第145話 アールグレイの記憶

その夜、僕と山葉さんは、坂田警部に依頼を受けた夜に、劇団キキが公演を行っている劇場の関係者用出入り口を見張っていた。

劇団キキは奈々子さんが所属する大きな劇団で港区に専用の劇場を所有している。

僕たちは細川オーナーのBMW M3を借りていた。場所柄BMWの方が目立たないだろうという山葉さんの考えはあながち外れてもいないようで、少し年式の古いM3は辺りの雰囲気に見事に同化している。

「こういうのを出待ちと言うのですかね」

「出待ちというのは熱烈なファンが、お目あての俳優が劇場から出てくるのを待ち伏せするのが本来の意味だ。しかし、あの連中みたいにスキャンダルの取材のために待ち伏せするケースも往々にしてあるのだな」

山葉さんはつまらなそうに関係者用出入り口を眺めていたが、急に眼付を鋭くする。

「動いたぞ」

僕もあわてて、出入り口を注視する。

劇場の出入り口から、夜なのにサングラスとマスクそしてキャップを被った女性が付き人らしい男性を伴って足早に出てきた。

カメラを構える報道関係者たちがその周囲に群がるが、付き人の男性が手荒く押しのけて女性を通している。その先には黒塗りのワンボックスカーが素早く横付けされた。

サングラス等で顔を隠した女性と付き人が乗り込むとワンボックスカーは周囲の報道陣を振り切るように強引に発車し、その様子を報道陣のカメラが追いかける。

ワンボックスカーを追って数台の自動車やバイクが出ていき、残された報道陣も劇場の出入り口からゆっくりと散り始めた頃、山葉さんはゆっくりとM3を動かした。

山葉さんは報道陣が減り、本物のファンがまばらにたたずむ出入り口の前にM3を横付けした。

関係者出入り口からはマスクを着けて清掃員のような恰好をした男女が黒いビニール袋を抱えて出てくるが、待ち構えているファンたちは出演している俳優が目当てなのでスルーしている。

「あの二人だ。ウッチー、目立たないように呼んでくれ」

僕は事前に聞かされていなかったので、彼女の言葉に驚きながらドアを開けて二人を手招きする。

清掃員姿の女性は僕の姿を認めて駆け寄ってきた。

「内村君久しぶりね。夜中なのにありがとう」

清掃員姿の女性は奈々子さんだった。先ほどのサングラスの女性は報道陣をまくためのダミーだったのだ。

「どうも。後部座席に乗ってください」

僕はいったん車の外に出るとシートを動かして二人を後部座席に乗せ、再び助手席に座る。

M3はクーペスタイルの2ドア仕様のため、4人乗車する際は不便なのだ。

僕がドアを閉めるのと同時に山葉さんはM3を発進させ、スムーズな加速で表通りの車の流れに乗せた。

奈々子さんは劇場を離れるとマスクを取って大きく息をついた。

「山葉さんありがとう。今日はどうやって脱出しようかと悩んでいた時に電話をもらったから、無理なお願いをしてしまって。そうそう、この人は神崎浩平と言って私のマネージャーです」

「神崎です。よろしくお願いします」

奈々子さんと神崎さんは無事に劇場を出られてほっとした雰囲気だ。

「いいんですよ。坂田警部に頼まれたのでとりあえず話だけでも聞かせもらわないといけませんから。とりあえず、どこに行ったらいいかな」

山葉さんはミラー越しに彼女に視線を投げてから答えた。

「有楽町の帝都ホテルに向かってください。例の事件後、マスコミが張り付くようになったので奈々子さんはそのホテルに滞在しています。自宅もさっきの連中が張り込んでいてうるさいですからね」

神崎さんがうんざりした表情で告げる。

「殺人事件の被疑者だとか公式発表は一切ないはずなのに何故、奈々子さんが犯人扱いされるんですかね」

ぼくは先ほどまでの様子が納得いかなくてつぶやく。

「動機の面から推定して、怪しいと思った人にはインタビューと称して事前に取材して画像を押さえておく。他局に出し抜かれないための知恵なんでしょうね」

奈々子さんが他人事のように答えた。当事者のはずなのに彼女は自分を取り巻く状況をクールに分析しているように見える

山葉さんは芝浦から日比谷通りに通じる道に車を乗り入れると、おもむろに奈々子さんに尋ねた。

「他殺といわれている女優の小島由里子さんとは面識はあったのですか」

「2、3回挨拶を交わした程度ね。あのドラマのキャストはオーディションで決めるわけではないから、事前に出演の候補者が集まるような機会はないの」

「奈々子さんにオファーがあったのはドラマの製作スタッフから事務所を通しての話でした。脚本家の野田雄二先生自身が奈々子さんに興味を示していたという話で、小島さんの事件がヒロイン役の選定争いの結果だという世間の噂が腑に落ちないんです」

奈々子さんと神崎さんが口々に答える。

どうやら水面下でキャストの選定が行われていたようで、出演候補者同士が互いを意識するような状況ではなかったようだ。

そんな話をしているうちに、山葉さんは目的のホテルの入り口に車を横付けしていた。

ドアマンは清掃員姿の奈々子さんを見ても、顔を憶えているらしく眉一つ動かさずにホテル内に入れる。もう一人のホテルスタッフは山葉さんから車を預かって駐車場に移動した。

先にフロントに走っていた神崎さんはルームキーを奈々子さんに渡しながら告げる。

「明日は9時にお迎えに上がります。くれぐれもホテルから外に出ないでくださいね」

「ありがとう。おやすみなさい」

奈々子さんはルームキーを受け取りながらため息をついた。

「近くの中華料理店でご飯でも一緒に食べようかと思っていたけど、おとなしく部屋で話した方がよさそうね」

僕たちは彼女に促されて彼女が泊まる部屋に付いていくことになった。

彼女の部屋は、寝室だけでなくダイニングのようなテーブルがある部屋が併設されていた。内装もクラッシックで豪華な雰囲気だ。

「こういうのをスイートルームって言うんですね」

「私も使ったことないけど多分そうだね」

僕たちがひそひそ話をしている間に奈々子さんは黒いポリ袋からキャスターバッグやトートバッグを取り出して、部屋の奥に運んでいた。

あっという間に部屋着に着替えて戻ってきた彼女はルームサービスで飲み物を頼むと、ダイニングテーブルに座ってフウッと息をついた。

「なんでこんなことになっているのか訳わかんないわ」

僕たちはテーブルの彼女の反対側に勝手に座り、山葉さんがさりげなく話す。

「坂田警部は自分が一番働きたい時に近づくこともできないと言って歯がゆい思いをしているみたいでしたよ」

「憲治君がそんなことを言っていたんですね。ご存知だと思うけど彼は上司から私に近づくなと言われたら本当にメール一つも送ってこないような堅物なので、身動きが取れずにつらい思いをしているんでしょうね」

奈々子さんは苦笑しながら言う。

「私たちも奈々子さんを信じていますけど、被害者の小島さんとほとんど接触がなかったというのは本当なのですね」

山葉さんが尋ねると、奈々子さんは頬杖をついたままで空いた方の手をひらひらさせて見せる。

「もちろん、自分では濡れ衣を着せられても潔白な事に変わりはないからと思っているから慌てていないけど、周囲から見たら危機感が無さ過ぎると見えるのね」

彼女の言動は一見何事もなく振る舞っていても警察の参考人聴取等では犯人扱いもされていることを示していた。

僕は周囲の状況に動じていないように見えるのは彼女の芯の強さのためかもしれないと思う。

「話は変わるけど、坂田警部とは婚約されたんですよね。式の日取りとかは決めているんですか」

山葉さんの質問に僕の方が身を固くした。

山葉さんが自分からその類の質問をするとは思っていなかったからだ。

「式の日取りは決めていたけど、今回の件で無期延期です。私に対する疑いが晴れないことには彼と結婚することはできないでしょ」

そのとおりだった。

坂田警部にしてみれば自分が事件に関与できないうえに、奈々子さんの無罪が証明されないうちは署内で干されているのに等しい状況に違いない。

山葉さんに助力を求めたのも、藁をもつかむ心境だったのかもしれない。

僕は場の空気を変えようとして他愛のない話を振ってみた。

「でも、テレビ出演の話があるなんて奈々子さんもすっかりスターですね。劇団の中でも中心的な存在になっているのではないですか」

彼女は笑顔を浮かべたものの頭を振る。

「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわ。でも、大きな役をもらったと言ってもまだまだ駆け出しの女優に過ぎないことは、自分が一番身に染みている。本当に輝くことができるならばそのまま燃え尽きて灰になってしまってもいいような気がするわ」

謙遜した言葉のようだが、それは婚約者がいて結婚を控えた女性にはそぐわない気がした。

むしろ、演劇一筋に打ち込んで家庭を持つことなど考えていない女性が言いそうなセリフだ。

その時、ルームサービスが来たので、僕たちは彼女が頼んだお茶を楽しんだ。

磁器製のティーポットに入れられた紅茶と、ケーキのセットはカフェで提供するものよりちょっと上品な雰囲気だ。

山葉さんと奈々子さんは、奈々子さんの顔見知りの男優の女性関係の話で盛り上がっていた。

「ここだけの話」という言葉は、ゴシップ話を盛り上げるためのスパイスに他ならないようだ。

聞き役に回っていた僕はティーカップを手に取ったが、紅茶の香りに僕の記憶が刺激されて、何かを思い出しかける。

ティーカップから立ち上がるアールグレイの香りが奈々子さんに関連する何かと結びついている気がするのだ。

やがて、僕はそれが現実に体験した記憶ですらないことに気が付いた。

アールグレイの香りが呼び覚ましたのは奈々子さんの叔母、明日香さんの記憶だった。

その時、明日香さんは既にこの世の人ではなく山葉さんの浄霊の儀式をすり抜けて、僕に取り憑き、僕の夢の中に現れたのだ。

アールグレイの香りはその夢の中で嗅いだのだった。

明日香さんは奈々子さんの身に差し迫った危険があり、それを僕に知らせようとしていたのだが、山葉さんは明日香さん自身が現世に執着を残している可能性が高いと言っていた。

もしかしたら、演劇に人生をかけていた明日香さんが奈々子さんに乗り移って操ろうとしているのではないだろうか。

僕は自分が思い浮かべた疑念を振り払おうと奈々子さんと山葉さんを見たが、山葉さんは話の合間に眉間にしわを寄せて奈々子さんを見ていた。

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