第324話 病魔退散への想い

翌日の朝、山葉さんは莉咲の授乳を済ませると裕子さんに子守をたのんで、いざなぎ流の神事を始めた。

彼女は巫女装束に身を包み、厨房の通路を挟んで反対側にある「いざなぎの間」に籠る。

そしていざなぎ流の神々に祈りを捧げた後、「みてぐら」をしつらえて祭文を唱えながら神楽を始めた。

「ウッチーさん、今朝の山葉さんすごく気合を入れて祈祷をしていますね」

「うん。手伝おうとしたら準備は自分でするから祥さんをサポートしろと言われた」

祥さんのサポートというのは、店舗に来店するお客さんが減った半面、昼間も始めたテイクアウトメニューの販売が伸びているため、店舗の入り口で来客に対面販売している祥さんがオーダーを受けた品物を厨房から運ぶスタッフが必要となったことを指している。

山葉さんは新型コロナウイルスの感染拡大によって緊急事態宣言が出されて以降、客足が落ちた店舗営業を中断してテイクアウトの営業に切り替えることを検討しており、僕にフォローさせているのだ。

テイクアウトメニューは、カフェのランチの雰囲気を残しつつも低価格に抑えているので、常連客の口コミでそこそこ売れており、利益は薄いものの僕たちが暮らしていくための頼みの綱だった。

祥さんは対面販売用のテーブルに並べるサッドイッチを運びながら僕に言う。

「午後に東雲さんに会いに行く時には、私もアマビエが現れるように一生懸命祈ります。魚っぽいからと言って嫌ってはいられませんよね」

僕は、彼女の想いがうれしかったが、アマビエが感染症の蔓延を一気に解決してくれるとも思えないので控えめに答えるしかなかった。

「ありがとう。もう一度アマビエに遭遇出来たら、今の状況を打開する手がかりが得られるかもしれないね」

祥さんはくすっと笑うと店舗の入り口に開設したテイクアウトコーナーにサンドイッチを並べながら僕に言った。

「ウッチーさんは嘘がつけない人ですね。あまり期待できないと思っていることが顔に出てますよ」

「そ、そうかな」

僕は思わず顔を抑えた。今度は赤面していないか心配になったのだ。

お昼を過ぎるまでのテイクアウトメニューの売れ行きはまずまずだったが、その分店舗で食事をする人は減り、僕は状況に合わせて営業形態を変えざるを得ないと感じさせられたのだった。

午後には東雲さんの荷物を届けに行くことになり、山葉さんと祥さんは巫女姿で出かける準備を整えた。

「東雲さんは三鷹の森総合病院に入院しているが、面会制限があり会うことは出来ないそうだ。三鷹市にある彼女の実家に行きお母さんに荷物を手渡して、その時に祈祷をさせてもらおう」

山葉さんは何気なく説明するが、僕は微妙に心配だった。

「それはアマビエを召喚するための祈祷ですよね。東雲さんのお母さんにはなんと説明するのですか」

山葉さんは余裕のある表情で答えた。

「私たちもアマビエについて調べているので、コスプレをしていた東雲さんのお宅で祈祷して、手掛かりを得たいとありのままに伝えるつもりだ」

彼女の言葉を聞くと僕としても同意せざるを得ず、教えてもらった東雲さんの自宅まで、僕たちの自家用車のWRX-STIで出かけることになった。

山葉さんと祥さんは巫女姿に身を固めているので、WRX-STIは僕が運転することになった。

ぼくは、カフェ青葉から環状七号線を経由して井の頭通りを西進したが、交通量は少なく人通りもまばらだ。

カーナビゲーションの案内と電話で聞いた家の特徴を頼りに東雲さんの自宅に到着すると、香織さんの母親は巫女が二人も押しかかけてきたことに目を円くしながらも僕たちを家に招き入れた。

「こんな時にわざわざ荷物を届けていただいて申し訳ありません。うちの子は人様に病気を移すかもしれないのに、妖怪の格好をして街を歩いていたので、なんだか肩身が狭くて」

香織さんの母親は申し訳なさそうに告げるが、山葉さんは首を振りながら言う。

「病気になったことは本人には責任はありませんし、発病に気が付いていなければ仕方がなかったと思います。香織さんは具合が悪くなった時は、うちのスタッフに近寄らないよう警告したと聞いており、きちんとした方だとわかります」

山葉さんの言葉を言いて香織さんの母親は少し表情を緩め、山葉さんは重ねて彼女に告げた。

「実は私たちも香織さんがコスプレしていたアマビエに興味を持っているのです。お時間はとらせませんから私たちに祈祷をさせてもらえませんか」

「ええ、私は別にかまいませんけど」

香織さんの母親は荷物を持って来てもらった手前、断るわけにもいかずと言った様子で、僕たちは東雲さんのお宅で、アマビエ召喚の祈祷を行うことになった。

案内されたリビングルームで山葉さんは祥さんに囁いた。

「いざなぎ流の祭文の主要な部分は唱えてあり、最後の「りかん」の部分だけを執り行う。祥さんは、先日アマビエが現れた時のようにそれが出現することを強く念じてくれ」

「わかりました」

祥さんがうなずき、山葉さんは御幣を手にいざなぎ流の祭文を唱え始めた。

祥さんが正座して精神を統一している前で、山葉さんが祭文を唱える様子は、祥さんがお祓いを受けているようにも見える。

やがて、山葉さんが「りかん」の言葉を唱えると、部屋の中の空気が一変した。

それは僕たちが霊の棲む世界に入り込んだ時に似ており、部屋が通常の世界から切り離されたように静寂に包まれたのだ。

そして、リビングルームの中空には赤い髪をなびかせたアマビエがふわりと漂っていた。

香織さんの母親がヒッと小さな声を上げたのが聞こえ、山葉さんと祥さんも無言で見つめる中アマビエは僕に近寄る。

何故僕を目指してくるんだと僕は無言で抗議するが、アマビエは瞬きしない丸い目で僕を見据えたまま接近しやがて僕に触れた。

そして、スタンガンを押し付けられたような衝撃と共にアマビエが抱えていた何者かの記憶が僕に流入した。

記憶の主は印刷物を発注しようとして、業者さんとデザインの相談をしていることがおぼろげに理解できる。

僕はいつものように、流入した記憶を追体験し始めていた。

「だからな辰、おめえの描く絵はどぎつ過ぎて女子供に受けないんだよ。もう少し優し気な絵柄ってもんを考えておくれ」

絵師の辰は露骨に不機嫌な表情を浮かべたが無理もなかった。辰が仕上げた絵は、竜のような銀色の身体に乱れ髪のおどろおどろしい女の頭が付いた妖怪を描いた、ちょっとした力作だったのだ。

「三好の旦那、あっしには旦那が言われることがわかりやせん。どんなものを描いたらいいかあっしの頭にもわかるように教えてくれやせんか」

駆け出しとはいえ絵師というのはプライドが高い。自分が小石川養生所を差配する与力でなければ、辰は「てやんでえ」と喧嘩沙汰に及んでいるにちがいない。

「いいかい、今作ろうとしているのは、ここにいる蘭学を修業した蜷川先生が考えた疫病が流行るのを防ぐための覚書だ。それゆえにその表に刷る絵は怖くて目を引くだけではなく、愛嬌があってもう一度見たくなる絵柄の方が向いている。その辺を考えて描いてくれねえか」

辰は俺の言葉を聞いて不機嫌な顔のまま黙り込んだが、言わんとすることはわかった様子だ。

やがて辰は蜷川先生と瓦版屋の又吉が見守る前でさらさらと筆を走らせ始めた。

その横には肥後の国で役人が描いたという巨大魚の絵が置いてあった。

太刀魚のような体に頭から背中にかけて髪が覆い、胴体の他に二本の長い脚がある様は竜宮からの使いを思わせる。

辰はそれを下敷きに人面魚の図を仕上げていたのだ。

やがて辰は絵を仕上げて、皆に示した。

それは三本の鰭で立ち上がった半人半魚のような妖怪で、体はうろこに覆われ嘴があるものの、ひし形の目を持つ顔は何とも愛嬌があった。

「いいじゃねえか辰。又吉さんこれで版を起こせるかね」

「もちろんでさ。先ほどの絵よりもやりやすいと思いやすよ」

又吉は二つ返事で答え、蜷川先生も満足そうな表情を浮かべている。

辰だけが憮然とした表情で俺に言った。

「そんなんでいいんですかい」

「いいとも。辰さん、あんたの絵はきっと後世に残るぜ」

そうして出来上がった絵図は、蜷川先生の覚書と表裏に刷られ江戸の町に配布された。

「三好の旦那、こんな覚書に大金を投じて町に配るほどの効能があるんですかね」

「なにを言っていやがる。一度疫病が発生したらこんな養生所などあっという間にあふれて死体の山になるかもしれねえ。遠く長崎まで行って学んだ先生の覚書で疫病を未然に防げるなら安いもんだぜ」

アマビエの残した言葉として、疫病が起きたら自分の姿の写しを配布しろという伝承も江戸の町でひそかに流しており、あとは効き目があることを祈るのみだった

僕はアマビエから流れ込んだ記憶に飲み込まれていたが、ふと我に返った。

アマビエは僕から離れ、居合わせた人々が見守る中で二本の鰭をひらひらさせながらリビングルームの中空を漂っていた。

やがてアマビエはふわりと身をひるがえして速度を上げると部屋の中を一周してから何処へともなく姿を消した。

部屋を包んでいた静寂は去り、通常の時間の流れが戻ってきたが僕たちは沈黙したままだった。どうやら居合わせた人々も僕と同じ記憶を追体験したらしい。

「今のがアマビエなのですか。アマビエって降臨したらコロナウイルスを消滅させて私たちを助けてくれるのではないのですか」

祥さんが沈黙を破り、僕は苦い思いで彼女の言葉を聞いていたが、山葉さんは穏やかに告げた。

「アマビエが報告されたのは一八四八年のことで、アマビエはその年から六年間豊作が続くが疫病も発生するので、その時は自分の写し絵を広めよと言って海に帰っていったとされている。」

僕もアマビエに関わってからネットで調べたので、その話は記憶に残っていたが、山葉さんはさらに続けた。

「私が調べたところ一八五二年に江戸で疫病の発生はあったが大きな流行とはならず、日本全体でも多数の人が死ぬような疫病の発生は報告されていなかった。私たちが一部始終を見たようにアマビエの絵図を配布した人たちの努力で、大規模な流行を予防したのではないかな」

僕も彼女の話の意味が分かり、自分がネットで調べた知識を口にする。

「アマビエの伝承では、疫病からの救済や、それを見たら不老不死を得られるとするご利益について語られていませんでしたね」

山葉さんは、ゆっくりとうなずいた。

「私たちが見たアマビエは流行病によってたくさんの人の命が失われることを防ごうとした人々の想いの集合体に違いない。きっと香織さんの想いがそれを呼び寄せたのだ」

山葉さんの言葉を理解した祥さんは気落ちした表情を浮かべた。

「あれは私たちの状況を解決してくれる存在ではなかったのですね」

「そうだけど、医療が発達していなかった時代でも効果を上げた人々がいるのならば私たちも努力すれば病魔を根絶できるはずだよ」

僕は山葉さん自身も少なからず気落ちしていることに気が付いたが、彼女は気丈に未来を信じている様子だった。

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