第192話 首都高速の小さな事故

夕暮れが迫る演習場を俺と田島は走った。

その日行軍してきたのは演習場内の道すらない草原や森のなかで、日が暮れたら落とし物探しなど不可能だ。

「どうしたら着剣した銃剣を落としたりできるものかな」

俺は足元の草むらに目を配って走りながらぼやく。

89式小銃は1989年に正式化された自衛隊用の国産自動小銃で、口径5.56ミリメートルの弾薬は米軍のアーマライトM16やNATO軍のSS109と共通の規格が使われている。

それまでの64式小銃は口径7.62ミリメートルの弾薬を使っていたので、弾薬が軽量化されて一人の兵員が携行できる弾の数が増えたとされるが、そんな大昔のことを俺は知らない。

問題の銃剣は、自動小銃の筒先にくっつけて敵兵を突き刺すために使う剣呑なものだ。

自衛隊には銃剣道という武道があり伝統的に重視されている。旧型の64式小銃の銃剣などは刃渡りが40センチメートルもあったらしいが、89式小銃の銃剣は、普通のアーミーナイフを銃身にくっつけた程度の外観だ。

それでも、銃剣にはリング状の金具がついて、そこを銃身にはめる他に、柄頭の部分に溝があり、そこに小銃側の剣止めを差し込むと内部でロックされて、解除ボタンを押さないとそう簡単には外れない機構になっている。

銃剣を落としてしまうという事は、このロック部分がきちんと作動するまではめ込んでいなかったのに他ならない。

「ちゃんと装着していなかったってことだな。あの人はその辺がきちんとできないからダメなんだ」

田島はあっさりと言い切った。彼は人当たりは良いがその手のミスには厳しい。

自衛隊は人手不足が常に問題となっており、採用する人員の質が下がっているだのと口さがないことを言われ、俺たちは肩身が狭い。

演習でも着弾観測をちゃんとしろとか、装備を紛失するな等、基本的事項を声高に言われる傾向が強くなっている。

そんな時に、目立つ装備を紛失するのは非常にまずかった。

俺と田島は集合場所に装備を置いてきたので、身軽になったため1,000メートル走るのに5分もかかっていないはずだ。

それでも、10キロメートルも走って戻ってくると時間がかかりすぎる。

集合地点にいる同じ分隊の同僚が遅れて戻ってくる迫撃砲部隊の動向をみてタイムリミットを知らせてくれることになっているので自ずと捜索エリアは限られる。

その時、俺の目に草むらからほんの少し覗いた黒みがかった灰色の物体が目に入った。

89式銃剣は、反射を抑えるために艶消しのダークグレーで表面をコーティングされている。

足を止めた俺は草をかき分けた。田島も少しに先に行ってから俺の動向に気付いて戻ってくる。

枯れて茶色くなったカヤの草むらの中に鎮座していたのは、紛れもなく89式の銃剣だった。

「あった」

「浩一。グッドジョブ」

田島は、素早く集合地点にいる同僚に連絡を入れた。

別方向から捜索している野崎たちにも連絡は中継されるはずだ。

「ほら、見つけたのは浩一だからお前が持って行ってやれよ」

「わかった。そうするよ」

俺は拾い上げた89式銃剣を握って走り始めた。

帰り道は気のせいか足が軽く、20分ほども走ると集合地点が見えて来た。

同じ分隊の面々の中から、野崎が走り出てくる。

「ありましたよ」

俺は意識してあっさりと野崎に告げる。

「ありがとう北条。俺は、」

俺が差し出した銃剣を両手で受け取った野崎は言葉に詰まった。

彼の顔を見ると、両目から涙があふれて流れている。大仰だなと思いながら、俺は言葉の掛けようがなくて野崎の次の言葉を待った。

「俺は、北条が三曹昇格試験を狙っていると思ってわざとつらく当たっていたのに、俺の失敗をフォローしてくれるなんて。どう礼を言ったらいいかわからない」

「知っていたんですか」

野崎の態度を見てそんな気はしていたのだが、本人が口にするとは意外だった。

「同じ部屋で暮らしていてわからないわけがないだろう。俺はライバルを増やしたくないから姑息なことをしていたのに」

「浩一が同室の先輩をフォローしない訳ありませんよ。こいつは愛想が悪いけどいい奴なんですよ」

後ろから追いついた田島が言う。俺は「走れメロス」的な湿っぽい展開にどう口を挟んだらいいかわからなくて黙っていると、野崎はがっちりと俺の手を握った。

「すまなかった北条、これからは共同戦線で三曹昇格試験を目指そう」

どうやら野崎一等陸士は自衛隊に残りたくて必死で試験の準備を進めていたようだ。

それも後輩の俺を蹴落としてでも受かりたいのだから、相当な執念だ。

今どきは人手不足で退職した任期自衛官ならば、宅配業者あたりに就職することは難しくない。

それでも将来を考えたり、自分の適性や好みで自衛隊に残りたい人間はいる。他ならぬ俺もその一人だった。

その後、俺と野崎は仲が良くなった。

彼は上官に取り入るのがうまく、上官の若手陸曹が試験対策も考えてくれるようになったので、俺と野崎氏は相次いで陸曹試験に受かることができた。

これからさらに幹部候補試験に受かれば、自衛隊で長期間勤務することが可能になる。

俺は、任期が終わった時の退職金で買った車のステアリングを握りながら、退官した田島のことを考えていた。

彼は任期中に貯金した金を使って調理師学校で勉強して調理師を目指すのだと言っていた。

俺は自分の今があるのは田島のおかげのような気がしていた。

演習場で先輩の野崎一等陸士を見捨てるようなことをしたら、自分も陸曹にはなれなかったと思うからだ。

いつか田島に恩を返したいと考えながら首都高速を走っていると、前方を走っている大型トラックが妙にふらついていることに気が付いた。

最近は、長距離バスの運転手とかの過重勤務は減ったと聞くが、運輸業界のドライバー不足は相変わらずだ。

貰い事故もかなわないので、俺は首都高速が大きく左に曲がるコーナーでアウト側からトラックをパスしようとした。

コーナーで速度を落とすトラックを一気に抜こうとしたのだが、トラックは速度を落とさないでコーナーに侵入し、アウト側に膨らんだ。

俺が最後に見たのは、視界を覆うように傾いて倒れてくるトラックの荷室だった。

しばらくして、俺は首都高速の事故現場を俯瞰していた。

居眠運転でコーナーで横転したトラックが乗用車を巻き込んで炎上。

事故車両でふさがれた首都高速は大規模な渋滞が始まっていた。

夕方のニュースでチラッと報道されるような交通事故の概況。

ただし、そこでトラックの下敷きになって燃えているのは俺の車と俺自身だった。

もうどうにもならないと思った時に、いろいろな情報が俺の頭に流れ込んできた。

死者は所縁のある者を見守ることもできるし、そのまま来世に旅立つこともできるといった情報が、まるでもともと知っていたことのように俺の頭に浮かぶ。

だか、生憎なことに俺にとって身内と呼べるような人間はこの世にはいなかった。

交通事故で両親を亡くした俺は施設で育ち、施設を出た後はどうにか自衛隊に入って生きるすべを見出していたのだ。

その時、俺は事故の直前にかつての同僚、田島に恩を返したいと思っていたことを思い出した。

『所縁のある人間として田島を見守ってやることはできないだろうか』

誰にともなく問いかけた俺の質問に対する答えは、寛容な沈黙だった。

それ以来、俺は時の流れの無い場所に入り込んだようだ。

ひょっとしたら田島の傍にいるのかもしれないが、奴と接触した記憶はない。

ただ、時が来るのを待っている、そんな気がしていた。


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