第453話 逆テセウスの船?
僕の目の前で彼の崩壊は始まった。
膝をついた姿勢から立ち上がろうとした彼の右足は得体のしれない粒子をまき散らしながら崩れ落ち、左足も同様だった。
その時点で彼も自分の身に起きている異変に気付いた様子で僕に手を伸ばす。
「た、助けて」
しかし、僕に伸ばされた手は、ひじの関節から先が脱落して床に落ち粒子レベルで分解していく。
僕は彼に呼びかけようとして、言葉を飲み込んだ。
つい先ほどまで強力な敵としてイメージし、フルネームで思い浮かべたはずの彼の名前がどうしても思い出せなかったからだ。
「山葉さん、彼の名前を憶えていますか」
僕が問いかけると山葉さんは莉咲を抱えたままで首をかしげる。
「おかしいな。さっきまで名指しで呪詛を送ろうかと思っていたのに彼の名前も苗字も思い出せない」
その間も、「彼」の崩壊は進行しており、既に両足は脱落して形状が定かでない塊と化しているし、僕に差し伸べて脱落した腕も同様だった。
僕は彼の顔に目を向けて、その顔が既に個人として識別できるほどのディテールをとどめていないことに気づきゾッとする。
「彼」の崩壊はもはや僕たちが止め得る状況にあるとは思えず、辛うじて目や鼻、そして口の位置がわかる程度の顔から、微かに声が漏れる。
「莉咲」
「彼」の最後に残っていた腕も前に伸ばそうとたことで脱落し、その首ももげ落ちて床に転がった。
僕は彼が崩壊していく姿を莉咲に見せたくないと思い、山葉さんを振り返るが、山葉さんはむしろ莉咲が彼を見やすい位置に抱えているように思えた。
「どうして莉咲に見せようとするのですか」
「彼」は既に人の形をとどめておらず、バラバラになった各部が揮発するように消えていきつつあった。
山葉さんは消えていく「彼」を莉咲と一緒に見つめながらつぶやく。
「おそらく彼は自分の意識を過去に送り込んだことによるバタフライ効果で、その存在自体が抹消されてしまったのに違いない」
僕は「彼」が最後に莉咲の名を呼んだ事が微妙に腹立たしく、時間を遡ってまでストーカー行為に及ぶなど迷惑の極みと言ってもよいと考えていた。
「自業自得かもしれませんね」
山葉さんは僕の言葉を聞いて肩をすくめながら言う。
「その通りだが、彼にとっての最大の不幸は望んでもいないのに強力な精神感応力を持ってしまったことに違いない。そして彼はクラスメートを殺したことも気に病んでそれを是正する目的もあって過去に飛んだのだ。私は彼の冥福を祈ってやりたいと思う」
「それでは莉咲にこの光景を見せたのは何故ですか」
僕は重ねて山葉さんに尋ねたが、彼女はため息をつくと僕に答えた。
「莉咲は二度も時間を遡行して私たちの前に姿を現した。それは非常に危険な行為だ。莉咲にとって今見たことがはっきりと記憶に残るわけではないかもしれないが、時間遡行の危険性を目の当たりにさせたかったのだ」
僕たちの目の前で「彼」は文字どおり蒸発するように消えていきつつあり、もはや意思疎通も不可能だった。
山葉さんは、「彼」が突然崩壊し始めたことを、彼自身が過去に干渉したことによるバタフライ効果の影響だと決めつけているが、僕はそれについても懐疑的だ。
「彼」が完全に消滅してしまうと、僕たちの周囲に音が戻り、孟雄さんや裕子さん、そして祥さんも動きを取り戻した。
その三人にとっては、唐突に山葉さんが莉咲を抱えており、しかも莉咲が目を覚まして機嫌よく笑っている情景が目に飛び込んで来たのに他ならない。
「莉咲!」
「まあ、莉咲ちゃんが目を覚ましている」
孟雄さんと裕子さんは口々に莉咲の名を呼びながら、意識を取り戻した孫とそれを抱く山葉さんを囲んだ。
二人にしてみれば、孫の安否が第一でその過程については二の次なのかもしれない。
「ウッチーさんがあの影を退治したのですか?」
祥さんが憔悴した顔で僕に尋ねるが、僕は有りのままの状況を説明するしかなかった。
「あの影は、莉咲が高校生に成長した未来の同級生が、自分の意識だけを過去に飛ばしたものだった。彼は莉咲が物心つく前の時期に自分に対して好印象を抱くように意識を操作するつもりだったみたいだ。僕と山葉さんがそれを阻止しようと戦ったのだが、その途中で彼は崩壊するように消えてしまった。山葉さんが言うに彼が過去に干渉したことによるバタフライ効果で自分自身が消滅したのではないかと言っている」
祥さんは僕の話を消化しきれない様子で黙っていたが、しばらくして笑顔を浮かべた。
「じゃあ、とりあえず莉咲ちゃんを脅かす存在は無くなったのですね」
「結論としてはそういうことだね」
僕が祥さんに結論付けた時、山葉さんが振り返った。
「祥さん、私はなんだか気疲れしてしまったから、今日はお店を臨時休業にしようと思う。田島シェフと、アルバイトに来る予定だった小西さんに連絡を取ってくれないかな」
「わかりました」
祥さんはスマホを取り出すと手早く連絡を取り始め、僕自身もなんだか憑かれた気分で従業員用食事スペースの椅子に腰を下ろした。
結局、莉咲は目を覚ましたとはいえ念のために検査してもらうことになり、僕と山葉さんは予約した時間に病院に連れて行った。
検査の結果は予想した通り異常はないというもので、僕たちはホッとして自宅に戻ったのだった。
僕と山葉さんは朝方の「戦い」の余韻が残り、なんだかぐったりした気分で臨時休業にした店舗のテーブル席でへたり込んでいたが、臨時休業を宣言されて手持無沙汰な雰囲気の祥さんが姿を現して僕たちに告げる。
「山葉さんのご両親と一緒に駅前の通りでお茶をしていたのですけど、私たちがいた近くのカフェに誤発進した乗用車が飛び込んで大変なことになっていましたよ」
「そうか、中に居たお客さんに被害が無ければよいけど」
山葉さんはベビーカーで眠る莉咲の顔を見ながら気のない雰囲気で答える。
小さい子供を連れて出かけると何かと疲れることもあり、僕たちは二階の居住スペースに莉咲や荷物を抱えて階段を上るのが大儀になって一休みしていたのだ。
「それが、乗用車は完全に店の中に入り込んでいて、窓際の席にいたお客さんをなぎ倒したのです。その中には莉咲ちゃんくらいの赤ちゃんを連れた人もいて、母親は軽傷で済んだけれどお子さんが重体らしくて、裕子さんが他人事と思えないと言って悲しんでいました。その人がどうもこのお店の常連のお客さんだったみたいなのです」
山葉さんは驚いた様子で祥さんの顔を見つめる。
「莉咲と同じくらいのお子さんを連れた常連さんというと、角谷さんではないだろうか。ベビーカーを押して来店されたことが何回かあるので話をしたことが有るのだ」
山葉さんは現実的な話として身近に事故に巻き込まれた人がいることに驚いているのだが、僕は別のことが気になっていた。
「山葉さん、莉咲に付きまとっていた少年は角谷という苗字だったような気がするのですけど」
僕に指摘されて初めて山葉さんはそのことに気が付いた様子だった。
「そうか、角谷さんのお子さんが成長したのがあの少年だったとすればいろいろなことで辻褄が合う。彼は母親に連れられてこの店に来たことが有ったらしいし、角谷さんの住所ならば、小中学校の校区はこの辺りとは異なるので、高校に入学して莉咲と初めて会ったと言うのもうなずける。そして、先ほど彼が崩壊をし始めたのは私が今日はカフェを臨時休業にしようと思い立った時だったような気がするのだ」
「もしそうだとしたら、今日この店を臨時休業にしたことが、彼が消滅してしまった原因なのですね。角谷さんはこの店に来るつもりだったけれど、臨時休業だったので駅前のカフェに行きそこで事故に巻き込まれ、一緒にいた彼は命を失うことになった」
僕がさらに指摘すると、山葉さんは両手を口に当てて沈黙した。
祥さんは僕たちの気まずい雰囲気を察して提案する。
「臨時休業が原因だったら午後からお店を開けてはどうですか」
「いや、私たちの時間線で角谷さんが事故に巻き込まれてしまった後なので、それは効果がない。時を駆ける少年を救うには手遅れだな」
彼は莉咲に危害を加えかねない状況だったため僕たちは戦うことも辞さなかったのだが、自分のちょっとした判断が及ぼした影響で彼が跡形もなく消えてしまったと判ると山葉さんも複雑な心境のようだ。
祥さんは自分には理解しがたいことで考え込む僕たちを放っておくことにしたらしく話題を変えた。
「それはそうと、ウッチーさんはまた何かに取り憑かれていますね。さっきから気になっていたのですが、それは明らかに人魂ですよ」
祥さんが指さす先には青白い光の塊があり、それは僕の肩の辺りでゆっくりと揺れている。
「まて、それは「彼」の魂かもしれない。私がいざなぎ流の祭祀で送り出すことにしよう」
僕は山葉さんが何をしようとしているか理解できなかった。
「それをすることに何か意味があるのですか」
山葉さんは微笑を浮かべて僕に答える。
「早い話がこの魂を彼のお母さんのところに送ってあげたら、亡くなった彼の代わりに次に生まれてくる弟として生まれ変わるのではないだろうか。魂というものは人間の本質だ。その魂を似たような遺伝的形質を持った器に入れてしまえばほぼ同じ人間が出来上がる可能性が高い」
「テセウスの船の逆説みたいな話ですね。でも、僕は彼と同じ人間を再生産しないほうがいいと思いますけど」
僕はさりげなく反対の意思を告げる。
山葉さんは時として常人とは異なる発想で行動するため、僕は気が抜けない。
今回も、自分が人一人消してしまったことが後ろめたいのか、あるいは超絶的エスパーを再生産して再び対戦したがっているのか、いずれにしても理解に苦しむところだ。
「そう簡単に強力な異能力者が生まれるとも思えない。私はその魂をあるべき場所に返してあげたいだけなのだ。善は急げというから、早速いざなぎの間で祭祀を行うことにしよう」
山葉さんはベビーカーを押して店舗からバックヤードに向かい、僕は仕方なく彼女の後に続く。
成り行きを見守っていた祥さんは温厚な笑顔を浮かべて僕を見送った。
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