆で鳴山さんを助け起こそうとした時、山葉さんの声が響いた。

「さっきの光はもしかしたら漏電事故だったのかもしれない。触ると感電するかもしれないから注意して!」

 それはもっともな指摘だったが、僕は既に鳴山さんの方に手をかけた後だった。

「もう触っちゃいましたけど、感電する様子はないですね。とりあえずこの二人をバックヤードに運びましょう」

 僕は鳴山さんを背中に乗せる形に担ごうとしてその腕を引っ張った。

「救急車を呼びますか?」

 祥さんがスマホを片手に山葉さんに尋ねるが、山葉さんは判断に苦しむ様子で彼女に答える。

「バックヤードで様子を見て、意識が戻らないようなら通報しよう」

 小西さんが鳴山さんに同行していた男性を抱え起こすと、男性の手から文庫本が滑り落ち、開いたページから栞が床に滑り出たのが見えた。


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