第334話 沢山いる神様の一柱
僕は、この状況で美咲嬢が手助けを求めるのはよほどの理由があるのだろうかと考えたが、山葉さんも同じ考えだったようだ。
「二十分ほど後で良ければ、こちらに入って話を聞きたいと言ってくれ。ついでに体温計を渡して私を待っている間に体温を測ってもらえばいい」
山葉さんは美咲嬢の要請に興味を示しているのだが、薄利多売のテイクアウト販売で商売している以上、掻き入れ時のランチタイムに手を抜くわけにいかないと判断したようだ。
今日のランチタイムセットはキーマカレーがメインで田島シェフがひき肉と玉ねぎ、そしてトマトとナスを材料として仕上げたスパイシーなカレーに、半熟卵とサラダを加えたパッケージだ。
木綿さんは山葉さんにうなずくとオーダーされた数のキーマカレーのセットを持って店舗に移動する。
「美咲さんは何を依頼してくるつもりでしょうね」
僕が何気なく尋ねると、山葉さんはマスクをしたまま上目使いに僕をにらむ。
「ウッチー、調理中は無駄話をしない。後で一緒に聞けば済む話だ」
「はい」
僕はしゅんとした雰囲気で、ランチセットの続きに取り掛かかる。
彼女は相変わらず感染防止対策を徹底しており、それは顧客の安全に対しても変わりはなかった。
調理中に無駄話をすれば、たとえマスクをしていても飛沫が飛ぶため、彼女は自分たちがウイルスに感染し、症状が現れない潜伏期間中である可能性も考えて配慮しているのだ。
ランチタイムの繁忙期が過ぎて、僕たちの手が空いた頃に黒崎氏が厨房に現れた。
黒崎氏の後ろからツー子さんも顔を出して小さく手を振っている。
「お忙しいときに申し訳ありません。美咲所長がどうして内村さん夫妻に協力してもらいたいと仰るので無理を承知でお願いに参りました」
黒崎氏は恐縮しているのか妙に堅苦しく挨拶する。
「二人とも36度5分の平熱でしたよ。私たちも面談するときは、マスクつけるだけでなくてクライアントとの間をスクリーンで仕切ったり換気を良くしたりして防衛しているんですよ」
ツー子さんは体温計を僕に返しながら告げる。
「こちらこそお待たせした上に体温まで図らせて申し訳ない。家には新生児もいるので感染対策をしないわけにはいかないのだ。それで美咲嬢が私に頼みたい案件とはどんな話なのだ?」
山葉さんはツー子さんの話ぶりで美咲嬢たちも感染対策に気を配っていることがわかり表情を緩めて尋ねた。
黒崎氏は何から話そうかと迷っている素振りだったが、それを見たツー子さんが黒崎さんの横に進み出た。
「私が説明します。最近、行動自粛の影響でドメスティックバイオレンスの事例が増加しているのですが、私たちのところにも契約している自治体から紹介されて数人の女性が相談に来ているのです」
ツー子さんや黒崎氏とは久しぶりに顔を合わせたのだが、皆がマスクをしている上に互いに距離を取ろうと気を遣うので妙に話がしずらい雰囲気で、僕はつい大きめの声で彼女に尋ねた。
「その女性達の中に特異的な事例が混じっていたということですか」
「そうです。その女性は年齢25歳で同年齢の男性と同居しており子供は無し。最近同居の男性がパチンコに行けないためにイライラして女性に暴力を振るうことが多くなり、女性が助けを求める声と物音で近所の住民が警察に通報。幸い女性の怪我は軽症だったのですが、男性は現在拘留中なのです」
ツー子さんはわかりやすくさらさらと説明する。
「それ自体はよくある事例なのですが、美咲所長と僕が見たところその女性には貧乏神が取り付いているようなのです」
黒崎氏が途中で話を引き取って僕たちに告げたが、彼は肝心の部分を自信なさそうにぼそぼそと話すので僕は聞き漏らしていた。
「え?何が取り付いているのですか」
僕に聞き返された黒崎氏はため息をついてもう一度言いった。
「貧乏神が取り付いているのです。こんなご時世に非常識な名前を何度も言わさないでください」
僕は黒崎氏にあなたが言うセリフでもないと思うがと言いそうになったが結局、口には出さなかった。
親しくしているとはいえ、彼の気に障るかもしれないと思って自粛したのだが、山葉さんはそこまで気を遣わなかったらしく彼に言う。
「大丈夫だ、応仁の乱の頃から生き延びている猫又が都内に棲息しているのだから、貧乏神くらいでは驚かないよ」
黒崎氏は怒る様子もなく軽く咳ばらいをすると話を続ける。
「そう言っていただけると気が楽です。私も美咲所長も「それ」を直接見た経験が少ないので断言できないのですが、女性の行動パターンや「それ」の容貌を見ると、間違い無いと思うのです」
僕は山葉さんの表情を窺ったが、彼女は明らかに興味をそそられているようだ。
「それを私に祓って欲しいというのだな。」
黒崎氏はゆっくりとうなずいた。
「差し当たっては、一度その女性と面談していただきたいと思います」
「そうだね、問題の貧乏神を確認してから対応策を考えることにしよう。面談の日程はどうなるのだろうか」
黒崎氏と山葉さんは当り障りなく話を進め始めたが、黒崎氏はそこで申し訳なさそうに山葉さんに告げた。
「実はその女性がこの後面談に来る予定なのです。急な話で申し訳ないのですが立会していただけませんか」
山葉さんは一瞬動きを止めたが、気を取り直したように彼に言う。
「夕食用のテイクアウトの準備まではしばらく時間があるから、出かけてみようか」
最近の山葉さんの傾向からすると、急なイベントにも付き合うということは今回の対象に相当興味を抱いている様子だ。
結局、僕と山葉さんが準備してから黒崎氏たちと一緒に美咲嬢のオフィスまで出かけることになった。
山葉さんは2階の住居部分に戻ると、慌ただしく莉咲に授乳して別室にいた裕子さんを呼ぶ。
「お母さん、本物の貧乏神が出たらしいから見に行ってくるので莉咲の世話を頼むよ。お祖母ちゃんがいたら大喜びしたかもしれないね」
「あら、そんな神様貰ってきたら大変よ。見るだけにしておきなさいよ」
山葉さん母子の浮世離れした会話を聞きながら、僕は莉咲を抱き上げた。
生まれたばかりの頃の頼りないくらいの軽さに比べて2か月を迎えた最近はずっしりとした手ごたえを感じる。2か月で体重が二倍以上に増えているから当然かもしれない。
僕は莉咲の感触の名残を惜しみながらベビーベッドに戻すと、伝染病が蔓延したおかげで家族が一緒にいられる時間が増えた事だけはプラスかなと思っていた。
準備が出来て出かける僕たちは、田島シェフが準備してくれたランチセットのパックを持っていくことになった。
「黒崎さん達と一緒に食べていけばいいような気もしますけど」
僕がつぶやくと山葉さんは断固とした雰囲気で首を横に振る。
「駄目だ。黒崎氏たちは美咲嬢のお昼も買いに来ていたのだから、向こうに行って一緒に食べてあげなければ可哀そうだ」
僕は山葉さんが美咲嬢に気を使っているのが微笑ましかった。
「久しぶりだからランチを食べながら一緒に話をするのもいいですね」
僕は話を合わせたつもりだったが、それは彼女の意図とは違っていたらしい。
「いや、対面して話しながら食べるのはNGだ。食事中は十分な間隔を取って食べ終わるまでは無言で食事をするのが基本だよ」
僕は少なからずげんなりしたが、彼女の言葉は正しく、僕たちは否応もなくポストコロナの生活様式に適応しなければならないのかもしれなかった。
僕はさりげなく話題を変えた。
「ツー子さんは修士課程修了後はどうするの」
彼女は僕の質問を聞くと、黒崎氏と目配せをしてから答える。
「臨床心理士の試験を受けて、合格したら美咲先生のところで雇ってもらおうと思うのです。先生は、お屋敷の部屋が余っているから住み込みでもいいと言ってくれはるんですよ」
彼女は黒崎氏とひそかに付き合っており、僕は仲睦まじく歩く二人の姿を見かけたことが有る。
「職住近接で便利だね」
僕がちょっと焦点をはずした感想を言うと、彼女は僕の心を見透かしたようにフフッと笑った。
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