栞のメッセージ

第530話 取り戻した日常

 暖かい感覚に包まれて微睡の中に居た僕は自分を呼ぶ声に眠りの世界から引き戻された。

「パアパ!パアパ!」

 目を覚ました僕の上には莉咲の顔があり、寝坊したパパを起こそうと僕の額をペチペチと叩いていたのだった。

「莉咲おはよう」

 僕は布団から身を起こすと周囲を見渡した。山葉さんはキッチンで何か作っているらしく、辺りにはみそ汁や焼き魚の良い匂いが漂っている。

「ウッチー、調子が悪いなら寝ていてもいいよ。今日はオンライン授業だから大学院までいかなくてもよいからね」

 山葉さんの声がキッチンスペースから響き、莉咲は上機嫌で僕にしがみついている。

「大丈夫、もう起きるよ」

 僕は莉咲を抱えると布団から起き上がった。

 家族や友人たちの話では、僕はこの夏、数週間にわたって人事不省の状態に陥っていたらしい。

 その間も自分で生活動作は行っており、大学のオンライン授業を聞いたり、莉咲と遊んだりと言った行動をしていたらしいが、それは僕の抜け殻が動いているようだったと山葉さんは言う。

 僕自身もその時期の記憶がないわけではないが、夢の中の記憶のようにおぼろげなものだ。

 僕は妻の病気を心配するあまり、アシダカグモの妖と怪しげな契約を結び自分の魂を妖に売り渡してしまっていたのだ。

 その結果、人として動くための重要な欲望や動機と言ったものが欠落してしまい、山葉さんの目から見るとは生ける屍のような状態となっていたらしい。

 幸い、山葉さんや七瀬カウンセリングセンターの関係者、そしてカフェ青葉のスタッフが協力し、原因となる妖を祓うことに成功し、僕は無事に人間の世界に戻って来ることが出来たのだ。

 カフェ青葉二階の居住スペースはいつも通りだったが、僕はその空気や何気ない日常の物音がかけがえのない物に感じられた。

 僕が顔を洗ってリビングルームに相当するスペースに戻ると、山葉さんは朝食の準備を終えたところだった。

 僕が正常に戻ってから既に数日が過ぎ、周囲も僕の体調について心配を抱かなくなっても山葉さんはいまだに僕のことを心配しており、それは僕が彼女の術後の経過と二番目の子供の妊娠の経過を気遣うのといい勝負だと言えた。

 別室で寝起きしている裕子さんも加わり朝食を食べ始めると、一歳八か月となった莉咲はスプーンを使って食べることに挑戦していた。

「やっぱり婿殿と一緒にごはんを食べられるのがよいですね」

 裕子さんは僕を婿殿と呼んでいるが、僕は婿養子になった訳ではなく、彼女が時代劇のお姑さんの言葉遣いを真似ているだけの話だ。

 今時は家を継ぐなどという古めかしいことは誰も言わないので拘泥するような話ではない。

「莉咲も僕たちと同じものが食べられるのがうれしいですね。スプーンの使い方もうまくなったし」

 莉咲は自分のことを話しているのがわかったのか笑顔を浮かべて一生懸命スプーンで食べている。

「そうでちゅよね。莉咲ちゃんはクモムシを握りつぶしてパパとママを助けてくれたし、とっても器用でちゅよね」

 山葉さんが赤ちゃん言葉で莉咲を称えると彼女は更に嬉しそうな顔をする。

「ちょっと待って、莉咲があれを握りつぶしたというのですか」

「うん。おかげで高田の王子が妖の結界を突破できたみたい」

 僕の質問に山葉さんは平然と答えるが、僕はアシダカグモの妖を莉咲が握りつぶしたということがにわかには信じがたかった。

「莉咲って先が楽しみな子供だね」

 ぼくは機嫌よくご飯を食べる莉咲の顔を見ながら彼女の行く末に想いを馳せるのだった。

 山葉さんは食事の間さりげなく僕の様子を見ている気配だったが、朝食を終えると僕の顔色を窺いながら尋ねる

「ウッチー、実は少し前にミニオン二号館の鳴山さんから祈祷の依頼があったのだ。今までは、ウッチーの調子が悪いから家を空けられないと思って断っていたのだが、どうやら元に戻ったみたいだから依頼を受けようかと思うのだがいいかな?」

 彼女は旧知の鳴山さんから依頼を受けながら僕の体調が思わしくないから断っていたというのだ。

 僕は鳴山さんの目力の強い顔を思い出しながら、さぞ困っているに違いないと気の毒になった。

 鳴山さんはミニヨン二号館というリサイクルショップを経営しているが、霊視能力を持っているため、商品に前の持ち主の霊が取り付いていた場合、それが否応も無く見えてしまい業務に支障をきたしてしまうのだ。

 僕は病人扱いされることが不本意でもあり、山葉さんに苦情じみた雰囲気で答えた。

「いつまでも病人扱いしないでくださいよ。鳴山さんも困っているはずだから、引き受けてあげましょう」

 山葉さんは僕の口調を気にも止めない様子で表情を明るくした。

「わかった。鳴山さんと連絡を取ってみるよ」

 山葉さんは嬉しそうな表情浮かべて僕に答えると自分のスマホを取り出して、SNSアプリを使って鳴山さんにメッセージを送った。

 店舗で営業している人は互いに業務中に邪魔をしないようにSNSを使ってメッセージを送る傾向が強い。

 鳴山さんのリアクションは早く、一分も立たないうちに山葉さんのスマホから着信音が響き、スマホの表示を確認した山葉さんは僕に穏やかに告げた。

「鳴山さんは速やかに浄霊してもらいたいので問題の品物をこの店まで持ってくるそうだ。お昼ごろになるそうだから楽しみに待っていよう」

 山葉さんの嬉しそうな表情を見ると僕は複雑な気分だった。

 やはり僕は霊障のある品物を持い込まれてウキウキするようなメンタルの持ち主にはなり得ない。

 朝食を終えた僕はオンライン授業を受けるために階下にある和室、通称いざなぎの間の行くことにしたが、莉咲はご機嫌斜めだった。

「ぱぱ、あそぼ」

 莉咲は何故自分と遊んでくれないのかと大いにむくれており、僕が不調だった時期は莉咲にとってはパパが張り付きで相手をしてくれる嬉しい期間だったことが推察できる。

「ごめんね莉咲、栗田准教授とディスカッションしないといけないから午前中は遊んであげられないんだよ」

 オンデマンドタイプの講義ならば、膝の上に莉咲を乗せてあやしながら講義を聞くこともできるが、准教授と対面で行う講義ではそうもいかない。

 僕が莉咲に気を使ってもたもたしていると、山葉さんが気を使って莉咲の前にしゃがみ込んだ。

「今日は昼から祈祷するために準備しなければならない。準備と言っても着替えや式神を作るくらいだから莉咲は私が見ておくよ」

 莉咲は母の言葉をおおむね理解した様子で表情を明るくする。

 僕は鳴山さんの案件が少し気になりながらも、指導教官の栗田准教授とウエブ面談をするべく階下に降りるのだった。



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