第408話 時と空間を超えて
僕は詠唱を続ける山葉さんを振り返ったが、彼女は神楽を舞いながら僕たちを心配そうに見ていた。
まだ祭文を全て唱えていないため、僕たちに霊が迫っても浄霊することは出来ないらしい。
菩薩の姿をした霊がさらに接近するのを見て僕は無意識のうちに隆夫さんと霊の間に入っていた。
「あ、あの何が起きているのですか」
隆夫さんは感が良く、僕が霊と対峙していることを薄々感づいているようだ。
しかし、本当のことを言えば先ほどのように絶叫をあげて怖がることは眼に見えているので迂闊なことを話すわけにはいかない。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
僕が思わず口にしたのは「大丈夫ですよ」という言葉だった。
何故その言葉が出て来たかというと、僕は大学の学部生の時に救急救命講習を受けたことが有るのだが、その時の講師の先生がAEDを使う時に患者さんに意識が有れば、「大丈夫ですよ」と言って励ましてあげましょうと言ったのが記憶に残っていたからだ。
不幸にして僕も心停止に近い状態で救急搬送されたことがあるが、その時意識が戻って最初に聞こえたのは看護師さんが「大丈夫ですよ」を連呼している声で、僕は安心するよりむしろ自分の身が危機にさらされていたことを自覚したのだ。
そんなことを思い浮かべている間に問題の霊は間直に迫り、僕が後ずさりすると背中が隆夫さんに触れたのがわかる。
僕が無意識に腕を前に出して霊の接近を遮ろうとした時、白い閃光と共に強い衝撃を受け、僕の意識は薄れていった。
気が付くと僕は生い茂った笹に埋もれるようにして倒れていた。
倒れたまま見上げると、そこは下生えに笹が生い茂った森の中で、広葉樹の巨木が幹を伸ばしはるか上の樹幹で揺れる葉の間から木漏れ日が差している。
森の中は静寂で遠くからモズの高鳴きがかすかに聞こえていた。
ここは一体どこなのだろうと考えながら僕は半身を起こした。
視点が高くなると、なだらかな山の斜面をブナのような広葉樹の森が広がっているのが見え、下生の笹は斜面を覆いつくしている。
僕が途方に暮れていると、すぐ近くから大きな声が響いた。
「うわああああああああ」
ひとしきり叫ぶとその声は止みゼイゼイと荒い息をする声が聞こえる。
「隆夫さんそこに居るのですね」
僕が声を掛けると笹原の中に隆夫さんの上半身が覗き、彼も僕と同様に笹原で意識を取り戻したに違いないと推察が付いた。
「ちょ、ちょっと、ここは一体どこなんですか。さっきまで僕たちは下北沢のカフェにいたでしょ。何ですかこれ、僕たちに異世界転移とかその類の異変が起きたってことですか?」
隆夫さんは僕を見つけたので疑問の全てを僕にぶつけているが、何もわからないのは僕も同様で答えるべき知識は何も持っていない。
「僕もわからないのですよ。霊に引きずられて精神世界にトリップしたのかそれとも僕たちの肉体そのものが瞬間移動したのかも判別できないのです」
「精神世界って夢みたいなものでしょう?ここはどう見ても森の中だし、さっきは笹の葉っぱが冷たくて湿っているのも感じたくらいだから僕たちがどこかに飛ばされたのではないのですか?」
隆夫さんは少し落ち着きを取り戻した様子で、その考え方はもっともだが、僕はそうとは限らないことを知っている。
「僕は覚醒夢を見たことがあり、夢の中で転んで倒れたら、ぶつけた膝は痛くて血が出るし、道路のアスファルトの冷たくてごつごつした感触もしっかり再現されていました。でもそれは夢だったのです」
隆夫さんは途方に暮れたように周囲を見渡すばかりだ。
僕は身を刺すような寒さを感じ、同時に空腹も覚え、隆夫さんを振り返った。
きっと彼も同じように感じているに違いない。
「少し歩いて、周囲を探ってみましょう」
「え、でもここから離れて戻れなくなったらどうするのですか。ここが元の世界に戻れるポイントだったらむやみに歩いたらわからなくなっちゃうでしょ」
心配性らしい彼の言う事にも一理あると僕は思い、とりあえずできることをすることにしてポケットからハンカチを取り出し、一番近くのブナの木の僕の目線くらいの高さにある小さな枝にハンカチを結び付けた。
そして足元の笹原に落ちているとがった小石を見つけて拾った。
「ハンカチで目印を付けましたよ。これから歩いて行く時に、十メートルおきくらいに木の幹に傷を付けておけばどうにかこの場所に戻れるはずです」
僕の提案に隆夫さんもうなずき、僕たちは当てがあるわけでも無いが、人里を求めて山の中を歩き始めたが、僕が斜面の上に向かって登り始めて三歩も歩かないうちに隆夫さんが呼び止めた。
「人がいるところに行くには下に降りて行けばいいのではありませんか」
僕は、最近木綿さんや鬼塚さんに教わったセオリーを披露することにした。
「斜面の下に歩くと山裾はどんどんひろがっているので、人里離れた谷に入り込んで身動きが取れなくなる可能性があるのです。逆に上に登れば最終的に頂上に収束していくので、少なくとも一番高い頂上に行けばそこでちゃんとした道に出会える可能性が高くなります」
「なるほど、それは理屈ですね」
隆夫さんも納得して、おとなしく僕の後に続いて斜面を登り始めた。
笹が生い茂る斜面は次第に斜度が急になり、僕たちは息が切れ始めたが、やがて斜面を横切る道に出会った。
「これって道ですよね。この道を下っていけば街に出られるのではありませんか」
「そうですね」
今度は、隆夫さんが先に立って道を辿り始め、僕はその後に続いた。
笹原を歩くのに比べて、道は歩きやすく行程ははかどる。やがて僕たちは笹原を抜けて足元に落ち葉が敷き詰められた林に入ったが、そこで道らしきものは途切れた。
「なんで?道に沿って歩いてきたのにどうしてここで途切れるの?」
隆夫さんが途方に暮れたようにつぶやき、僕は道の痕跡を探して地面に顔を近づけるが、その辺りに丸い小さな糞が固まって落ちているのを発見した。
「もしかしたらシカが使う獣道だったのかもしれない」
僕は恐る恐る隆夫さんの顔を見た。
彼が恐慌を起こしてわめきだすのではないかと心配したのだが、意外と彼は持ちこたえている。
「ぼ、僕は寒くてお腹がすいているんですよ。頑張ってもう一度道を探しましょう」
彼は落ち葉の斜面を再び登り始め僕もその後に続く、しばらく上ると再び斜面を横切る道に出会った。
「これも、シカさんの道ですかね」
隆夫さんが辟易した表情で斜面を横切って続く道を見つめ、僕は道の詳細を観察した。
よく見るとその道は斜面に踏み跡が付いただけではなく、斜面を切り取って歩きやすくした痕跡がある。
「これは、人がつけた道みたいですよ」
「本当ですか」
隆夫さんは嬉しそうな表情に変わって僕に尋ねる。
「ええ、とりあえず道沿いに歩いてみましょう」
僕たちは再び歩きはじめ道は確実に山の麓へと下っていくように見えた。
「この分ならもうすぐ街に出られそうですね」
僕は隆夫さんの問いに無言でうなずく。
歩いているので寒さはあまり感じないが日暮れまでに人里に出ないと上着も着ていない僕たちは飢えと寒さで一夜をしのぐことすら難しい。
しかし、順調に下っていた道は谷に降りて大きな滝とがある場所にたどり着いていた。その対岸に道は見えるが再び険しい山を登っていく道となり、谷の下流も両岸にそそり立つ山に囲まれて曲がりくねって続いている気配で人里は見受けられない。
隆夫さんは絶叫をあげる代わりに、力なく滝つぼの傍の岩に腰を下ろした。
「もう僕は駄目です。ここに置いて行ってください」
彼を捨てて行く訳にはいかないし、僕自身何処に向かえばよいかもわからない。
その時、僕たちの背後から声が響いた。
「おぬしたちこのような所で何をしておるのだ?」
僕は周囲に人などいないと思っていたので驚いて振り返った。
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