第120話 錯覚と陥穽
翌朝、僕たちは朝食を早めに済ませて、シャトルバスに乗ってスキーセンターに向かった。
前日に、自分達の滑りが上達した自覚があったので、皆が少しでも早く滑りたかったからだ。
シャトルバスから宿泊していたホテルを振り返ると、入り口辺りには修学旅行の中学生が大勢で整列している。
「昨日頼まれたことはどうします」
ぼくは隣に座っている山葉さんに問いかけた。中学生の英子さんの周辺を探ってほしいと学校の先生に頼まれた件だ。
「スキー場のゲレンデでわざわざ近寄って話すのは不自然だ、彼女の依頼にこたえるとしたら、昼食を取りにレストハウスにはいった時か、宿に戻った時だろうな」
彼女はスキーキャップとサングラスを着用したうえに、ネックウオーマーを上げて口の周りを覆っているので表情はうかがえない。
「そう簡単に本音の部分を話してはくれませんよね」
彼女は無言でうなずいた。自殺未遂にまで至ったいじめの話にはあまり首を突っ込みたくないようだ。
「今日の午前中は南エリアまで足を延ばして滑ってみましょう。みんなの上達が早いから、湯元温泉スキー場や石内九山スキー場にも足を延ばせるかもしれませんね」
栗田准教授はゲレンデマップを広げていた。
「他のスキー場に行ったら、リフト券をもう一回買わなければならないのですか」
リフト券の値段は結構高いので僕は栗田准教授に聞いた。
「大丈夫ですよ。この3つのスキー場は共通リフト券になっています。同じリフト券で3つのゲレンデ回ることが可能です」
栗田准教授は機嫌よく答える。
「でもそんなにあちこち滑りに行くのは大変そうですね」
「いやいや、君たちも上達して来たから全ゲレンデ制覇は可能ですよ。昨日一日で随分滑れるようになりましたからね」
「ありがとうございます」
僕は殊勝にお礼を言う。
シャトルバスで運ばれたスキーセンターは麓にあるが、建物内からスキー場に直結したゴンドラに乗ることができる。
装備をつけてスキー場に立った僕たちは、昨日記念撮影した展望台の辺りから広がる中級者ゲレンデで滑走を楽しんだ。
「ウッチーの滑り方って、ターンの切り替えの時に体が後ろに遅れているぜ」
4人乗りのクワッドリフトに一緒に乗った時に雅俊が言う。
「遅れているってどういうことだよ」
そろそろリフトの降り場に来ていたので準備をしながら僕が問い返すと、リフトから降りた雅俊は手招きしながら滑っていく。
ゲレンデの隅に立った雅俊を僕と山葉さん、そしてクラリンが取り囲んだ。栗田准教授はトイレに行ったので後から追ってきているはずだ。
「ウッチーをはじめとするみんなは重力に対して垂直に立とうとしているけど、そのために斜面が急になるほど体が山側に逃げる結果となる。それが最も顕著になるのが体が斜面の下を向くターンの切り替えの時なんだよな」
雅俊はストックで体を支えながら斜面の下方向を向いて立ち、僕たちのポジションを示して見せる。
彼の言うとおりで、人は重力に対して鉛直に立とうとする習性がある。雅俊の体はスキーの板が斜面に沿って傾斜しているので板に対して90直角ではなくて、少し山側にのけぞった形になっている。
「栗田准教授の場合はこうなっている。」
雅俊はストックで体を支えながら角度を修正して見せる。今度は彼の体はスキー板に対して直角にみえた。
「理屈はわかるけどどうやって角度を調整すればいいんだ」
「そうやな、滑っている最中には自分では角度なんてわからへんもんな」
僕とクラリンがそれぞれに疑問を口にしていると、後ろから栗田准教授の声が響いた。
「ポジションのチェックの方法を教えましょうか。まず、この辺の緩い斜面で滑りながら軽く飛んでみてください。縄跳びを飛ぶときみたいに軽く飛べるのが正しいポジションです」
言い終わらないうちに栗田准教授はスーッと滑り始めて時々ポンッと真上に飛んで見せる。
飛び上がった時も彼の板は雪面と平行なまま浮き上がっている。
僕たちは後を追って各自が滑りながら跳び上がろうとした。しかし、栗田准教授のように軽く飛びあがることはできなかった。
力を入れてもスキーのトップだけが持ち上がってうまく跳ぶことができない。
僕たちは斜面が少し急になるところに止まった栗田准教授の前に集まった。
「次にもう少し斜度が急なところでプルークボーゲンのスタンスでポジションを作ってみましょう、この時にできるだけ骨盤を前に出して、足首を曲げることをイメージして」
2日目に入って、スキーに関して栗田助教授が言うことは僕たちにとっては絶対の真理と思えるようになっていた。
「ポジションを作った時に、自分の足の位置が少し後ろにあるような気がしたら程よいポジションです。わかるかな?」
止まったままで前後を意識してポジションをチェックすると、自分のイメージが全く違っていたことがわかる。
「そうか、こんな感じで滑ればよかったのだな」
山葉さんがボソッとつぶやいた。
それぞれが立ったまま姿勢をチェックしてぶつぶつ言っているのが何だか面白い。
「それじゃあ、このコースが途中で曲がっているあたりまで一気に滑ってみましょうか。適当に間隔を開けて滑ってきてくださいね」
今日の栗田准教授は講習会をするのではなくて、フリーで滑る時間を多くするつもりのようだ。滑り始めた准教授はくっきりと2本のシュプールを残してあっという間にゲレンデの曲がり角まで滑っていく。
栗田准教授の後を追ってクラリンが滑り始め、彼女が20メートルほど滑ったところで僕も滑り始めた。
初日は少し滑るだけで足がパンパンになるほど疲れたのに、少しポジションを直しただけで嘘のように滑るのが楽だ。
静止していたクラリンの横で止まると、僕の隣に山葉さんがザザザッッと制動をかけながら滑り込んでくる。
「栗田准教授に教えてもらえてよかったですね」
僕が小声でつぶやくと、重装備で顔が見えない彼女がうなずいた。きっとネックウオーマーの下で笑顔を浮かべているのだろう。
その辺りでは、同じ宿に泊まっていた修学旅行生も、スキー場のインストラクターが指導してスキー講習をしていた。
もはや、数学旅行よりワンランク上の滑りができる自信を持った僕は余裕で彼らの様子を眺めていたが、あるグループの様子がおかしいことに気が付いた。
そのグループを指導しているインストラクターは下の方にある平坦で止まりやすいところまで滑って行き、そこでストックを振って修学旅行生を呼んでいるのだが、呼ばれた生徒たちはなぜか途中で止まって並んでいるのだ。
インストラクターが躍起になってストックを振っても、止まっている生徒たちは気づく気配がない。
そして彼らが並んでいる場所は谷際でゲレンデが途切れていてそこに向かって傾斜している場所だった。
ゲレンデの端にはオレンジ色のフェンスが張ってあるが、その後ろは谷に続く急斜面だ。斜面の下の谷底をリフトが通っているので落ちると危険だ。
ある程度滑走できるスキーヤーなら別段危険はない場所でも初心者にとっては危ない場所はあるものだ。
インストラクターはその場所を避けて下まで行ったようだが、何かを勘違いして一人が止まったので全員が集まってしまったのだろうか。
そして、最後の修学旅行生が滑ってきてその場所に止まった時、僕の心配は現実になった。
止まったつもりだった修学旅行生が後ろ向きに滑り始め、並んでいた他の修学旅行生を巻き込んで皆が後ろ向きに動き始めたのだ。
その程度ならストックで止められそうなものだが、そのうちの一人が転倒し、他の4人を巻き添えにする。転倒したまま滑っていく彼らは勢いを増しながらゲレンデの端まで差し掛かっていた。
ゲレンデと崖の間にはスピードを出したスキーヤーが突っ込んで求められるくらいの強度を持ったオレンジ色のプラスティックのネットが張ってあったが、不幸にもネットの下には40センチメートルほど隙間があった。
転倒したまま滑り落ちた修学旅行生たちは次々とネットの下を抜けて崖に落ちていく。
「大変だ、修学旅行生が谷に落ちた」
僕が指さす方を皆が一斉に見る。
「ほんまや、あのままやと下りのリフトに引っかかるかもしれへん」
「助けに行こう」
雅俊とクラリンが滑落現場に向かって滑り始める。
「僕はリフトを止めてきます。君たちは無理をしないで」
栗田准教授はスケーティングして勢いをつけてからリフト乗り場の方に滑り始める。
ゲレンデの下の方ではインストラクターがすごい勢いでゲレンデの斜面を駆け上っているのが見えていた。
僕や山葉さんが滑落現場に着いたときにはインストラクターや雅俊が谷まで降りて落ちた修学旅行生の救助に取り掛かっていた。
幸い、重傷者はいないようだ。
既にリフトも緊急停止されていて、山葉さんは崖の斜面の途中に引っかかった修学旅行生の板を外してやろうとしている。
僕も自分のスキー板を外してから崖の斜面を降りて彼女を手伝った。初心者用のバインディングは外れやすいのだが彼女の力では開放するのに苦労していたのだ。
片方のスキー板が外れ、もう片方の板が立ち木に引っかかって頭を下にして引っかかっていた修学旅行の男子中学生は心なしか顔が青ざめている。
僕は彼の板のバインディングのヒールピースを押してスキー板を開放してやった。
僕は外した板を片手に、修学旅行生に手を貸しながらゲレンデまで斜面を登った。
その後から山葉さんが拾い集めた板とストックを持って登ってきた。
僕が助けた男子生徒はゲレンデに着くと安心したのか雪の上にへたり込む。
「インストラクターの先生が下の方で呼んでいたのにどうしてこの場所に止まったの?」
ぼくはゲレンデの上の方から見ていて疑問に思っていたことを聞いてみた。
「え?、僕たちは先生が呼んでいる場所に滑ってきたんですよ」
彼はきょとんとした顔で答える。
「だって、君たちが落ちた時インストラクターの先生は下から駆け上がって来ただろ。」
そのインストラクターは、スキー板をつけたまま、斜面の上に向かってスケーティングするようにして登っていたのが印象に残っている。きっと青くなって慌てていたに違いない。
「面妖だな。原因を調べてみなければ」
山葉さんはネックウォーマーを外すと小声で呟いた。
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