第308話 ミルクの後はゲップの時間
翌朝、僕は自宅を兼ねているカフェ青葉で起床すると、莉咲の出生届を提出するために区役所に出掛けることにした。
出掛ける前に僕はカフェの仕事が気になって厨房を覗いたのだが、幸さんと田島シェフは僕に気が付くと、一様に怖い顔で僕をにらんだ
「ウッチーさん厨房なんか覗いている場合じゃあないでしょう。早く山葉さんとベビーのところに行ってあげてくださいよ」
「そうですよ。最近ウイルス性肺炎のために客足が減っているから仕事は僕たちだけで十分こなせますから」
二人は早く病院で付き添いしろと僕を送り出したのだった。
僕は二人の好意に甘えることにして、裕子さんと一緒に先ずは必要な書類を役所に届け、それから病院に行くことにした。
WRX-STIに裕子さんを乗せて区役所まで行くと、僕は考えることが有って裕子さんに言う。
「裕子さんは車の中で待っていてもらえますか」
「あら、私も一緒に行ってもいいですよ」
裕子さんは元気がいいので、もう車外に出ようとしているが、僕は押しとどめるように彼女に言った。
「不特定多数の人が集まる場所はウイルス感染の危険があるので、ここにいてください」
「まあ、ウイルスってそんなに怖いものなのね」
彼女は素直にシートに座り直し、僕はマスクをして車外に出た。
新生児のいる病院に行く前に、万一ウイルスを拾ってしまう可能性は極力減らしたかったので裕子さんには残ってもらったのだ。
区役所に提出すべき書類は、出生届を始めとして児童手当等様々だ。
僕はとりあえず戸籍担当の窓口で、出生届を提出した。
「おめでとうございます。確かにお受け取りしました」
「ありがとうございます」
女性職員の言葉に会釈で答えると、親切な職員は次の窓口を教えてくれる。
その後、健康保険と児童手当の書類を提出して、僕は区役所を後にした。
屋外を歩くと、気の早い桜が蕾をほころばせている。
僕は区役所から産婦人科医院までWRX-STIを運転して駐車場に止めると、裕子さんと一緒に病院のロビーを目指したが、途中であちこちにA4サイズの紙が貼ってあることに気が付いた。
何気なくその紙を手に取った僕は、それが山葉さんの主治医の女性医師、菱沼先生を中傷する内容のビラだと気づいた。
「まあ、こんなことを書いた紙をばらまくなんてどういうつもりかしら。それも菱沼先生のことじゃないの」
裕子さんもビラの内容に気が付くと、目につくビラを片端から回収し始めた。
ビラに書かれていたのは、山葉さんの主治医の菱沼先生が医療ミスで出産時に妊婦を死亡させたといった内容だ。
僕も彼女に倣い、数分後には駐車場周辺に張り付けられていたビラはすべて回収していた。
僕は集めたビラを束ねると小脇に抱えて持っていくことにした。
病院の入り口ではもはや儀式のようにアルコールのスプレーで手を消毒し、山葉さんと莉咲が入院している2階のフロアに向かう。
2階のフロアにある看護師さんたちの詰め所の前を通ったときに、僕はパソコンに向かっていた看護師さんに小声で言った。
「こんなものが、駐車場のあちこちに張られていたのですよ。見える範囲にあったものはあらかた回収しましたけど」
中傷ビラの束を見た看護師さんは表情を硬くしてそれを受け取った。
「わざわざ回収してくださったのですね。ありがとうございます」
看護師さんはビラをもって、詰所の奥に行こうとするが、通りかかった菱沼先生がそれを見とがめた。
「美佐子さんそれはいったい何ですか」
美佐子と呼ばれた看護師さんは、足を止めるとしぶしぶとビラの束を菱沼先生に見せる。
「またそんな悪戯があったのね。貸して」
菱沼先生はビラの束を適当に丸めると束のままでダストボックスに突っ込んでいた。
「先生、裁判になったときに証拠になるかもしれないから保管しておかないと」
「サンプルがいくつかあれば十分よ、全部取っておかれたら私が気分悪いわ」
菱沼先生は美佐子さんに言い捨てるとつかつかと歩いて、診察室に消えていった。
「すいません。折角持って来ていただいたのに」
看護師の美佐子さんは恐縮して僕に言うが、僕と裕子さんは首を振る。
「いやいいですよ。気にしないでください。保存してほしくて持ってきた訳ではありませんから」
「お気遣いありがとうございます」
僕は好奇心を抑えられなくて看護師さんに聞く。
「誰があんなことをしているのか心当たりがあるのですか」
僕の質問を聞いた美佐子さんは声を潜めて僕に囁いた。
「菱沼先生は今患者の遺族の方に訴えられているのです。多分、原告側の嫌がらせだから逐一取っておけば裁判官の心象が私たちに傾くと思うのに」
「医療事故なのですか」
僕が尋ねると、美佐子看護師はとんでもないと言うように両手を広げた。
「事故なんかじゃないのです。胎盤の位置が悪くて危険だから入院していたのだけど、剥離して大出血を起こしたため、どうしても助けられなかったのです。でも先生は帝王切開で赤ちゃんは助けたのですよ」
僕はその情景を想像して気分が悪くなりそうだった。
出産が危険だと認識してはいたが、実際に妊婦さんが死亡した事例の話などあまり聞いたことがなかったからだ。
そして、改めて山葉さんの出産が無事に終わったことに安堵の念が沸き起こる。
病室に行くと山葉さんは哺乳瓶で莉咲に授乳しているところだった。
山葉さんに抱っこされた莉佐は口を動かして懸命にミルクを飲んでいるが、途中で疲れてしまったのか眠ってしまう。
「莉佐ちゃんは根性がないから途中で寝ちゃいまちたねー」
山葉さんが話しかけると、莉佐はハッと目を覚まし再びミルクを飲み始め、どうにか全てを飲み終えた。
「さあ、次はゲップをさせましょうね。縦抱っこして胃袋のある右側の背中をトントンと軽く叩いてください」
山葉さんが看護師さんに言われたとおりにすると、莉咲は次第に顔を赤くして目を大きく見開いてく。
やがて、莉咲は口を小さく開けてゲップを漏らした。
僕と裕子さんは思わず拍手をしてしまった。
看護師さんは苦笑をしていたが、ふと腕時計に目を移す。
「そろそろ、菱沼先生の回診の時間だわ」
彼女の言葉が終わらないうちに、つかつかと足音が響き菱沼先生が姿を現した。
「回診の時間ですよ。あら莉咲ちゃんママにおっぱいを貰っていたのね。良かったでちゅねー」
新生児が言葉を理解するわけもないのだが、何故か大人たちは赤ちゃん言葉で話しかける。
その病室はベッドが二つ置いてあるが使っているのは山葉さんだけだ。
菱沼先生はパーティションのカーテンを閉めると診察を始めた。
数分後に診察を終えてパーティションのカーテンを開けると菱沼先生は僕に言った。
「お父さんとおばあさまですね。先ほどはビラを回収してくださったのにお礼も申さず失礼しました。私はあのビラを見て頭に血が上っていましたから」
菱沼先生は照れくさそうに言う。
「あんな悪戯をされて大変ですね」
僕が何気なく言うと、菱沼先生は俯いた。
「いえ、妊婦を死なせてしまったのは事実ですから」
菱沼先生がぽつりとつぶやくと、看護師さんは慌てて言う。
「先生、そんな風に自分の非を認めてはいけません」
菱沼先生はため息をついてから僕たちに言う。
「今日も、原告側の弁護士が聴取に来るみたいなのです」
「先生が直接対応するのですか」
それは、先生にとっては酷な話になると思っいながら僕は聞いた。
「いいえ、病院の渉外担当が対応するから私が直接話すことはないのです」
菱沼先生は気を取り直したように顔を上げると僕たちに言う。
「これを真っ先に言うべきでしたね。母子ともに順調で何の心配もありませんよ」
菱沼先生は僕と裕子さんに笑顔を向けると、看護師さんを従えて病室を出ていった。
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