第374話 日本人の現地ガイド
「ここがバリ島を思わせる風景なのは私にもわかるが、私たちが生活している時間のバリ島ではないはずだ」
山葉さんが断定的に語るのを聞いて僕は疑問を口にした。
「どうしてそんなことがわかるのですか」
「実は私は、コロナウイルスの感染が再び激しくなってカフェの営業が出来なくなったらお店の営業をあきらめてバリ島にバカンスに行こうかと思って調べたことがあるが、現地の情報ではバリ島は2020年末までは外国人の観光客の受け入れはしないと決定している。それ故ここはバリ島に似たどこか別の世界か、あるいは時間を超えた過去や未来のバリ島だと思う」
僕は、ビーチの沖合に見える島とその周辺にいる人々の様子を眺めた。
地元のバリヒンディーの信者に交じって明らかに欧米系やアジア系の外国人もそぞろ歩いており、現在のバリ島が外国人の受け入れをしていないとすれば、僕たちが目にしているのは別世界の光景だという山葉さんの推論は正しいと思えた。
「それでは、僕たちはどうすればいいのですか」
僕が尋ねると山葉さんは肩をすくめた。
「私たちがここに飛ばされたのは、栗田准教授の執務室に現れた男性の霊に触れたためだだ。すなわちこの世界にいるあの男性を見つけたら元の世界に帰る糸口がつかめるはずだ」
僕たちの会話を聞いていた裕美香さんは遠慮がちに口をはさんだ。
「その男性ってどんな雰囲気なのですか」
彼女の気がかりそうな表情を見て僕は男性の容貌や服装を思い出そうとするが、人の記憶は意識して見た部分は思い出せても何となく見た対象の詳細を思い出せる人は稀にしかいない。
「中肉中背の初老の男性としか思い出せないけど、頭髪はほとんどが白髪になっていたかな」
山葉さんがくすっと笑うと付け足した。
「強いて言えば、ツイードのジャケットみたいなのを来ていたから暑苦しいなと思ったのを憶えている」
僕と山葉さんが挙げたのは特徴と言えるほどではないが、裕美香さんは考え込むしぐさを見せた。
「白髪頭でツイードのジャケットを着ていたのですね」
「何か心当たりでもあるのですか」
栗田准教授が尋ねると裕美香さんは首を振る。
「いいえ、別に」
栗田准教授がさらに裕美香さんに尋ねようとした時、背後から明るい雰囲気の声が聞こえた。
「日本人の方ですか?よかったら格安料金でこの周辺のガイドを引き受けますよ」
僕たちに声を掛けたのは二十第前半に見える日焼けした青年だった。
「あなたも日本人ですよね」
栗田准教授が人懐こい笑顔を浮かべて問いかけると、青年は嬉しそうに答えた。
「そうなんです。大学を休学して働きながら放浪の旅をしているんですよ」
栗田准教授は驚いた表情で青年に尋ねる。
「それは大学が閉鎖されたとかそんなことが影響しているのですか」
「いいえ、バブルの崩壊の影響で就職戦線が冷え込んでいるからワンクッションおいて、ソフトランディングできないか模索しているっていうか」
栗田准教授と青年の会話はかみ合っていないが僕は気づいたことが有ったので山葉さんに耳打ちした。
「今バブルの崩壊で就職がないみたいなことを言っていましたよ」
「私も聞いた。もしその通りならば、私たちは20年以上前の世界に飛ばされたわけだな」
僕と山葉さんがひそひそ話をしながら様子を窺っている前で、青年は屈託のない表情で栗田准教授と話をしている。
栗田准教授はフィールドワークに出かけて聞き取り調査をする機会も多いので、初対面の人とコミュニケーションする能力は極めて高い。
それゆえ、声を掛けてきた青年と周辺の地名を織り交ぜながら情報を交換している様子だ。
「ところで、あなたたちは何処のホテルに泊まる予定なのですか」
「いや、私たちはホテルの予約はしていません」
栗田准教授の答えを聞くと青年はあきれたように僕たちの顔を見比べる。
「それは大変ですよ。デンパサールまで戻ればホテルもたくさんあるけど、一時間くらいかかりますからね。デンパサールで夕方になってからホテルを探すよりもこの辺の民宿みたいな小さなホテルを紹介しましょうか」
こうなると世慣れた栗田准教授の判断を尊重したい訳で、僕と山葉さんは栗田准教授の顔を見た。
「そうですね。折角、旅先で日本人のガイドさんに会えたのだから、お言葉に甘えて紹介していただきましょうか」
「それでは、ご案内しますからこちらにどうぞ」
僕たちは夜の大学のキャンパスからこの世界に飛ばされたので現地時間がわからなかったが午後の遅い時間のようだ。
僕たちはビーチから内陸に入り幹線道路に出たが、案内を買って出た青年は僕たちにそこで待つように指示した。
「知り合いのホテルに行って空室があるか確認してきます。十分で戻るから待っていてください。僕のことは正志と呼んでくださいね」
正志さんは道端においてあったスーパーカブのエンジンをかけると、ヘルメットもかぶらずにシートにまたがって走り去った。
「このまま、彼が紹介してくれたホテルで一夜を過ごすことになるのでしょうか」
僕は山葉さんに小声で問いかけた。
タヌキに化かされる昔話もあるが、このシチュエーションで向こうから接触してきた相手の言いなりに宿泊することに不安を感じたのだ。
「ふむ、その懸念は理解できるが私たちはこの世界から脱出しなければならない。予定調和的なシナリオが用意されていたとしても、あえてそこにトライしなければ脱出するための糸口はつかめないはずだ」
山葉さんは僕の問いに答えると次第に傾いて海に沈もうとしている太陽を眺めた。
ここがバリ島だとすればその海はインド洋のはずだ。
「それではあえて、相手が勧めるシナリオに乗って、情報を収集するということですね」
山葉さんに念押しすると、彼女は微笑を浮かべる。
「そうだね。もしも問題のホテルにスパやマッサージがあればチャレンジしてみよう」
山葉さんは度胸があるので、すっかりバリ島の観光スポットというシチュエーションに馴染みつつあるようだ。
しばらくすると僕たちの前に、ボロボロのワゴンが止まった。
キャブオーバータイプと呼ばれる日本製のワンボックスカーで正規の乗員は9人程度の車だが、外装の鉄板はボコボコにへこんで錆が浮いている。
停車したバンの運転席から正志さんが飛び降りると僕たちに告げた。
「これは路線運行用の「アンコット」ですが、開店休業中の車両をチャーターしてきました。どうぞ乗ってください」
正志さんに勧められるままに、再度のドアを開けようとしたが、それは立て付けが悪く、ドアを開けるのに相当な力を要した。
車内は相当に改造が施されており、普通のシートは撤去され、車体の外板に沿ってベンチ
状の座席が作られていた。
満員電車風に人を乗せたら相当な人数が運べるはずだ。
「路線運行用な車両なのに開店休業ってどういう事でしょうね」
「お客が少ないと思ったらお休みにしてしまうのだろう。几帳面な日本人の感覚とは違うのだ」
僕と山葉さんが小声で話す間に、栗田准教授と裕美香さんは車両に乗り込んでいる。
山葉さんは車両に乗りながら運転席に着いた正志さんに聞いた。
「チャーターしたと言われたが、料金はいくらになるのかな」
「5万ルピアでいかがですか」
僕はいきなりルピアと言われても単位がわからない。
「ルピアの持ち合わせがないから、三百円ではどうかな」
山葉さんは財布から百円玉を三枚取り出しながら正志さんに尋ねる。
「もちろんいいですよ」
正志さんは山葉さんから硬貨を受け取ると、鼻歌を歌いながら運転を始めた。
「現行紙幣のほとんどは2004年に新しくなっている。五百円玉ですら2000年発効だから百円玉で支払うのが無難だ」
僕は二十年前の世界だと想定して使用する通貨を選び、ルピアとのレートまで計算している山葉さんに感心したが、当の本人は夕暮れの気配が訪れた南国の海岸の風景を夢中で眺めていた。
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