第429話 子供への想い
救急車の到着後雪ちゃんは母親の紗希さんを心配そうに見守っていたが、母親が搬送されても大泣きするわけでもなくしっかりした表情で周囲の大人の様子を窺っている。
遅れて到着した警察の青少年課の警察官にツーコさんが撮影した動画を見せて事情を説明すると、警察官も言葉を失っていた。
結局、緊急性のある事案として雪ちゃんは児童相談所が一時保護することになった。
僕と山葉さんは警察官に事情を聴かれた後、浄霊どころではなくなったからと美咲嬢のカウンセリングセンターを後にした。
僕は莉咲を乗せたベビーカーを押してゆっくりと歩き、山葉さんはベビーカーで眠る莉咲の顔を見ながら暗い表情でつぶやいた。
「人目を引くために自分の子供の意識がなくなるまで首を絞めるなんて」
莉咲は久しぶりに家の外に連れ出されて、刺激が多かったためかぐっすりと眠っている。
美咲嬢のカウンセリングセンターでの騒動が莉咲の記憶に残らないことを祈りながら僕はベビーカーを押している。
「ツーコさんは虐待の事実に気が付いて、証拠を押さえようとしていたのですね。動画を取っているときはすごく辛そうでしたよ」
「本当は雪ちゃんを助けるために駆け付けたかったのだね」
そこまでして撮影した動画や、その後の紗希さんの行動から警察や児童相談所も虐待の事実や母親の問題に気が付いた訳で、今後は母親のカウンセリングを始めたいと美咲嬢は話していた。
僕たちの職場であり住居も兼ねているカフェ青葉に帰ると、留守番をしていた山葉さんの母の裕子さんは僕たちの顔を見て眉をひそめた。
「まあどうしたの?お正月早々からお通夜のような顔をして。美咲先生のお宅に行って賑やかに過ごしたのではないの?」
「ん、賑やかではあったがあまり歓迎できない賑やかさだったからね。気分転換にお父さんの顔でも見ようか」
山葉さんは年末に彼女の四国の実家で一人居残っている孟雄さんにウエブ会議用のソフトを使えるように環境設定をしていたのだ。
ラップトップパソコンと、マイクとヘッドホンのセットを通販サイトで購入して直送してあったものの、セットアップが大変だったのだ。
山葉さんがスマホで彼女のお義父さんを呼び出してラップトップを使うように指示し、Web会議用アプリを立ち上げると、僕たちが見つめる液晶には彼女のお父親の孟雄さんとその背景に見覚えのある四国の風景が映し出された。
「お父さん外にいるの?」
「そうだよ。うちの庭を見せてあげようと思ってね」
山葉さんが問いかけると、孟雄さんはWebカメラで周囲の光景を移して見せる。
彼女の実家は山の上にあるため、背景には四国の山並みや空も映り込むが、その合間に茶色い毛並みの動物がちらっと映り込むのが見えた。
「お父さん庭に何かいるよ」
山葉さんが指摘すると、孟雄さんは口笛を吹き、次の瞬間には孟雄さんは茶系の毛並みの狼のような犬と並んで画面に収まっていた。
「お隣が、銃を使うイノシシ猟から引退したので、猟犬が二頭もいらなくなったから飼わないかと言ってくれたんだ。おかげで寂しくないよ」
画面に移り込んでいたのは、山葉さんのお隣が飼っていた土佐日本犬のセイラとカイのコンビの片割れのカイだったのだ。
「カイ、私がわかる?」
ラップトップパソコンの液晶の中で孟雄さんと並んだカイは舌を出して小刻みに息をしており、尻尾を振っていることを伺わせる。
僕たちはウエブカメラを莉咲に向けて、孟雄さんに莉咲の顔を堪能してもらった。
そして、他愛のない会話を続けるうちに、先ほどの記憶の毒気が抜けていくのを感じる。
その日の夜、山葉さんはベビーベッドで眠る莉咲の顔を見ながら自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「親バカなのはわかっているけれど、自分の子供は世界一可愛いし、何か新しいことが出来るようになればすごく嬉しいものだよね」
「普通そうですよ」
僕たちはあまり紗希さんのことには触れずに、自分たちの感覚を確かめるように会話を交わしてから眠りについた。
その夜、僕は夢を見た。
一般的にお正月の元旦の夜から翌日の朝までもしくは二日から三日の朝にかけて見る夢を初夢と言うようだが、僕の初夢は不幸にして僕の潜在意識が紡ぎ出した夢ではなく、何者かの意識が僕に入り込んだことによって見たものだと思えた。
何故なら夢の中のぼんやりとした意識の中で僕は健康診断で要再検査の通告を受け、病院の待合室に座って検査を受けた後の結果待ちでまんじりともせずに座っているところであり、しかも自分が二十代後半の女性だという認識があったからだ。
待合席は込み合っていて、朝からいくつかの検査を受けて、検査の結果待ちの状態でもうお昼になろうとしている。
どうせ仕事を休んで病院に来るなら娘の紗希を病院に連れて行きたかったのにと恨みがましく考えながら病院の受付を眺める。
娘の紗希は四歳になるが、落ち着きがなくじっとしていられないうえ、おとなしくすることを強要すると叫びだしたりするのが気になっていたし、話しかけても今一つコミュニケーションをとりづらいような気がしている。
夫は、バブルの崩壊とかで、仕事が多忙を極めるのとは別の意味で大変らしく、帰宅時間も遅いため、紗希のことを相談したくても話を切り出しづらい。
紗希が巷でよく聞くキレる子供にならないように早めに精神科に相談した方が良いのだろうかと一人で悩んでいたのだ。
「河村沙織さん第一診察室にどうぞ」
私は受付に呼ばれて我に返り、とりあえず診察室に向かった。
診察室では若い医師が、X線写真を透過光で見やすくするパネルに張って待ち構えていた。
医師は私の顔を見てから、口を開きかけたが、逡巡するようにカルテに目を落としてから再び目線をあげて私に告げる。
「河村さん、本日精密検査を受けていただいたのですが、検査の結果左の乳房に影があり、病理検査の結果、癌細胞だと確定しました」
私は彼の告げる言葉が咄嗟に理解できなくて無言で医師の顔を見続けていたに違いない。
医師は無言の私にさらに続けた。
「癌細胞は三センチメートルほどの大きさですが、周辺のリンパ節に転移している可能性もありますので、早急に手術を含む治療を受けることをお勧めします」
その後、医師はカルテとエックス線写真を手早くまとめ、封筒に入れた書類と共に私に手渡し、私は外科病棟に送られた。
幸か不幸か外科病棟も執刀医の予定も空いていたとのことで、私は数日後には手術を受けることが出来たのだが、結果はあまりよくなかった。
手術の傷も癒えないうちに、ガン細胞の肺転移が発見され抗がん剤による治療をけることになったのだ。
このまま、家に帰れないのではないかと、心細くなっている時に、新たに着替え等を運んで来た夫が娘の紗希を連れてきた。
「お母さん早く良くなってね」
私のベッドの横に立った紗希がたどたどしく私に語りかけたので、私は不覚にも目から涙があふれてしまった。
自分の癌が治癒する可能性が少ないことを自覚し、死の恐怖が心を締め付けていたところに娘の紗希の声が不意打ちのように飛び込んだためだ
「ありがとう紗希ちゃん」
私はベッドから起き上って娘を抱きしめた。
他の子供と違うところがある娘が自分を気遣ってくれたのがうれしいのと共に、娘の行く末についての様々な心配が心の中に渦巻いていく。
この子の傍にいてあげなければならないのに、もうすぐ自分の命が尽きるかもしれないという予感が私を打ちのめす。
すがるような思いで夫の顔を見ると、彼は私の想いを理解したように涙を浮かべて言った。
「当分の間、紗希のことは僕の母が見てくれるよ。君は頑張って治療に専念してくれ」
私と夫には多くの言葉が無くても相手のことがわかるだけの絆があったのであり、私は夫に感謝するべきだった。
しかし、紗希の将来に対する心配は私の心から離れず、もしも死んだら天国から見守ってやらなければならないという思いは日増しに強くなっていった。
そして、肺に転移した癌細胞は情け容赦なく私の体を蝕み、抗がん剤治療が効果を上げる暇もなく私の命は尽きたのだった。
息苦しくなって僕は目を覚ましたが、隣で眠っていた山葉さんもうなされているようすだった。
僕が揺り動かすと彼女は目を覚ましたが、その顔は汗にまみれており、落ち着きなく周囲を見回す。
やがて僕の顔を認めた彼女はホッとしたように大きな息をついた。
「昼間会った紗希さんの母親になった夢を見ていたのだ。彼女はがんに侵されて紗希さんを気遣いながら亡くなったのだ」
「僕も同じ夢を見ましたよ」
僕が告げると山葉さんは、納得した様子で僕を見た。
「なるほど、彼女の霊は霊感が強いウッチーに入り込み、ウッチーが見た夢を私も同床同夢で体験したわけだな。あの霊の姿を見失った時にもっと注意を払うべきだった」
山葉さんは悔しそうに話すが、僕には気がかりなことがあった。
「彼女は死ぬ前の思いが強かったために紗希さんに縛り付けられているが、現在の彼女の状況などは感知することが出来ないのですね」
山葉さんは暗い表情でつぶやいた。
「多分そうだ。何とか紗希さんが成人して子供もいることを教えてあげたい気もするがその反面、紗希さんの雪ちゃんに対する虐待については教えたくない」
僕は彼女の考えに賛同したいものの、沙織さんの霊自体が見えないのではどうにもならないと思いながら何気なく部屋の中を見回した。
そこは僕たちの居室なのだが、いつもとはどこか雰囲気が違い、その最大の原因に気づいた僕はベッドに上体を起こした。
「山葉さん、莉咲のベビーベッドの横に彼女がいる」
山葉さんの反応は早く、ベッドの上に立ち上がって霊を凝視する
子供が出来て以来彼女は髪を少し短くしたのだが、その髪の毛がふわりと逆立つのが見えた。
「莉咲に触るな!」
山葉さんは霊に向かって叫び、つかみかかりそうな勢いでベッドから跳躍したのだった。
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