第184話 冷たい雨

僕の実家を訪ねた日の夜、僕と山葉さんは彼女のベッドで就寝する前に神妙な雰囲気で互いを見つめ合った。

「昼間も話したが、タイムパラドクスが発生したら私たちは二人とも消えてしまうかもしれない。それでも明菜ちゃん救出に行くという事でいいな」

山葉さんは真顔で僕に言う。

「わかっていますが、あの子はあのままでは虐待で死んでしまうかもしれない。放っておくわけにはいきませんよ」

僕が答えると、彼女は目を伏せた。

「死んでしまうかもしれないではなくて、明菜ちゃんが遠い昔に死んでしまっているという過去形の話だな。つまり、彼女が虐待で死んでしまう運命だったのを助けることは現代に甚大な影響を及ぼすかもしれない」

それは昼間話し合ったことを再確認するようなやり取りだった。僕はベッドサイドに立てかけてあった、少女の描かれた油彩画を手に取った。

ダークブルー系の背景の中で、白いドレスの少女が際立つ絵柄。

夢の中にも登場するその絵は顔の世界と現在の僕たちをつなぐゲイトウエイのような存在だ。

「とりあえず、昨夜と同じようにこの絵をベッドにもたせ掛けた状態で寝てみましょう。僕が見る夢が昨夜と同じ過去の世界に通じること、そして山葉さんが僕の夢に登場すること、全ての事象の再現性が定かでない話ですからね」

山葉さんがうなずき、僕たちはライトを消して就寝することになった。

しかし、過去に干渉したら自分たち自身も消えてしまうかもしれないという思いが僕たちを寝付けなくした。

就寝してからどれくらい時間が経過したかわからないが、僕がもぞもぞと寝返りを打つと、隣で寝ている山葉さんがはっきりとした声で言う。

「眠れないのかウッチー」

「ええ、目が冴えてしまったみたいで」

僕が答えると、彼女も寝返りを打ってこちらを向いた。

「私も、過去を改変したためにウッチーがいない世界に取り残されたらどうしようと考えていて眠れなくなってしまった。」

窓から洩れるほのかな明かりの中で、彼女の顔がかすかに見える。

「僕もあなたがいない世界になっていたら死んでしまった方がましです」

僕がつぶやくと、布団の下で彼女の手がもぞもぞと動き僕の手を握った。

手をつないで並んで横たわっているうちに僕たちはいつの間にか眠りに落ちて行った。

気が付くと、僕は昨夜見た夢と同じ地下室に立っていた。

気配を感じて横を見ると山葉さんもそこにいる。

彼女は、やはり高校生くらいの容姿で白衣に緋袴の巫女姿だった。

そして、一階へ続く階段から地下室に入るドアの手前に小さな人影が見える。

それはどうやら明菜ちゃんのようだった。

明り取りの窓からの薄明かりの中で明菜ちゃんは大きく目を見開いて僕たちを見ていたが、

素早く後ろを向くとバタバタと走りながら一階への階段を登って行った。

「山葉さん、彼女は僕たちを覚えていなかったのでしょうか?」

僕が尋ねると、彼女はゆっくりと首を左右に振った。

「彼女は地下室の薄暗い空間に、そこにいるはずのない人影を見たのです。逃げていくという反応が普通ですよ」

「確かにそうかもしれませんね」

僕は相槌をうちながら後ろを振り返った。

そこには例の少女を描いた油彩画が掛けられていた。

「あの絵をここに掛けてしまったのですね」

僕は何気なくその絵に手を伸ばしたが、山葉さんは僕の腕を片手でつかんで止める。

「触ってはダメです。」

「いてて、わかったよ。わかったから放してよ」

彼女の手の力が強くて僕は音を上げた。そういえば昨日も同じような場面があったような気がする。

「吸い込まれるって?昨日もそんなことをしたことを覚えていますか?」

「何ですか昨日のことって」

僕が尋ねると、彼女は首を傾けながら言う。彼女は夢の中特有の現在の記憶から切り離された状態らしい。

「いいんです。とりあえず明菜ちゃんの後を追いましょう」

僕が彼女を促して歩き始めると、彼女が後ろに続く気配があった。

地下室を出て、階段を登ると、広い廊下が続く。

人気がありそうなリビングらしき部屋に入ると、革張りらしい大きめのソファーや、凝った作りのローテーブルが目につく。

「明菜ちゃんは何処にいるのでしょうね」

僕がつぶやくと、横に並んだ山葉さんは顔を少し上に向けて鼻から空気を吸い込んだ。

「まさか、匂いで彼女を捜そうとしているんですか」

「違う、美味しそうな匂いがするからなんだろうと思って嗅いでみたのです」

確かに僕の鼻にも、馴染みのある食べ物のにおいが感じられる。

その時、ガチャーンという金属品が落下する音が響き、少し間をおいて子供の泣き声が聞こえて来た。

「行ってみましょう」

山葉さんは、音がした方向に駆けだし、僕もそれに続いた。

広いリビングの反対側にオープンキッチンがあり、子供の泣き声はそこから響いていた。

そこでは床に鍋が転がり、周辺にはクリームシチューがぶちまけられている。

そして、こぼれたクリームシチューの一部は明菜ちゃんの肩から背中にかけて付着している。

「どうしてあなたは、お鍋を運んでいる時に足もとに来るのよ。せっかく作ったのに全部こぼれちゃったじゃないの」

母親は声高にしかりつけるが、明菜ちゃんは泣き叫んでいる。

「服にこぼれちゃっています、早く脱がして水で冷やさないと」

山葉さんがつぶやくと、立ちすくんでいた母親は明菜ちゃんの手を引っ張って引き起こすと、強引に引っ張って歩き始めた。

母親が目指していたのはバスルームだった。

彼女は明菜ちゃんの服を脱がすと、冷たいシャワーを肩から背中に浴びせ始める。

「良かった。とりあえず冷やしてくれた。十分に冷やしてから急いで病院に運ばないと、やけどの面積が広いから大変なことになります」

山葉さんは、ほっとした表情を浮かべる。

明菜ちゃんの母親がちゃんと応急処置をしたのに安堵したのだ。

母親は泣きじゃくる明菜ちゃんの体をバスタオルで拭いたが、その体はあちこちに痣が目立つ。

下着とパジャマを着せた母親は、やけどになった部分に樹脂製のラップを張り付けると地下室まで運んで、そこに置いてあった座布団の上に寝かせた。

母親は明菜ちゃんを寝かせると、階段を登る。

僕と山葉さんは彼女の後を追い、リビングからキッチンに入った。そして、彼女はおもむろに床にぶちまけられたクリームシチューの片づけを始めた。

「どうして救急車を呼ばないの、そんなことをしている場合じゃないのに」

山葉さんは理由がわからない様子で母親の動きを目で追っている。その時僕は彼女が救急車を呼ばない理由に思い当たった。

「救急車を呼ぶと、火傷だけではなくて明菜ちゃんの体にある虐待による痣を見られてしまうからだ」

山葉さんは目を見開いて僕を振り返った。

「信じられない。あんな酷い火傷なのに、治療を受けさせないつもりだと言うのですか」

僕は無言で母親の様子を見つめるが、彼女は床をきれいにして鍋を洗うと、ダイニングの椅子に座って一休みしている様子だ。

「明菜ちゃんの様子を見に行こう」

僕は再び地下室を目指した。地下室では明菜ちゃんが嗚咽をこらえながら訴える。

「痛い、背中が痛いの」

彼女は僕たちの姿を認めて必死に痛みを訴える。

僕たちはこの世界では実体がない存在だが、何故か彼女は僕たちを視認する。

「どうしよう。このまま放っておいたら命が危ないです。早く病院に連れて行く方法はないでしょうか」

僕は地下室を見渡しながら考えた。

僕たちは実体がないので、明菜ちゃんが病院で治療を受けるには自力で外に出て助けを求める他ない。

階段を登って玄関から出るのが最も容易だが、途中で母親に見つかってしまう可能性が高かった。

僕は地下室に設けられた明り取りの窓を見た。

「あそこのワインカーブの上に、脚立を乗せて立てることができたら彼女でも明り取りの窓に手が届く。そこから彼女を脱出させて道路まで行って助けを求める他にないようだ」

僕がつぶやくと、山葉さんは脚立を手に取ろうとするが、彼女は掴むことができない。

その時、明菜ちゃんが起き上がるとふらふらと歩いて来て脚立に手をかけた。彼女は横にされていた脚立を立てると、それをワインカーブに立てかけた。

そして、ゆっくりと脚立を登っていく。ワインカーブの上に登った彼女は、今度は脚立を引き上げ始めた。

「あなたがしゃべったことをちゃんと理解したのですね」

山葉さんは感心したようにワインカーブに近付くと、ひょいとその上に飛び乗った。

ワインカーブは大人の胸辺りに届くほどの高さがあるのだが、彼女は身軽だ。

僕もワインカーブの上によじ登ってみると、山葉さんは引き挙げた脚立を懸命に運ぼうとする明菜ちゃんを励ましていた。

「頑張って、あそこから外に出たら大通りまで走って大きな声で助けを求めるのよ」

明菜ちゃんは山葉さんにうなずくと、ワインカーブの上に建てた脚立を登り始め、明り取りの窓を開けるとするりと外に出ていた。

僕たちは自分たちはそこから出るのは不可能だと思っていたが、窓の外をイメージするといつの間にか地上に立って庭をかけていく明菜ちゃんの後姿を見ていた。

彼女の後を追おうとしても、ある一定の距離で、引き戻されるような感覚がありそれ以上は進めない。

周囲には冷たい雨が降り注ぎ庭先の地面には水溜まりができていた。

「彼女、誰かに助けてもらえたでしょうか」

山葉さんは雨のなかで、明菜ちゃんが走り去った方向を眺めている。

「大丈夫ですよ、きっと」

僕は気休めのような言葉を返すしかなかった。

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