第239話 変容する時空

細川さんが険悪な表情を消し、温厚で明るい雰囲気を取り戻したことで、山葉さんも少なからず安堵したようだ。

「細川さん、新しいスタッフに紹介しましょうか」

山葉さんが遠慮がちに細川さんに告げると、細川さんはばつの悪そうな表情を浮かべて言う。

「あなたに小言を言った後で紹介されたらイメージが悪いから後日でいいわ。それよりも、妊娠初期は大事にした方がいいから、つわりがひどい時期は私が手伝いに来てあげます。それに異存はないわね」

山葉さんは口を開きかけて途中でやめた。

彼女は細川さんの気遣いを断ろうとしていたようだが、大切なことで遠慮しすぎると叱られたことを思いだしたらしく、間をおいてから細川さんに告げた。

「わかりました。体調が悪いと思ったら遠慮なくお願いします」

細川さんはその言葉を聞くと、満足したようにうなずいた。

結局、細川さんは一度自宅に引き上げることになり、山葉さんに体調に気を配るように告げて帰って行った。

田島シェフが遠慮がちに厨房に戻って仕事を再開したので、僕も仕事を再開しようとした時、山葉さんのスマホの着信音が聞こえた。

山葉さんは通話を始めると、にわかに慌て始めた。

「お母さんどうしたの、急に電話なんかしてきて」

彼女は、通話しながら僕の顔色を窺うように視線をなげる。

「もう羽田まで来ている?どうして相談もしないでそんなことをするの。私が迎えに行くから動かないで待っていて。今自分が何処にいるかわかる?」

山葉さんは相手の言葉を聞き終えると、早口に相手に言う。

「今から私が迎えに行くからその場を動かないで」

山葉さんは通話を終えるとため息をついた。

「私の母にも細川さんにかかったのと同じ内容の電話があったらしい。私の母はそれを信じ込んで羽田まで来てしまっている。彼女が自分で電車に乗ってここまで来るのは大変なので羽田まで迎えに行くから、留守中お店のことを頼みます」

山葉さんは僕に告げると、身支度を始めた。僕は山葉さんが子供を産むことに決めたのか確認したいが、彼女は母親を羽田空港から連れてくることで頭がいっぱいのようだ。

僕達が細川さんに会っている間、店の対応をしていた祥さんが厨房の入り口から顔を覗かせると山葉さんは同じことを彼女にも伝える。

「私は本当にそんな電話していませんからね」

祥さんが先回りするように言うと、山葉さんは僕に目を向けた。

「まさかウッチーが電話をしたのではないよな」

どうやら彼女は細川さんに小言を言われたり、四国から出て来た母親を迎えに行く必要ができたりで、怪電話の犯人を快く思っていない様子だ。

「僕はそんなことはしませんよ」

僕は祥さんと同じく、少し不機嫌な口調で彼女に答える。

山葉さんは怪電話の犯人に対する持っていき場のない怒りを抱えたまま、自分の車に乗って羽田空港まで母親を迎えに行った。

僕はカフェ青葉の店内に戻ると、落ち着かない気分で仕事を再開した。

カウンター席では、ツーコさんと春香ちゃんが空になったグラスを前に並んで座ってのんびりとした雰囲気で話をしている。

「ウッチーさんミックスジュース美味しかったですよ」

ツーコさんに褒めてもらい僕はやっと自分の緊張が解けるのを感じた。

「それは、さっき来られていた前オーナーから引き継いだレシピを使っていますからね。牛乳とバナナ、そしてリンゴをメインにして、そこに秘密の材料を追加して作るのが美味しさの秘訣ですよ」

僕は聞かれるより先に秘密のレシピをツーコさんに話しているが彼女は既にミックスジュースには関心がなさそうな雰囲気だ。

「春香ちゃんのお母さんから、ここに来るまでに持ったより時間がかかりそうだと連絡がありました。もう少し粘っていていいですか」

ツーコさんに答える時に僕は彼女の耳元で小声で話すようにした。

「大丈夫だよ。この時間はお客さんも少なめなので気にしないでいい。それよりも、春香ちゃんの雰囲気が昨日と違うと思うのだけど、ツーコさんはどう思う?」

僕の問いに、ツーコさんは自分と意見を同じくする人間が現れたことを喜ぶように小声で答えた。

「私もさっきから話していて別の子供みたいな感じがして少し怖くなっていました。ウッチーさんも同じことを感じていたと聞いて安心しました」

話題の当人である春香ちゃんは、祥さんが店内のテーブルから食器を回収する様子を鼻歌を歌いながら眺めている。

平和な光景なのだが、僕は春香ちゃんの背後にうっすらと人影が浮かんでいることに気が付いた。

目を凝らすとその人影は次第にシャープに見えてくる。

その姿は子供ではなく若い女性に見え、チェック柄のブレザータイプの服は、中学校や高校の制服のようだ。

そして、その顔は高校生時代の山葉さんの姿に似ていた。

僕は一瞬、最近、存在を確認できなくなった高校生時代の山葉さんの人格かと思ったがよく見ると、顔の造作や輪郭が微妙に異なる。

しかし、それがわかるのは僕や彼女の家族など一部の人間に違いない、その人影は他人が見たら、山葉さんの若いときの姿と言えば納得するくらいによく似ていた。

僕が目を凝らして見つめていると、その人影はハッとした様子で口元を押さえた。

どうやら僕の視線に気づいたらしい。

「やばい、ウッチーに気付かれた」

ぼそっとつぶやいたのは、春香ちゃんの背後に見えた霊体ではなく、春香ちゃん本人だった。彼女はカウンターのスツールから飛び降りると、カフェ青葉から外へと飛び出して行く。

「春香ちゃん、どこに行くの。もうすぐお母さんが迎えに来るから戻ってきて」

ツーコさんは慌てて彼女の後を追い、トートバッグを肩に掛けながら振り返りざまに僕に言った。

「ウッチーさん私は春香ちゃんを連れ戻しますから、柳瀬さんが来たらここで待っているように伝えてください」

ツーコさんは、落ち着いているように見えて反応が早い。

彼女はあっという間に春香ちゃんを追って店外に駆け出していき、後には呆然とした僕が残された。

春香ちゃんに取り付いている雰囲気だった霊体は一体何者なのだろう。

そして、その霊体は明らかに春香ちゃんと連動しており、彼女を操っている様子だったのだ。

僕は後を追おうかと思ったが、走り去る時にツーコさんが残した言葉を思い出して、踏みとどまった。

もうすぐ、春香ちゃんのお母さんが到着するので僕まで外に出て行くわけにはいかない。

正体不明の霊体が春香ちゃんに取り付いているのに、手をこまねいて待っていることしかできず、僕はイライラしながらカフェで仕事をしているしかなかった。

カウンター内でツーコさんと春香ちゃんが戻って来ないかと、店の出入り口を見ながら気をもんでいると、店のバックヤードに続くドアが勢いよく開かれ、僕は虚を突かれて飛び上がるほど驚いた。

ドアが開いた音くらいでそれほど驚くことはないので、僕が驚いたのはドアを開けた人の勢いに気圧されたのかもしれなかった。

ドアを開けたのは山葉さんのお母さんの裕子さんだったのだ。

「内村さんちょっと」

裕子さんは、ドアから一歩踏み出したところで僕を手招きする。

その後ろで、山葉さんが引き留めようとしているのが見えるが、裕子さんは山葉さんには頓着していない様子だ。

僕は何が起きるのかと、緊張しながら二人に歩み寄る。

しかし、裕子さんはもっと緊張した様子で僕に問いかけた。

「山葉に子供ができたと聞いたけど、お父さんはあなたなのよね。もしその子供を産むことになったら、あなたはそれを認めてくれるのかしら」

彼女と山葉さんの間で、どんな会話が交わされたのか定かでないが、僕の返事次第で何か大きく出来事が動く予感がする。

僕の頭の中では、自分が答える内容によって彼女が怒り出したらどうしようとかいろいろな考えが渦巻いたが、僕は小細工はしないで自分の気持ちに従うことにした。

「もちろんです。僕はそうして欲しいと思っていたのですから」

僕のことばを聞いて、山葉さんのお母さんは笑顔に変わり、勝ち誇ったように娘の山葉さんを振り返った。

「私が見込んだ通り内村さんはえい人やき、私が言うたとおりに答えたろ」

僕は彼女が話した言葉が微妙に理解できなかったが、それは山葉さんに向けられた言葉だった。

身内の山葉さんには彼女の地元の言葉で話しかけたのだ。

「わかりました。考えを改めます」

彼女は母親に諫められて反省している雰囲気で答えているのだが、その表情は言葉とは裏腹に晴れやかな表情だった。

僕が山葉さんに事情を聞こうと思った時、周囲の空間が歪むような感覚が僕を襲い、カフェの中の情景や僕の記憶さえも微妙に変容していく。

一体何が起きているのだろうと考えながら、僕は眩暈に耐えて自分の意識を保とうと必死だった。

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