第412話 彼の菩薩像

結局、榧の木の丸太一本を僕と隆夫さんが一緒に担いで山を下りたが家に帰りつく頃には、怪我をした慶臨さんの手を包んだ彼の手ぬぐいは血で染まっていた。

お七さんは心配そうに慶臨さんの手を清めるとハマグリの貝殻に入った軟膏を塗ってさらしを巻く。

この時代の治療法はその辺りが精一杯に違いない。

「すいません。僕の不注意のせいでこんなことになってしまって」

隆夫さんは責任感が強いらしく山を降りる間も謝りとおしで、ひどく憔悴した顔をしている。

「もうよい、これはそなたのせいではなく事故なのじゃ。これ以上気にする必要はない。しかし、」

慶臨さんはそこまで言ってから隆夫さんの顔を見てにやりと笑い、隆夫さんは硬い表情で言葉の続きを待っている

「そなたは祖父が仏像を作っており、自分も作るように言われていると申しておったからわしの手が治るまでは代りに仏像を作ってもらおうか」

隆夫さんはさらに顔色が悪くなる。

「でも、僕は仕事として仏像を彫っていたわけではないので、慶臨さんの意向に沿えるような仕事ができるとは思えないのですが」

隆夫さんは謙遜して見せるが、慶臨さんは彼の言葉など一顧だにせずに告げる

「それはわしが決めることじゃ。差し当たってお七が参加を決めた天下一の仏像を決める大会とやらのための仏像を仕上げねばならぬし、麓の寺から頼まれて新たに着手するべき像もあるので、わしが指図する故言われたとおりに手を動かしてもらおうか。詫びるつもりがあるならば、そうしてくれることがわしにとっては最もありがたいことなのだ」

隆夫さんは俯いて考えていたが、やがてゆっくりと答えた。

「わかりました。精一杯やらせていただきます」

慶臨さんは満足そうな笑顔を浮かべると僕に振りむいた。

「おぬしには当初の予定通り、榧の木の丸太を運んでもらおうか昼飯を食べたら一人で行ってくれ」

「はい」

僕は返事をしたものの、一人で丸太を運ぶのは重くて大変だと心配だ。

慶臨さんは僕の考えを見透かしたように言った。

「丸太は皮を剥いてから製材するので少々引きずったところで構わぬが、谷に落として無くすのはいかぬぞ」

僕は、迂闊なことをすれば運んでいた丸太を急斜面の谷底まで落としてしまうことに思い至って慌ててうなずいた。

もう昼時になっていたため、僕たちはお七さんが用意した昼食を食べたが、この時代の人にとっては食い扶持が二人増えるということは相当な負担かもしれないと気がかりだ。

食事を終えた慶臨さんと隆夫さんは一緒に土間にある仏像の仕上げに取り組み、僕は一人で再び山の中腹にある丸太を運びに出かけることにした。

出発する間際に慶臨さんと隆夫さんの様子を窺うと、慶臨さんは鑿と槌を手にした隆夫さんに指示をして仏像の仕上げ作業に取り組んでいた。

そして僕は一人で丸太を搬出する作業に向かった。

お七さんは丸太を乗せて搬送するそりのような物を貸してくれたが、斜面の状況によっては時に、重い丸太を担ぐ必要もある。

夕刻になって丸太を慶臨さんの家に運び込んだ時には僕は疲労困憊していた。

僕が丸太運びにいそしんでいる間に、慶臨さんと隆夫さんは仏像の仕上げ作業をかなり進めた様子だった。夕食の時間に囲炉裏を囲むと慶臨さんは機嫌よく話を始めた。

「榧の木で手を挟んだのは運が悪かったが、助っ人が二人いるおかげでわしの普段の二日分の仕事がこなせた。禍福はあざなえる縄のごとしと言うがその通りじゃな」

昨日同様の質素な食事を口に運んでいた隆夫さんは慶臨さんの言葉を聞いて慌てて顔をあげた。

「ぼ、僕が仏像造りの役に立っているのですか。僕は祖父に叱られてばかりで仏像造りに関してはまともな仕事なんかできていないと思っていたのに」

隆夫さんは慶臨さんの言葉が信じられない様子で口ごもるが、お七さんは微笑を浮かべて彼に答えた。

「私も出来栄えを見たが、そこそこの腕をしておられる。おじいさまは厳しい方じゃの」

隆夫さんは何も言わないが、どことなく嬉しそうな表情を浮かべてご飯を食べ始め、慶臨さんはそんな隆夫さんの顔を見ながらおもむろに言った。

「今日仕上げた仏像はお七が申し込んだ天下一仏像の会に出すことにしよう。それとは別に、わしの作業場に粗削りにした仏像がある。隆夫殿にはその仏像を仕上げてもらおう。但し、その仏像の顔をわしが作る仏像に似せることは罷りならん。おぬしが思うところの菩薩様の顔に仕上げるのだ」

隆夫さんがお箸を持つ手が止まり、助けを求めるように僕を見た。

「僕は祖父が作った像や祖父のスケッチのイメージしか思いつかないのですが、その菩薩像と言うのは慶臨さんが作る像にそっくりなのです。どうしたらそのイメージから離れて自分の菩薩像なんて考えられるのですか」

僕に聞かれても答えが出ないのはわかっているはずだが、それでも彼は僕に聞かずにはいられなかったようだ。

僕はありきたりと分かっていても常識的な答えをするほかなかった。

「それは、自分のイメージを形にしていくしかないのではありませんか。菩薩像というのは出家前の釈迦のイメージだとされていますが、釈迦の姿を像にすること自体がしばらくの間タブーとされていたこともあって、その姿は観念的なものにならざるを得ないのです」

僕は大学で習った乏しい知識で隆夫さんに解説するがとどのつまりは製作者のイメージ力によるものが大きいのだ。

「ほう、徹殿はなかなかに詳しいようじゃ。それでは隆夫殿は明日から自分の菩薩様の製作に罹っていただき、徹殿はわしと共に材の運搬と伐採をしていただこう」

僕はまた丸太運びかと思うとげんなりしたが、この状況では否も応もない。

そして、翌日から隆夫さんは自らがイメージする菩薩像の製作に取り掛かった。

それは彼にとって初めての取り組みであり、菩薩像の製作に行き詰っている様子が朝に夕に見て取れた。

思い余った隆夫さんは滝に打たれようとして気を失い、お七さんが滝壺から引き上げたこともあり、夜半に僕と一緒に寝ている納屋から抜け出して夢うつつの状態で歩き回ろうとするので僕が連れ戻したこともあった。

それでも、数日後には彼の仏像は仕上がり慶臨さん一家や僕の前にお披露目されることとなった。

僕は作業場で隆夫さんが仕上げた菩薩像を目にして、何となく既視感を憶えたが、やがてその像が祥さんの容貌に似ていることに気が付いた。

僕は、彼の煩悩が形をとったような菩薩像が果たして慶臨さん達の目にどのように映るかを考えて気が気ではなかった。


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