Ψの悲劇シーンⅡ

第144話 フィアンセは重要参考人

7月も半ばを過ぎた週末、僕は相変わらずカフェ青葉でアルバイトに明け暮れていた。

大学院進学を決めた時点で、僕は修士課程の以降の学費は自分で工面したいと考えたのだ。

自宅通学ということもあり、カフェ青葉でアルバイトを続けていけばそれはあながち不可能ではないような気がしていた。

「ウッチー先輩、最近まめにバイトを入れてますね。ここに住み込んで、通学定期もそれに合わせて買った方がましじゃないですか」

僕がコーヒーをドリップで淹れている横で沼さんがバイトのシフト表を見ながら言う。

折しも、ランチタイムの片付けが終わり、午後の少し暇な時間に入ったところだ。

「実は定期が切れた時に更新していないんだ。最近バイクを使うことも多いからね」

「あ、やっぱり」

彼女はクスッと笑った。

バイクを使うことも多いからと言い訳しても、アルバイトの後で山葉さんの部屋にしばしば泊めてもらっているのはバイト仲間には周知の事実だ。

その時、僕は視野の隅に異変をとらえて対応に移った。

僕の目がとらえたのは店のオーナーの細川さんが通路にしゃがみこんだところだった。

「細川さん大丈夫ですか」

僕はコーヒーを淹れるためのケトルを置いて、通路の細川さんに駆け寄る。

「大丈夫よ、ちょっと立ち眩みがしただけだから」

細川さんは、笑顔で顔を上げて見せるが、顔色はよくない。

「顔色が悪いですよ。頭痛とか吐き気はないですか」

「うん。少し頭痛がするけど大したことはないから」

細川さんは気丈に立ち上がろうとするが、その症状は熱中症を思わせるものだ。

「無理しないで休んでください。熱中症だとしたらすでにやばいレベルですよ」

僕は彼女を横から支えながら店のバックヤードに連れていくことにした。

クーラーを効かしたスペースで休憩を取ってもらわないと、救急搬送が必要になるかもしれなかった。

バックヤードで山葉さんが祈祷を行う「いざなぎの間」は本来、従業員の休憩スペースだ。

僕と細川さんがバックヤードに入ると、厨房にいた山葉さんが気配に気付いて慌てた様子で駆けよってきた。

「駄目じゃないですか細川さん。お店の方に行ってしまったんですね」

彼女は咎めるような眼を僕にも向けてくるので、僕は慌てて説明する。

「お店の中で立ち眩みがしたみたいなんです」

山葉さんは眉間のあたりを手でつまんでため息をついた。

「細川さん、熱中症の心配があるから寝ていてくださいと言ったじゃないですか」

「ごめん。大丈夫と思ったんだけど」

細川さんは叱られた子供のように小さくなっている。

いざなぎの間に入ってみると、既に寒いくらいにクーラーが効かされて布団も敷いてあるうえ、タオルでくるんだ保冷材が数個転がっている。

どうやら細川さんは、熱中症気味だから休んでいるように言われたものの、回復したと思って再び店内に戻ってしまったようだ。

「厨房にも強力なクーラーがあるのになぜそんなことになったのですか」

「私は今日のランチタイムの日替わりメニューを冷やし中華にしようと言ったのだが、細川さんは予定通りポークのガーリックソテーをメインにすると言われて、ずっと調理に当たってくれたのだ。厨房内にクーラーをかけても、換気扇で排気しているせいでクーラーの効きが悪いし、火を使って調理していたので相当こたえたのだと思う」

「暑い時こそしっかり食べないとだめなのよ」

細川オーナーは布団に横になると、保冷剤を両わきに抱えながら口を尖らせる。

「だからと言って、オーナーが倒れちゃだめです。これからは夏場に火を使う調理は私かウッチーがやります」

山葉さんが宣言すると、細川オーナーは観念したようにさらにもう一個の保冷剤を頭にのせて沈黙した。

「水差しに冷たい麦茶を入れておきますから水分も十分にとってくださいね」

「はいはい」

細川オーナーは小さな声で答えた。

山葉さんがオーナーにダメ押しをした後で、僕たちはいざなぎの間の引き戸を閉めて、バックヤードからフロアに戻った。

「カフェもお店の経営者が高齢になると提供するメニューを変更する必要がある。炒め物や揚げ物のような調理するのに体力が必要な料理はメニューから落として、ドリンクとパン、ケーキ系のメニューにすればスタッフの体力的な負担は減るからね」

実際、カフェ青葉のパンとケーキ類は近所のパン屋さんに外注しているので、そうなればドリンク系が主な仕事になるはずだ。

「それはいいかもしれませんね。細川さんもかなりの年ですから」

僕が何の気なしに答えると、山葉さんは無表情に応じた。

「でもそうなったら、この程度の店なら私と細川オーナーの二人で回せるから、アルバイトは必要なくなるよ」

僕は思わず足を止めた。

この店のアルバイトが無くなると修士課程進学に向けて考えていた僕の生活設計が音を立てて崩れていく。

僕の考えを見越したように山葉さんはクスッと笑った。

「でも、細川さんは今来てくれているお客さんに提供しているサービスをできるだけ変えたくない考えだ。私たちが彼女の体調に気を配るしかないようだね」

どうやら、僕の雇用は維持されそうだ。

「最近は募集をかけても人が集まらないから、質のいいアルバイトが確保できる間はこのまま続けるのに越したことはないよ」

山葉さんがつぶやいた。

最近は雅俊やクラリンは就職活動が忙しいからあまりバイトに来なくなっている。

僕は、後輩の沼さんや木綿さんを思い浮かべながら言う。

「僕たちが質のいいアルバイトなんですかね」

「勤勉で飲み込みも早いから助かるとオーナーは言っている」

そんな風にみられているとは知らなかったので、僕は少し安堵する。

僕たちがバックヤードから店内に戻ると、沼さんが僕に報告した。

「ウッチーさんがほぼ淹れ終わった状態で放り出していたホットコーヒーは、お客さんに出しました。細川さんはどうしたんですか」

「ありがとう。細川さんは熱中症みたいだから休んでもらったよ」

沼さんは僕の言葉を聞いてうなずくとさらにカウンター席を示した。

「山葉さんとウッチーさんに会いたいというお客さんがお見えです」

僕と山葉さんがカウンター席を振り向くと、そこに座っているのは坂田警部だった。彼はカウンター席に座って硬い表情で僕たちを見ていた。

「坂田警部が私たちに用があるとは珍しいですね」

山葉さんが意外そうに言う。

坂田警部は心霊がらみの出来事をあまり信じていないので、彼が自分から僕たちに頼みごとをするのは考えられないことだ。

「今日は奈々子のことで相談に乗ってもらいたいと思ってきました」

彼は堅苦しい口調で僕たちに告げる。

奈々子さんとは、彼が付き合っている相手だ。

奈々子さんが下北沢界隈に多い劇団の一つ「劇団ミュウ」の団員だった時に、彼女が務める予定のヒロインの座を狙う別の劇団員に事故を装って殺害されそうになっていたのだが、たまたま知り合いとなっていた山葉さんや僕たちが犯人を突き止めた。

坂田警部は、犯人逮捕のために非番の時に呼び出されて、犯人を突き止める時に立ち会わされたのだが、それがきっかけで奈々子さんと付き合い始めたのだ。

「そういえば、彼女とは婚約なさったそうですね」

「ええ、この秋には結婚する予定でした」

彼は目を伏せて答える。僕は彼の言葉尻が気になって問いかけた。

「でしたというのは、どういうことです」

言うまでもないが、過去形で語るということはその婚約が破棄になったことを暗示させるからだ。

「今はそれどころではなくなったのです。彼女は劇団キキでも役をもらって活動していたのですが、最近テレビドラマに出演する話が持ち上がっていました。奈々子とそのドラマのヒロインの座を争っていた女優さんが他殺とみられる不審な死に方をしたので、彼女は重要参考人として事情聴取を受けています」

坂田警部は苦い表情で告げる。

山葉さんは彼のために用意していたコーヒーのカップを持ったまま手を止めた。

「奈々子さんがそんなことをするわけがないでしょう。坂田警部が無実を証明すればいいじゃないですか」

坂田警部は首を振った。

「僕たちは既に婚約関係にあることを上司も知っています。管轄署が違うのでそもそも僕はタッチできないのですが、捜査上の情報を漏らす可能性があるので僕は彼女に近づかないように指示されています」

警察の組織では上からの指示は絶対守らなければならない。

彼は自らの手でフィアンセの無実を証明するために動くことができないのだ。

「それでは、私たちに相談というのは?」

山葉さんは最後まで言わずに言葉を切る。

坂田警部は山葉さんと目を合わせずに下を向いたまま告げた。

「僕は彼女が無罪だと信じています。しかし、警察関係者は動機の面から彼女をほとんど被疑者扱いしているのです。あなた達は観察眼や洞察力も鋭いので、彼女の無罪を証明するのを手伝っていただきたいのです」

坂田警部は警察官としてのプライドが高いタイプだ。

めったなことでは一般人に捜査協力などする人ではないし、心霊能力を標榜する僕たちに話を持ち込むなど尚更だろう。

フィアンセの危機に止むに止まれず僕たちに頼みに来たのは明らかだった。

それでも、心霊現象やサイコメトリーなどの言葉を使わずに観察眼や洞察力というあたりが彼らしいところだ。

「でも、僕たちがどうやったら奈々子さんの力になれるんですか」

僕が尋ねると、彼女はまっすぐに僕の目を見ながら話し始めた。

「詳しい状況については、青木ヶ原樹海の件でお世話になった、室井がお伝えします。あなた方の目で見て、事件の真相を見極めてほしいのが一つ。そしてもう一つが」

坂田警部はカウンターに目を落とした。

「奈々子本人の様子が事件の前からおかしかったのです。あなた方ならその辺りも理解してくれるかもしれないと思ってお願いします」

「様子がおかしいってどういうことですか」

僕が尋ねると彼は言いよどんだ。

「なんというのか、本来の彼女とは違う人のように振る舞うことが度々あったのです。僕には理解できないことが起きているような気がして気になっていたもので」

彼は目を伏せたままだった。

「わかりました。お力になれるかわかりませんが、私とウッチーで努力してみます」

山葉さんは話を聞きながら作っていたカフェラテを彼の前に置いた。

「ネコのラテアートだ」

坂田警部がポツリとつぶやいた。

彼の目の前に置かれたカップの中で、前足をカップの縁にかけた子猫が微笑んでいた。

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