第480話 炎の記憶

 その感覚は僕にとっては馴染みのあるものだった。

 僕は霊感が強い故に、強い思念が残った品物に触れるとそこに残された記憶を追体験してしまうのだ。

 不用意に触れた万年筆には誰かの強い思念が残されており、その記憶は僕の頭の中に流れ込んでいく。

 やがて僕はその記憶に飲み込まれて思念を残した人の記憶を追体験し始めていた。

 その記憶の主は女性で小さな子供を背中に背負い、うす暗い中で息を殺していた。

 未明の空襲警報に眠りを破られ、夫の両親と共に自宅の庭に掘った防空壕にこもり、飛来するB29の空襲が終わるのをじっと待っているのだ。

 そしてその手には夫の形見の品として白木の箱に入れられて家に届いた万年筆を固く握りしめていた。

「淑子さん、あなた宗一郎の万年筆を持ち出したのね」

 義母の佐和子さんは咎めているのではない口調で私に話しかけるが、私は何処か意固地な雰囲気で答えるのだった。

「空襲警報が出た時に仏壇の前にいたので、目に付いたこれを思わず持って来てしまったのです」

「いいのよ、悪いと言っているわけではないの。でも戦死の公報が来たのだから、あなたもそれを受け入れた方がいいのよ」

 佐和子さんの優しい声は私の神経を逆なでした。

 夫は野戦重砲兵第一連隊に所属しており、開戦間もない頃はフィリピンに赴き、コレヒドール島攻略に貢献したと手紙も来たことが有ったのだ。

 その後、沖縄に転進したと便りがあり内地に戻ってきたからもうすぐ再会できるのではないかと期待していた矢先に、夫が戦死したと知らせが入ったのだ。

 私の夫の宗一郎さんが米軍の艦砲射撃を受けて所属部隊の十五糎榴弾砲とともに吹き飛ばされたのだと言われても、私は心の整理が出来なかった。

 遺骨すら見ていないのだから戦死の知らせが間違いで、宗一郎さんが何事も無かったように玄関の戸を開けて帰ってくるのではないかと、あり得ないことを待ち望んでいたのだ。

 しかし現実は厳しく、空襲は自分が住む町を避けてくれることはなく、はるか上空を飛ぶB29の轟音が次第に大きくなっていく。

 やがて、夏の日の夕立のような激しい音と共に焼夷弾が降り注ぎ始めた。

「わしは家の様子を見てくる」

 義父の正夫さんは気丈に防空壕の外に出てその蓋を閉じて行った。

 竪穴式の防空壕は雨が降れば水がたまるし、家の床下に掘られた壕はその上の家が焼けてしまえば中の人間は蒸し焼きになりかねなかった。

 義父の正夫さんは自宅に焼夷弾が落ちたら砂をかけて消化し、家人と家を守ろうとしたのだ。

 その日の空襲はなかなか終わらず、私と佐和子さん、そして背中に背負った宗太は次第に上昇する気温と、煙の混じった空気に呼吸さえも苦しく感じるようになっていた。

 しばらくすると、防空壕のふたが開けられ、消防団に務める隣人が叫んだ。

「まだこんなところに居たのか。この辺りは火の海だ。防空壕なんかに残っていたら蒸し焼きにされてしまうから早く逃げなさい」

 消防団の隣人は私たちに避難を促すとどこかに姿を消し、私が防空壕から顔を出すと周囲は火災の炎で赤々と照らし出されている。

 彼が逃げ遅れた人々の避難誘導のために危険を冒して燃える家々を回っていたことが理解できた。

「おとうさんは何処にいるのかしら」

 佐和子さんは、正夫さんの所在を確認しようとしたが私は、庭に倒れている義父の姿に気が付いた。

 義父の正夫さんは火災を消そうとしているところに焼夷弾の直撃を受けたのか頭から血を流して倒れており、焼夷弾が噴出する炎は彼の背中にも燃え移りつつあった。

 炎が照らす下で庭に流れた血の量を見ると到底義父が生きているとは思えなかった。

「早く火を消してあげないと」

 佐和子さんが正夫さんに駆け寄ろうとするのを私は歯を食いしばって引き留めた。

 焼夷弾は油脂でできており、飛び散った炎が服などに付着すると消すことは難しいと教わっていたからだ。

 燃える焼夷弾に接近すれば新たに噴出した油脂の火炎で義母までも火だるまになりかねない。

「お義母さん逃げましょう」

 私は宗太の身の安全を考えて佐和子さんを引きずるようにしてその場を離れた。

 しかし、私達は既に逃げ遅れた状態だった。

 住み慣れた街並みは業火に包まれ、焼夷弾の油脂を含んだ炎が付着して電信柱まで燃え上がっている。

 私は少しでも炎が少ないと思える都心とは逆の西の方に逃げようとした。

 しかし、燃える街並みからは猛烈な熱が発生し時折、焼夷弾から噴出した炎の塊が降り注ぐ。

 炎の中を並んで歩いていた佐和子さんはいつの間にか背中から炎に包まれていた。

 炎を叩き消さなければと思っても彼女は見る間に炎に覆われていく。

 気が付くと私は宗太を抱えて逃げていた。

 文字通り義母を見殺しにしたのだが、自分も遠からず同じ運命をたどることがわかってきた。

 私達は既に炎に包まれた街の中に取り残されており、何処まで行こうと炎の壁から逃れられないに違いない。

 私はほんの少し炎が少ない隙間を見つけると宗太を道路に寝かせてその上に覆いかぶさった。

「誰か助けて、この子の命を助けてくれたら私はどうなってもいい。お願いだから誰か助けて」

 既に自分の背中にも炎が燃え移っていたのだが、宗太を炎から守りたい一心で自分の炎を消すよりも子供を守る盾になろうとしていたのだ。  

 その時私の耳もとで誰かが囁く声が響いた。

「その願い聞き届けよう。そなたのこれからの人生を貰う代わりにその子供を助けてやる」

 その声は一度きりしか聞こえなかったが、私の周囲の情景は一変していた。

 私の前に存在した炎に包まれた町は忽然と消え、冷たい夜気に包まれた田舎の夜の風景に変わったのだ。

 そこにあるのは私が生まれ育った家で、大きな声で鳴き始めた宗太の声に気が付き私の両親と兄夫婦が相次いで玄関から出てきたのだ。

「淑子、淑子じゃないか」

 兄の声が遠くから呼びかけるように聞こえた時、私は意識を失った。

 そして、それ以来私は時の流れのない場所にはまり込んでしまったようだ。

 唐突に訪れた静寂の世界は永遠に続くかのように思われた。

 万年筆に染み付いた記憶の追体験が終わると僕は次第に本来の自我を取り戻していった。

 第二次大戦中の空襲体験は僕の心を蝕むようなものだったが、開かずの間にいた幽霊の素性はあらかた分かったような気がした。

「その通り!あなたの推測は正しいわ」

 僕が声のした方を振り返るとそこには仁美さんに雰囲気が似た二十代の若い女性が佇んでおり、その脇には淑子さんと思われる女性が畳に敷かれた布団に横たわっている。

 山葉さんは僕の横で茫然とした表情でたたずんでいるが、阿部弁護士と里香さんは彫像のように動きを止めて開かずの間の中ほどに立っていた。

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