第372話 リモートアクセスの女

「どこに行ったのでしょうね。確かこの廊下に入ったと思ったのに」

僕がつぶやく間も山葉さんは周辺に目を走らせていた。

「あそこだ」

彼女が指さしたのは廊下の窓から見える外部の道路だった。

街頭の光を受けて髪の長い女性が足早にキャンパスを歩いて行くのが見える。

そして、その女性は顔つきやカジュアルな出で立ちから高校生ではないかと思えた。

「もう建物の外まで出ているのですね。私達も追いかけましょう」

栗田准教授は先頭になって手直にある階段を駆け下りていき僕と山葉さんもそれに続いた。

「走って追いついたら、相手に不審に思われませんか」

僕が尋ねると、栗田准教授は速度を落とさないまま僕の問いに答える。

「コロナウイルス対策で閉鎖されたキャンパス内に高校生が立ち入っているとしたら、取り敢えず追いついて事情を聴くことが優先です。それにしても一瞬の間にあんなところまで移動したなんて信じられないくらいですね」

栗田准教授と僕は自分のIDカードで建物の出入り口のドアを開け、山葉さんもゲスト用カードをかざしてそれに続く。

建物外の通路に出ると、僕たちは栗田准教授を先頭に走り始めた。

先行していた女性は僕たちの足音に気づいて振り返り、三人の男女が血相を変えて追ってくることに気が付くと自分も走り始めた。

彼女は足が速く僕たちをあっという間に振り切りそうだったが、彼女が目指していたキャンパス外に通じる門は時間が遅いためにクローズされていた。

栗田准教授の執務室がある辺りは、少なくとも通路に照明が灯っていたが、キャンパスのはずれまで来ると、照明すら消されている。

僕たちが追っていた女性はクローズされた門をあきらめて、別の出口を目指して再び走り始めたが、通路と歩道の段差に気づかずに躓いて転倒した。

前のめりに転倒してた女性は自分が走っていた勢いも手伝って、したたかに路面で膝を打った様子で、すぐに動くこともできずに倒れている。

「大丈夫ですか」

僕は女性の横に駆け付けて助け起こそうとしたが、女性は大きく息を吸い込んでから叫び始めた。

「誰か助けて、怪しい人たちに襲われる」

人気のないキャンパスに女性の声が響き渡った。

僕は助け起こそうとして伸ばしていた手を思わず引っ込めてしまい、女性の動きを窺うことしかできない。

女性が叫び続けて息が切れ、呼吸を整えて再び叫ぼうとした時に、山葉さんは女性の口を手で押さえた。

「私たちは大学の関係者です。あなたは中・高校生に見えるけれど、どうやってセキュリティーが施された大学の建物に入れたか終えてもらおうか」

女性はなおも叫び声をあげようとしていたが、山葉さんの手が口を塞いでいるために断念したようだ。

少し落ち着いた様子で身じろぎしたときに、山葉さんは頃合いだと思ったのか彼女の口を押えていた手を離した。

「私は大学に許可をもらって立ち入っているのです。通りがかりのあなたたちにとがめだてされる言われは有りません」

「ほう、どうやって大学の庁舎管理者に許可を貰われたのですか?相応の理由がなければ、このご時世に閉鎖中の大学の建物に入り込むと言うのはなかなかできないはずです」

山葉さんが重ねて尋ねると女性は大きくため息をついてから僕たちに答える。

「私はこの大学に勤務しているから用務があれば建物に入れてもらえて当然でしょ。栗田准教授も相応の用事があるから管理セクションに許可を得てキャンパスに立ち入っている訳でしょう」

女性は栗田准教授を見知っている口ぶりだが、外見の幼い雰囲気と大学に勤務しているという彼女の説明はちぐはぐな印象だ。

「栗田准教授、この方をご存じなんですか」

僕が尋ねると、栗田准教授は女性の顔を覗き込み、しばらく考えていたが、やがて首を振った。

「私の知り合いではありません。あなたは何故私のことをご存じなのですか」

栗田准教授は逆に女性に問いかけるが、女性はそれには答えずに立ち上がった。

「あなた方が、急に駆け寄って驚かすからつまずいて転んでしまい、膝をすりむいて痛い目に遭わせてしまったではないか。どうしてくれるんだ」

立ち上がった女性は膝上丈のスカートから覗く白い脚の膝小僧に血がにじんでいるのを指さした。

「大変だ。すぐに消毒しなければ。栗田准教授の執務室に行けば救急箱くらいありますよね」

山葉さんが女性の膝小僧をウエットティッシュで拭ったが、山葉さんが持っていたのはエタノール入りの除菌用ウエットティッシュだったためエタノールが染みたのか女性は顔をしかめる。

「もちろん有りますよ。とりあえず応急手当てをしますから私の部屋までおいでいただけますか」

栗田准教授が温和な雰囲気で問いかけると、女性は仕方ないという様子でうなずいた。

栗田准教授の執務室に移動すると女性はおとなしく山葉さんの応急手当てを受けた。

山葉さんがオレンジ色の消毒液を塗って渇くのを持っている間に、僕は傷口を抑えるガーゼと包帯を準備する。

彼女の傷は軽症とはいえ、目立つ場所なので傷跡が残ると大変だ。

山葉さんは消毒液が乾いたのを見て取ると僕からガーゼを受け取って傷口に当て、丁寧に付帯を巻いた。

「さっき、何用があってこの建物に立ち入ったのかと尋ねておられたが、指導して逸る学生たちの修士論文の下書きを添削したり、自分の論文を書いたりで忙しいのですよ。自宅からリモートワーク可能な内容だけど、私の場合はパソコンを使ってリモートアクセスすることが出来ないのでやむを得ず立ち入っているだけです」

女性は僕たちに事情を説明し、彼女の話だけ聞けば正当な理由があってキャンパスに立ち入っているのかなと思わされるが、高校生くらいにしか見えない若々しい彼女の外観と大学の教育者のように思える彼女の口ぶりのギャップを埋める事情については全く触れられていない。

「あの、失礼ですがあなたがこの大学の教職員だと仰るなら氏名と所属を教えていただけませんか」

栗田准教授が温厚な雰囲気で尋ねると女性はふいに口をつぐんだ。

僕たちが、彼女の説明を待ち受けていると、女性は不意に座っていたソファーの背もたれに倒れて白目をむいた。

「どうしたんですか」

「大丈夫ですか」

僕と山葉さんが同時に彼女を支えようとするが、女性は小刻みに痙攣しており、何かの発作を起こしているように見えた。

「ウッチー、そのガーゼの束を取ってくれ、舌をかまないよに口の中に詰めよう」

山葉さんの要請を聞いて僕は慌てて救急箱に手を伸ばし、ガーゼの塊を山葉さんに手渡した。

山葉さんは女性の口をこじ開けてガーゼを押し込むとほっと一息ついた。

「癲癇の発作かな」

栗田准教授がつぶやくが、あいにく僕も山葉さんも医学の知識は持ち合わせていない。

取り敢えず落ち着いたとはいえ、問題の女性の容態が救急車を呼ぶべき状態なのか放っておいて大丈夫なのか判断できなかった。

「救急車を呼んで、しかるべき医療機関で見てもらうべきではないかな」

山葉さんがもっともなことを言うが、僕には気がかりな点があった。

「救急搬送してしまうと前後の事情を聞かれるし、この女性の家族と連絡を取る必要もあります。この女性が何か非合法な手段で侵入していたとしたら、警察に通報が行き、刑事責任を問われる可能性があるのではないでしょうか」

彼女が不法侵入しているのならば、そこまで気を使う必要はないと思えるが、未成年にも見えるので慎重にするべきではないかと思ったのだ。

「内村君の話にも一理ありますね。もう少し様子を見て、彼女が意識を取り戻すのを待ってみましょう」

栗田准教授はソファに横たわる女性を気遣うように見ながら言う。

僕たちは栗田准教授の意見を尊重して、それぞれ女性が横たわるソファに対面する位置のソファや、作業用机の周囲に並ぶ丸椅子に腰かけて女性が意識を取り戻すのを待つ態勢をとった。

そのまま数分が経過した時、部屋の雰囲気が微妙に変化した。

それは部屋の気温が急に下がったとか、照明が消されたのに匹敵する明白な変化なのだが、説明することは容易ではない。

山葉さんは眉間にしわを寄せて僕の背後の壁の辺りを見ながら叫んだ。

「ウッチー、後ろに何かいる」

僕が自分の背後を振り返ると、そこには初老の男性が佇んでいた。

その姿は半ば透けており、生身の人間でないことは即座に判別できた。

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