第107話 逆襲のツーコ
花背の里はとっぷりと日が暮れていた。
おりしも月が昇って谷に差し込みはじめたところだ。
大堰川の流れが曲がり、淵となった水面に月が映る。
クヌギが芽吹く新緑の森からは草いきれが立ち込め、森の中から新芽を求めて移動する動物たちが落ち葉を踏む音がかすかに響く。
森も動物も生気を取り戻す初夏は黒崎の好きな季節だ。
「クロ、クロ」
誰かが呼ぶ声がする。
黒崎が振り返ると月明りの中、白衣、緋袴の上に千早を羽織った少女がヒタヒタと歩いてくる。
「昨日納屋でこの笛を見つけたが、私には吹けぬ。クロが吹いて聞かせてたもれ」
少女は手に笛を掲げた。
彼女の名は玉という。数年前、応仁の戦乱で親と生き別れ、まだ幼い身で京の都の外れあたりで雨露もしのげず難儀していた時に、まだ幼かった黒崎と出会ったのだ。
「どれ、かしてみろ」
黒崎はひょいと笛を取り上げると吹き始めた。
静まり返った谷筋に笛の音が響き渡る。ここは里からも離れた社殿、里人の迷惑になる心配もない。
黒崎は、笛を吹きながら横目で玉を見た。そして、自分を見つめる彼女と視線が合いドキリとする。
物の怪の身でありながら人の似姿を取ることには、利もあれば害もある。
ともすれば、人としての生き方に惹かれ、それに引きずられてしまうことが後者だ。
月を眺め、笛を吹きながら黒崎は迷っていた。戦乱を逃れて都から遠く離れた地に住み始めて早数年が過ぎた。
そして、次第に美しく成長していく玉に引かれる自分を自覚していたからだ。
「月に笛とは風流なもの、わらわも仲間に入れてくれぬか」
いつの間にか、淵に映る月を見るものが一人増えていた。二人にとって親代わりとなって共に暮らす御埼だった。
「御埼様をのけ者にするわけがありませぬ」
玉がコロコロと笑う。
御埼は黒崎の叔母に当たる。無論、御埼も黒崎と同じ猫又だ。
黒崎の両親は京の都で人に交じり加持祈祷で身を立てて暮らしていたが、評判が良すぎて同業の陰陽師の一人に妬まれた。
その陰陽師は戦乱のどさくさに、他国から来て訳も分からぬ田舎侍達に「あの者は人にあらず」と喚き、退治するようにけしかけたのだ。
両親は黒崎を逃がすために戦い、その後の行方は知れない。
当の陰陽師は、数日後に別の国から来た侍に切られて果てた。京の町が一面焼け野原になる戦乱は無常なものだった
黒崎は玉と共に数週間の間、荒れ果てた城門のひさしの下で暮らしていたがやがて御崎が探し当ててくれた。
その後は共に京の都を離れ。花背の里で神社に身を寄せて今に至っている。
黒崎の両親と同様、御埼も都で加持祈祷を行っていたらしく、今も時折都まで呼ばれていく。
御埼は出かけるたびに相応の謝礼をもらってくるし、都から日本海につながる人の流れの中で、時折酒や食料の供物も送られてくる。3人はさして不自由もせず暮らしていた。
御埼は瑞女を呼び酒を用意させる。
月を見ながら杯を重ねて、御崎は黒崎に言う。
「クロとタマは仲睦まじいようじゃ。そろそろ夫婦になったらいかがかな」
さりげなく話を振られて黒崎は慌てた。異類と夫婦になることなど叶うと思っていなかったからだ。
しかし、他ならぬ同族の年長者が進めるからにはそれを良しとするのだろうか。
「そのようなこと、してもよいのか」
「私は勧めているのだ。不服なのか」
月の光の下で御埼がほほ笑む。出会ったころから変わらぬ風貌だ。
「不服はない」
黒崎の答えを聞いて御埼は玉に顔を向ける。
「タマも異存はないな」
玉は、はにかみながらうなずく。
月は中天高く上り、白々とした光が玉の千早に影を落としていた。
その時、耳障りなアラームが黒崎の意識に割り込んできた。
黒崎は手を伸ばしてベッドのヘッドボードに置いた目覚まし時計のアラームを止める。
「夢か」
黒崎はつぶやいた。夢というのは時として残酷だ。
それは、現身では決して会うことができない相手を眼前に引き戻してしまうからだ。
黒崎は部屋着を羽織ると階段を降りる。日曜日で仕事はないが人と会う約束があるのだ。
階下のリビングでは家政婦の大崎さんが朝食の準備を終えていた。
「おはよう。今日は千紗ちゃんとデートだろ」
美咲はコーヒーのマグカップを片手に笑顔を見せた。
今しがた見た夢の時代から五百年以上の歳月を経ても変わらぬ姿。変わっているのは時代の風俗に応じた衣装や髪形の変遷の部分だ。
「そうですよ。そのせいか玉の夢を見ていました」
カップを口に運ぼうとした美咲の手が止まった。
「タマちゃんか。彼女が生きていたのは応仁の乱から半世紀ほどの間だったな」
事務的に記憶を呼び起こす美咲の言葉に黒崎の胸がちくりと痛んだ。
「もうあんな悲しい目には遭いたくないと思っているんです」
玉は黒崎と仲睦まじく暮らし、天寿を全うした。
しかし、人よりはるかに寿命が長い黒崎にとって、次第に年老いて弱っていく彼女を見守り、最後にその死を看取るのは悲しい体験だった。
「私は千紗さんは悪くないと思うよ。口も堅そうだし」
美咲は会話の順番をすっぽかして言いたいことだけ言う。
黒崎はかなわないなと心の中でぼやいた。
ミレニアムの半分ほども一緒に行動していると、もはや互いに空気のような存在だ。自分の気持ちなどとうに見透かされているのだ。
朝食を終えた黒崎は住居兼勤務先となっている七瀬カウンセリングセンターを出ると電車で渋谷に向かった。
渋谷駅の明治通り側は駅の改修工事でゴミゴミした雰囲気だ。
黒崎はハチ公は何処に行ってしまったんだろうと、待ち合わせ場所を探した。彼女は関西出身なので渋谷と言えばハチ公前を思い浮かべたのだろう。
それらしき場所を探し当てると、彼女はすでに待ち受けていた。
「黒崎さん、来てくれはったんですね」
思いっきり関西弁で歓迎してくれる彼女に黒崎は力が抜ける。
「来ますよ。当然でしょ」
「今日は、映画見てからお昼を食べて、その後渋谷ピカリエに行く予定ですからね」
彼女は黒崎の手を握って引っ張りそうな勢いで先に立って案内する。
黒崎は言われるままに彼女の後を追った。
千紗は映画館に入ると売店でLサイズのポップコーンとドリンクを二つ買う。
座席にセットできるトレイに買ったものを載せて館内に向かう彼女は上機嫌だ。
彼女が映画館のマスコットキャラクターを説明してくれるのを聞きながら黒崎は考えていた。
やるなら今だ。
千紗がマスコットキャラクターの小劇場に気を取られている隙に黒崎は彼女の頭に手を伸ばした。
黒崎の指先がもう少しで頭に触れて、彼女の意識に入り込もうとしている時に千紗は振り向いた。
「また、私の記憶を消すつもりなんですか」
真顔で見返す彼女の目を見て黒崎は凍り付いた。またと言っているということは、前回の記憶が残っているのだ。
ままよ、黒崎は記憶の消去を強行することにした。千紗の眉間に軽く触れて彼女の精神世界にダイブする。
傍目には、ガールフレンドの眉間の辺りをつんとついただけにしか見えないはずだ。
彼女の精神世界に入り込んだ黒崎は、そこがライティングデスクとベッド、そして本棚を備えた部屋仕立てになっていることに驚いた。
これまでにも幾多の人間の精神に入り込んだが、そこは床の存在も定かではない、茫漠とした空間であることが多かった。
黒崎が千紗の姿を探すと、彼女はちゃんとベッドに横たわっている。
黒崎は今度こそは彼女から猫又にまつわる記憶を消し、あまつさえ自分に対する彼女の好意も摘み取らなくてはと彼女に屈みこんだ。
「何をするつもりなの?」
背後から声をかけられて黒崎の手が止まる。振り返った黒崎の目にベッドに横たわっているのと同じ顔の女性がたたずんでいるのが映る。
「君は誰なんだ?」
黒崎は恐慌を起こしそうな自分を抑えながら尋ねた。
「私はツーコ。そこにいる千紗ちゃんの分離した人格です」
黒崎は内村が千紗は解離性人格障害の疑いがあったが今は治っているようだと言っていたことを思い出した。
全然治ってないじゃないか。黒崎は独りごちながらツーコに向き直る。
「僕たちに関する記憶を消して、僕に対して抱いている好意も消してしまうのが君のためだと思う。何せ僕は人間ではないのだから」
黒崎は率直に話して彼女の協力を得ようと思ったのだ。だが彼女の返事は意外なものだった。
「そんなこと知っています。でも、私だって千紗の記憶の中の存在でしかないんですよ。千紗も私もあなたのことが好きなのに何故その記憶を消してしまおうとするんですか」
黒崎は少なからず狼狽した。
「君はこれから社会に出ていろいろな男性にも会うから、また二人とも好きになれる人も出てくるよ」
「それは無理なんです」
ツーコはにべもなく黒崎の言葉をはねつける。
「どうして無理なんだ」
黒崎は本心からの言葉を否定されて、どうしていいかわからない。
「千紗は潜在意識レベルで父親の面影を探しています。彼女が好む男性どこか私たちの父親に似た面影がある人なのです」
「それならいいじゃないか」
黒崎が言うとツーコは首を振った。
「私は父の虐待によって生まれた人格です。父親の面影は私にとっては忌み嫌うべきものです」
黒崎にもなんとなく事情が解ってきた。それなら自分はなぜ例外なのだろうか。
黒崎の考えを読んだようにツーコは続けた。
「私にとって人間の男性は怖いものなのです。でも、あなたは人間ですらない」
歩み寄るツーコに追われるようにして黒崎はいつの間にか壁際まで後ずさっていた。
ツーコは黒崎の目の前でトンと壁に手を突く。
何故俺が女子大生に壁ドンされているんだ。いや、そもそも精神世界の中に存在する壁ってなんだ?。狼狽した黒崎の思考はとめどなく迷走する。
「僕はインターンシップの初日に、僕や美咲さんの正体に関する記憶を消したはずだ。なぜ君は覚えている」
ツーコはクスリと笑う。
「あなたが消したのは千紗ちゃんの記憶。私はここで見ていたからちゃんと覚えていますよ」
黒崎は愕然とした。人格が二人いるというのはそういうことなのだ。
「今まで千紗が気に入った男の子は私が拒絶するし、私が好きになる子は千紗の好みに合わない。私たちの両方が好きになったのはあなたが初めてです。この機会は逃がせません」
「僕が人間でなくてもかまわないのか」
ツーコはついと手を伸ばして黒崎のほほを撫でた。黒崎はゴロゴロ言いそうになるのを必死でこらえる。
「私はそのほうがいい」
ツーコは両腕を絡めて黒崎に抱きついた。精神世界で抱擁することは一つに溶け合うのに等しい。
彼女の心が流れこむのを感じ、黒崎は建前を捨てて自分の気持ちに従うことを心に決めていた。
彼女の精神から離脱してみると、まだ映画の本編は始まっていない。
隣にいる、ツーコか千紗か定かでない女性に目をやると、彼女は黒崎と秘密のいたずらを共有しているような目配せをしてからポップコーンに手を伸ばした。
日曜日のデートは始まったばかりだった。
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