第307話 嬉しい時間

僕はとりあえず山葉さんの病室に戻ろうと思ったが、裕子さんが僕がいる分娩室の前まで来ていた。

「病室にいても落ち着かないからこちらに来てしまいました」

裕子さんは照れ笑いを浮かべて僕に言うが、落ち着かないのは僕も同じだ。

「やはり近くにいれば様子がわかるから、ここにいましょう」

僕の言葉に、裕子さんも笑顔でうなずく。

「婿殿、運転お疲れさまでした。先ほどは私もあわてていたのでお礼を言うのも忘れていました」

「運転ぐらい僕がして当たり前ですよ。山葉さんは今大変な仕事をしているのですから」

僕の答えに裕子さんは表情を緩めた。

「今時の若い人はお互いに思いやることを、恥ずかしがらないからいいわね。山葉は幸せ者だわ」

「いえ、それは特別なことではありませんから」

僕は口ごもりながら裕子さんに答える。

その後、僕と裕子さんは分娩室の前のソファーに腰を下ろし、分娩室の中の気配を窺いながら30分ほども無言で座っていただろうか。

それでも、出産というのは時間が掛かるというイメージがあり、まだ序盤戦のような気がしていたことは確かだ。

その時、分娩室から赤ちゃんの泣き声が響いた。

「まさか、うちではないですよね」

「ええ、まだここに来てから1時間も経っていませんからね」

僕たちがいる産婦人科医院は大きな病院なので、何人かが同時に出産していることは有り得る話だ。

僕は今のうちにトイレに行こうかと思い腰を浮かせたが、分娩室のドアが急に開くと、一人の看護師さんがパタパタと早足で歩いてくる。

その看護師さんが何かを抱えていた。

「おめでとうございます。可愛らしい女の子ですよ」

看護師さんは大きめの猫でも抱えるように両手で何かを支えているが、僕はそれが赤ちゃんだと気づいた。

僕は驚いて赤ちゃんを見つめる。

赤ちゃんは産湯を使う前で胎脂が付着しているが、泣きもしないで大きな目を見開いてこちらに向けている。

「莉咲?」

僕は思わず彼女の名前を呼んだが、彼女が答えるはずもなかった。

赤ちゃんが呼びかけに反応するのは早くても6か月頃だと育児専門書に書いてあったのを思い出す。

僕と裕子さんは凝固したまま動けなかった。

「それではこれからきれいにしますね」

看護師さんは再びパタパタと去っていき、僕と裕子さんは廊下のソファーに取り残されて呆然としていた。

「うちの子だったのですね」

僕は、意表を突かれたショックからまだ立ち直っていなかった。

「そうですよ婿殿。生まれたばかりなのに大きな目を開けて、可愛らしい女の子でしたよ」

裕子さんの言葉を聞くうちに、僕の胸にじわじわと感動がこみ上げていた。

山葉さんとの出会いや、一緒に経験した様々な出来事が僕の心の中を駆け巡り、それらがすべて先ほど見た赤ちゃんに集約されていくような気がした。

もう少しで雄叫びを上げそうになった時に先ほどとは別の看護師さんが僕たちに告げた。

「おめでとうございます。母子ともに元気ですよ。頑張ったお母さんをたっぷりと褒めてあげてくださいね」

看護師さんに導かれて歩いて行くと、山葉さんがベッドで休んでいた。その胸元にはおくるみにくるまれた赤ちゃんが寄り添っている。

山葉さんは汗に濡れた髪が頬に張り付き、早かったとはいえ彼女の奮闘を物語っている。

「痛かったですう」

山葉さんは僕の顔を見るとぽつりと言う。

僕は、日ごろ弱音を吐かない彼女が漏らした言葉が、彼女が経験した痛みの強さを物語っていることに気づいた。

「よく頑張ったね」

僕がベッドに寄り添って彼女の手を握ると、彼女は弱弱しく微笑む。

僕は、彼女をいたわりたくてもしてあげられることがなくて、目頭が熱くなりそうだった。

「お父さんに似たかわいい女の子。会心の出来です」

「いや、お母さんにて可愛いのですよ」

僕と山葉さんが押し問答をしていると、看護師さんが微笑みながら僕に言った。

「お義父さんも抱っこしてみますか」

看護師さんはおくる身に包まれた莉佐をそっと抱き上げると僕の方に差し出した。

僕は壊れ物を扱うように恐る恐る受け取ると、横抱きにして抱えてみる。

柔らかな感触と仄かな温かさがおくるみを通して伝わり、彼女が生きていることが実感された。

そしてその時、僕の中で何かが弾けていた。

それはこれから莉咲が体験するわくわくするような思いや、うれしいことや悲しいことがまとめて僕の中に押し寄せてきたような感触だった。

個別の感情をより分けることさえできないが奔流のような情報が僕の心にあふれ、そして来た時と同じように一気に引いていく。

それは記憶としてはほとんど残らなかったが新しく始まる彼女の人生をほんの少し覗き見たのかもしれない。

僕は莉咲の人生を素晴らしいものにするために自分が力を尽くそうと思ったのだった。

抱っこした莉咲の感触を楽しんでいた僕は、裕子さんの視線に気づいてそっと莉咲を差し出した。

「私が抱っこしてもいいのですか」

裕子さんが遠慮がちに尋ねるので、僕はゆっくりとうなずく。

早春の日の良き時間を居合わせたもので分け合うのはうれしいことだった。

病室に入り母乳を飲ませたりした後、莉咲ちゃんは保育器に入れられてしばし休息することになった。

カンガルーケアも大事だが、母体に休養を取らせることも大事だという方針の病院なのだ。

山葉さんがうとうととまどろみ始めたころに、僕の家族が押しかけてきた。

状況を察した僕の父母は、彼女を起こさないように静かにしてくれたが一緒に来た僕の妹は小声で囁く。

「赤ちゃんは何処?見せて、見せて」

僕は苦笑しながら新生児室に三人を案内し、保育器越しに対面させてあげた。

「かわいい子ね、きっと山葉さんに似たのよ」

妹は遠慮なく感想を述べるが、僕は別に気分を害する話ではない。

ひとしきり莉咲を眺めた僕の母は、裕子さんと何やらひそひそと相談を始めていた。

どうやらお宮参りとか、新生児関連のイベントの打ち合わせを始めたようだ。

人数が増えたのでロビーにでも行こうかと考えて、父母と妹を案内したが、先に歩いていた妹が不意に立ち止まったので、僕は彼女の背中にぶつかる羽目になった。

「どうしたの」

僕が尋ねると妹は、蒼白に変わった顔で僕を振り返る。

「今入院患者さんみたいな女の人がいたのだけど、視線を外した一瞬の間に姿が見えなくなったの」

「廊下から病室に入ったのではないの」

僕は、緩みっぱなしの顔のままで妹に答えたが、妹は首を横に振った。

「違う、ドアなんかない廊下の壁際で急に姿が消えたのよ」

妹が真剣な表情で訴えるのを見て、僕は彼女も霊感の素養があるのではないかと気が付いた。

そして、莉咲が生まれる前に分娩室の前のソファーにいて僕と言葉を交わした女性の顔が目に浮かんだ。

「ひょっとして、暖色系の細かい花柄のパジャマの上にカーディガンを羽織った女の人じゃなかった?」

僕が尋ねると妹は細かく何度もうなずいて見せた。

「そうよ、徹兄も見たの」

「今は見ていなかったけど、ここに来たばかりの時に立ち話をした気がする」

僕の答えを聞いても、妹の顔色はよくならない。

「大丈夫。お祓いのできる人がいるのだから何も怖がることはないよ」

「それはそうだけど」

妹は「見た」ことのショックで、いつもの雰囲気に戻れずにいたが、僕の母がちょっと雑な雰囲気で妹をたしなめた。

「ほらほら、おめでたい日なのだからいつまでもそんなことを言うものではないのよ。お兄ちゃんのために笑ってあげなさい」

無理やり笑えばいいというものでもないが、妹は母の言葉で気分を切り替えたようだった。

ロビーに降りた僕の家族は、山葉さんに気を使わせてはいけないからと早々に帰っていき、後に残った僕に裕子さんが尋ねた。

「婿殿、その女の人は、自分がここに入院しているつもりでいるかもしれない。真実を教えてあげないといけないですね」

いざなぎ流の家の人だけに裕子さんは、鋭く状況を分析している。

僕は言葉を交わした女性の、穏やかな雰囲気を思い出して少し気が重くなるのを感じた。

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