侵入者

第325話 誰かの気配を感じる

カフェ青葉の厨房ではお昼のテイクアウトメニューの準備が佳境を迎え、僕はロコモコ丼に使う目玉焼き作成にいそしんでいた。

目玉焼きは業務用オーブンで量産することもできるが、業務用オーブンはメインのハンバーグに占領されており、僕はフライパン3枚を同時に使って半熟目玉焼きを量産するという困難なミッションに挑んでいた。

「ウッチーさんそれは火が通り過ぎたので、予備の固焼き目玉焼きとしてキープしてください。レギュラーの半熟目玉焼きは二分ほど加熱時間を減らしてください」

田島シェフはハンバーグ用のドミグラスソースを準備しながら、僕の焼き過ぎを指摘する。

「さっきと同じ時間のつもりだったけど」

「最初の時と違ってフライパンが温まっているから火の通りが速いのです。半熟が嫌いな人もいて固焼き目玉焼きも必要ですから、それはそれで使えます」

僕は金型を外すと出来上がった目玉焼きをバットに並べて次の目玉焼きの準備に入り、調理用のテーブルでは、山葉さんがテイクアウト用の容器に入れたご飯の上にレタスと水でさらした新玉ネギ、そして糖度の高いトマトを並べている。

「ランチテイクアウトは三十食販売を目指して頑張ろう」

山葉さんの声がマスク越しに少しこもって響き、田島シェフは無言で業務用オーブンを開けて焼きあがったハンバーグを取り出し始めた。

新型コロナウイルスの感染増加のため緊急事態宣言が出されて以降客足は減少し、僕たちはテイクアウト営業に切り替えざるを得なくなった。

ランチテイクアウトの販売時間が来ると、店舗の入り家で販売している祥さんのPDTからオーダーが入り始め、山葉さんは田島シェフが仕上げたロコモコ丼を配膳用カートに乗せて店舗に運ぶ。

「意外とたくさん売れてるよね」

僕が新たに半熟目玉焼きを仕上げて、バットに並べながら田島シェフに聞くと、彼は渋い表情で答える。

「ある程度の数は出ていますけど、僕と祥さんの給料出せるほど利益が出ているか心配です」

田島シェフと祥さんは経営状況が厳しい中、微妙に居心地の悪さを感じているのだ。

「いつまでもこの状況が続くわけもないし、二人がいなくなったらお店の再スタートが切れない。もう少しの辛抱だと思って頑張ろう」

ぼくが微妙にやせ我慢が入った言葉を告げると、田島シェフは初めて笑顔を浮かべた。

ランチタイムの営業時間が終わると、僕はホッと息をついた。

ドリンクのオーダーもあったため僕と田島シェフは忙殺されたが、売り上げがあるのはうれしいことだ。

山葉さんと祥さんは店舗をクローズしてから厨房に戻ってきたが、山葉さんは少し明るい声で僕たちに告げる。

「朝の売り上げも合わせると、今日のペースで営業を続けたら現状のスタッフを維持できるはずだ」

田島シェフと祥さんが表情を明るくし、田島シェフは業務用オーブンを開けながら僕たちに言う。

「残り物ですけどお昼の賄を用意しますね」

オーブンからはさっきまで嗅いでいたはずのハンバーグの香りが漂ったが、僕は初めて自分が空腹だと意識した。

田島シェフの賄はサラダボウルに盛り付けたロコモコだった。

シェフが準備したハンバーグはハンドメイドの逸品で、ナイフで切ると肉汁が溢れて自家製のソースと合わせて食欲をそそる。

「このクオリティーで五百円は安くないですか」

祥さんがロコモコを頬張りながら聞いた。

「テイクアウトで売ることを考えるとワンコインが売れるボーダーで、むしろもっと安くしたいくらいだ。五百円で買いに来てくれるお客さんがいるのがうれしいよ」

山葉さんは渋い顔で祥さんに答えたが、ロコモコのハンバーグを口にすると微妙に表情を変える。

「確かにこの味ならワンコインではもったいない。でも、それだからこそ売れるのだと思うよ」

山葉さんの言葉を聞いた田島シェフはことさらに無表情を装ったが、それは「どや顔」になるのを抑えるためではないかと僕はひそかに思った。

賄の時間は久しぶりに和やかな雰囲気となったが、祥さんは食事を終えるころに思い出したように話し始める。

「そうそう、木綿さんから相談したいことが有るというメールがきたのです。家の中に家族以外の人がいるような気配を感じることがあり怖くてしょうがないとか」

「ほう、それは興味深い話だな。一度話を聞いて見なければ」

山葉さんは食後のコーヒーを飲みながらつぶやくとゆっくりと立ち上がった。

「オーナー、もう食事を終わったのですか」

田島シェフが気遣うように言葉をかけると山葉さんは微笑しながら答えた。

「莉咲ちゃんのミルクの時間だ」

その日の夜、僕は木綿さんと連絡を取ったが彼女はかなり怯えている様子だった。

「姿を見たわけではないのですが、家の中で物音が聞こえたりするのです。それに、何となく誰かがいるような気配みたいなものを感じて落ち着かなくて」

ビデオ通話で僕たちに訴える彼女は、心なしか憔悴した雰囲気に見える。

「家の中にアライグマが入り込んでいるのではないかな」

山葉さんが尋ねると、木綿さんは憤慨した様子で答える。

「家の中にそんなものがいたらわかりますよ。それに家は一応市街地にあるんですけど」

山葉さんは苦笑気味に彼女に言った。

「いや、ふざけているわけではなくて街中でもアナグマとかアライグマが家に入り込んでいることが有るらしいのだ」

木綿さんは、納得したのかわからないがとりあえず沈黙した。

「僕たちが調べに行った方が良いかな」

僕が尋ねると木綿さんは遠慮がちに答える。

「でも、莉咲ちゃんの世話もあるのにお二人に来てもらうのも申し訳なくて」

僕が山葉さんを振り返ると彼女は迷っている様子だった。

山葉さんは新型コロナウイルスによる肺炎が蔓延している最中に莉咲が生まれたので、彼女を感染から守ることを最優先に考えてきたのだ。

しかし、山葉さんは逡巡を振り切るようにきっぱりと木綿さんに言った。

「得体のしれない存在が身近にあるのは不安だろう。私たちが不審な気配の正体を突き止めに行くよ」

「本当ですか。こんな状況で来てもらうのは申し訳ないですけどお願いします」

木綿さんは、怪しい気配が相当気になっていたらしく山葉さんの言葉に少し涙ぐんで答えていた。

数日後、僕と山葉さんは木綿さんの実家に出没する怪しい気配の正体を調べに行くことになった。

木綿さんの実家は二子新地にあり、電車に乗ってもそう遠くはないが、僕たちは不特定多数の人と接触する機会がある電車は避けて自家用車のWRX-STIで出かけた。

山葉さんは久しぶりに自分が運転したいと言ってWRX-STIのステアリングを握り、ツインカムフラットフォアターボの野太い排気音を楽しむようにゆっくりと走らせる。

「木綿さんの件、霊的な存在の仕業だと思いますか?」

僕は今回の案件が気になり山葉さんに尋ねたが、彼女は首をかしげながら答える。

「木綿さんの場合は霊感があまりないのだから、野生動物が屋根裏に住んでいるとか、浮浪者が入り込んでいたという落ちではないかな」

「いくらなんでも浮浪者が入り込んでいたら気が付くでしょう」

「いや、刑務所を脱走した犯罪者が、住人が住んでいる家の屋根裏に潜んでいたという事例があるくらいだ。霊ならぬものが同居している可能性もあり得ないわけではない」

僕は、山葉さんの見立てに少しあきれながらつぶやいたが、山葉さんは意外と本気でそれらの可能性を考えているようだ。

山葉さんは環状7号線から国道246号戦に右折すると心なしか速度を上げながらMWAMのナンバーを口ずさんでいた。

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