第219話 黒のノースリーブ
助手席座っている女性の霊が後ろを振り返れば先に目を合わせることになるのは運転席の後ろにいる僕だ。
僕は助けを求めるように助手席の人影を指差しながら山葉さんを見た。
それでも、孝志さんに聞こえるので声に出して彼女に訴えるわけにはいかない。
容子さんの霊を浄霊することについて孝志さんがどう考えているかがわかるまでは、容子さんの霊の存在は彼に気取られない方がよいだろうと思ったからだ。
山葉さんは僕の指さす方向を眉間にしわを寄せて見詰めると、口に人差し指を当てて見せた。僕と同じように状況を見極めたいと思ったのに違いない。
「旧ビートルを調子よく動く状態に管理されるのは大変なのではありませんか」
山葉さんは容子さんらしき霊の存在をあえて無視した形で孝志さんと車の話を始めた。
「ええこの車、実はうちの父が大事に乗っていたものですが、管理にお金がかかりすぎるから手放すと言うので僕がもらったのです。一番大変なのは調子が悪くなった時に交換パーツがないことなのですが、ネットで捜して必要なパーツを入手して、父の代からメンテナンスを頼んでいる修理工場に持ち込んでいるのです」
「でも、部品自体が入手できない場合はどうするのですか」
山葉さんが旧車の維持管理の話で盛り上がっている間に、助手席に座る女性の顔は横顔が見えるところまで振り向いている。
整った鼻梁と、綺麗なあごのライン。そして伏し目がちに見える目の長いまつげが僕の目に入った。
僕は、山葉さんと孝志さんの「ワーゲン」の話に加わる余裕もなく魅入られたように女性から目を離せない。
「それが、ビートルⅠはブラジルやメキシコでは比較的最近までライセンス生産がおこなわれていたのです。特にメキシコでは2003年まで生産されていたので比較的程度のいい部品がストックされています。それに目を付けた国内の通販業者が大量に部品を仕入れてきてネットで販売しているのです」
「なるほど、R32-GTRに根強いファンがいるので日産系列のNISMOが部品を供給することになり、値段はともかく入手できるようになった話を思い出しますね」
山葉さんは車マニアのおっさんのような話を呑気に続けているが僕は霊という潜在的な脅威が身に降りかかりつつあることを感じて、緊張が高まるばかりだ。
それでも、緊張をほぐそうと思って、僕も車の話に加わることにした。
「そういえばこの車はエンジン音が後ろから聞こえますね」
孝志さんはバックミラー越しに僕を見ると、機嫌よく話を続ける
「ええ、ビートルⅠはリアに空冷の水平対向エンジンをマウントしていますからね」
「なんだかポルシェ911シリーズに似たレイアウトですね」
僕が口をはさむと、孝志さんは水を得た魚のように話を続ける。
「それは偶然ではありませんよ。ビートルⅠを設計したフェルディナント・ポルシェ博士こそが後のスポーツカーメーカーのポルシェの創設者ですからね」
「へえ、そうなんですね」
その時には、助手席に座る女性の霊は僕の顔を真っすぐ見つめる角度まで振り向いていた。
目を見開いているわけではないが、切れ長の大きな目は瞬きもせずにこちらを見つめており、青白く感じられる白目とその中央の真っ黒な瞳からは何の感情も読み取ることができない。
僕の私見だが、たとえ霊視ができたとしても霊が存在する空間と僕たちがいる空間は本質的に異なっていて、時間の流れや空間を支配する物理法則すら違っている気がする。
霊と会話して意思疎通ができるのは、こちらが霊たちの存在する時空に足を踏み入れて情報をやり取りしているためにちがいないとするのが僕の考えだ。
早い話、誰かに思いを残して死んだ霊が相手の人に憑り付き、付かず離れず寄り添っていたとしても、本人に霊感が無ければそのまま双方が気付かないまま年月が流れていく可能性すらある。
逆に霊視が効く人間は、見るという行為だけで相手とコンタクトを取っているわけで、相手の霊も気付いてこちらにアクションを仕掛けてくる可能性が高いのだ。
ビートルⅠの助手席に座る女性の霊、おそらく容子さんは無表情なまま僕を見つめ、今度は片手をこちらに伸ばそうとしている。
その時僕は、あることに気が付いた。孝志さんにビートルⅠに乗せてもらった時、僕と山葉さんは当然のように二人とも後部座席に乗り込んだのだが、それはよく考えたら不自然な行動だ。
ビートルⅠは大人が4人乗れる座席を備えているとはいえ、ドアは2枚のみ。後部座席に乗るのはそれなりに不便なので、この場合山葉さんが助手席に乗って孝志さんと話をするのが自然な成り行きなのだ。
僕たち二人は、あたかももう一人誰かが乗ることを想定していたかのようにさっさと後部座席に乗り込んでいたのだ。
僕たちが無意識のうちに助手席を避けたのか「彼女」がそうさせたのかは神のみぞ知ることだった。
「優れた設計思想の車というものは、長く生産されるものなのですね」
僕の考えとは関係なく山葉さんが孝志さんに告げると、彼は嬉しそうにうなずいた。
孝志さんは、ビートルⅠを運転して川崎インターチェンジから第三京浜に乗り保土谷から横浜新道に入っている。
その道は、葉山界隈にあるホスピスに山葉さんと「仕事」に行く際によく使うので僕にとっても見慣れた道だ。
「ここまで来たら、入手できない部品は自作するくらいの意気込みでこの車に乗り続けたいですよ」
山葉さんはそこで彼に違う傾向の質問を向けた。
「あなたがドライブ好きなのはこの車が大好きだからなのですか」
孝志さんは、即答しないで口ごもった後で口を開いた。
「あなたは、僕が亡くなった恋人の思い出にしがみついていると言いたそうですね」
孝志さんはそれまでの朗らかな雰囲気から豹変して、シニカルな感じで山葉さんに問い返す
その間も容子さんの霊はじわじわと僕に手を伸ばしてくる。
僕は山葉さんに『いい加減に何とかしてくださいよ』と心の中でつぶやきながら霊が伸ばしてくる手から逃れるように後部座席の背もたれにへばりついた。
僕が必死になって手を振って注意を引くと、山葉さんは状況に気が付いて自分のトートバッグの中身を物色し始めた。
次の瞬間、山葉さんの手が大きく動き、何か白いものがさらりと音を立てて一閃した。
僕を見つめて手を伸ばしていた女性の姿は消え失せ、山葉さんの手には和紙を切って作られた複雑な造形物が握られていた。
それは、彼女が「取り分け」の儀式の際に切り札のように使う「高田の王子」と呼ばれる式王子だった。
式王子とは式神のようなものだが神ではない。いざなぎ流で邪霊や呪詛を取り除く際に強力な力を発揮する存在だ。
運転を続けていた孝志さんは、背後で山葉さんが大きな動きを見せたことに気が付いたようだった。
「今、何をされたのですか」
山葉さんは少し迷ってから、本当のことを告げた。
実はこの車の助手席に女性の霊が現れたのです。
私の霊視では詳細までわかりませんでしたが助手の内村ならその女性の風貌まで見分けていたはず。
その女性の霊が内村に向かって身を乗り出し手を伸ばし始めたので、この式王子を使って祓ったところです。
孝志さんは運転中なのに運転席から振り返って僕たちをまじまじと見つめた。
「本当なんですか」
山葉さんは自分が答える代わりに孝志さんに前に前を見ろと前方を指さしている。
孝志さんが前を向いて運転を再開したので、僕はほっとしたが、孝志さんは堅い口調で僕たちに尋ねた。
「僕の両親に頼まれて二人で芝居を打っているのではないですよね。助手席に座っていた女性が何を着ていたか言ってもらえませんか」
僕は、今しがた見えていた女性のコディネートを思い出した。ちょうど今の季節に会いそうな雰囲気だったのを覚えている。
「黒いノースリーブのトップスに白っぽい花柄のスカートの組み合わせでした。」
僕が伝えた瞬間、ビートルⅠは急ブレーキをかけて停止した。
身構えていなかった僕は運転席の背もたれに顔をぶつけたくらいだ。
「孝志さん、ここは高速道路ですよ。危ないから早く発進してください」
山葉さんが常になく焦りを露に孝志さんに声をかけた。
停止したビートルⅠの周囲をクラクションこそ鳴らさないが迷惑そうな雰囲気で後続車が追い抜いていく。
前方をよく見ていない車がいたらそのまま惨事になりかねない状況だ
孝志さんもそのことに気が付いたらしく急発進すると、スピードを上げて周囲の車の流れに乗る。
「それは容子だ。彼女と最後にドライブに行った時もそんな恰好をしていたのを覚えている」
孝志さんはステアリングを握ったまま、独り言のようにブツブツとつぶやいていた。
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