第104話 スクールカウンセリング

良く晴れた空の下にコスモスの花が咲いている。育ちのいいコスモスは千紗のお腹の辺りまで伸びていて見渡す限り何処までも続いている。

千紗が歩いている小道は周囲からコスモスが侵食してかき分けないと通れないほどだ。

その道を先に立って歩いていた人が振り返った。その顔は千紗自身の顔だ。

「ツーコ、何してるんや早くおいで」

わたしをツーコと呼ぶあなたは誰?千紗は疑問を口にしようとするが別の声が割り込む。

「・・千紗さん、どうしたんですか」

千紗は我に返って辺りを見回した。古い洋風建築を改装した事務所の風景、目の前で整った顔立ちの長身の男性が心配そうにこちらを見つめている。

そうだ、インターンシップで七瀬カウンセリングセンターに来たところだったのだ。

「すいません。私何だかぼーっとしていたみたいで」

白日夢を見ていたのだろうか?。ツーコというのは千紗自身のあだ名だ。千紗は解離性人格障害だった時期があり、その頃は頻繁に記憶が途切れることがあった。症状がぶり返したのだろうかと千紗は不安になる。

記憶が欠落した時の対処としては、下手に誤魔そうとするよりも素直に言った方がリカバリーが早いことを千紗は経験から知っている。

「大丈夫ですか。具合が悪いなら別室で休憩してもらってもいいですよ」

「いいえ、大丈夫です。私は今何をしていたところでしたっけ」

千紗が笑顔を浮かべて冗談めかして尋ねたので、目の前の男性、黒崎氏も安心したようだ。

「しっかりしてください。通常の電話にファクスが入信したのをこちらのファクス番号に転送して、所長に手渡してくれたところですよ。覚えていないのですか」

そうだった。彼が言うとおり、かかってきた電話がファクスの機械からの信号だったのでファクシミリの機械に転送して、プリントアウトされた紙を所長室に持っていこうとしたところまで覚えている。

その後で記憶が飛んだのだろうか。

「すいません。私時々記憶が飛ぶことがあるのです、ファクスを所長室にもっていってからのことを覚えていないのですが」

千紗はどれくらいの時間が経過したのかそれとなく探りを入れた。

「所長に手渡してから僕にそのことを報告してくれたのですよ。その後で急に黙ってしまったので心配していました。」

時間にすれば1、2分というところだろうか。大したことはなさそうなので千紗は安堵した。

「この事務所で最初に取った電話がファクシミリからの間違い電話だったから気が動転したのかもしれませんね。ちゃんと対処してくれたから心配しなくていいですよ」

黒崎氏が笑顔を浮かべた。

きりっとした真面目な表情と笑顔を浮かべた時の八重歯のかわいらしさのギャップがいい。

トラブルがなかったことに安心した千紗は黒崎氏の容貌に気を取られる。

「車の準備ができたので、スクールカウンセリングに出かけましょう。今所長を呼んできます」

所長室に向かう黒崎氏の後姿を千紗はぼーっとして見つめていた。

七瀬所長と千紗そして黒崎氏は国産の黒塗りのセダンに乗り込んだ。レクサスと呼ばれる高級ブランドに属する車だ。

黒崎氏がステアリングを握り、千紗は助手席に乗った。七瀬所長は後部座席でくつろいでいる。

「普段は総務の上門さんが運転してくれるのですが、今日は私用でお休みなので僕が運転します。僕と二人だけの時は七瀬所長が私用のスポーツカーを自分で運転して出かけることもあるんですよ」

千紗はガレージに置いてあったイタリア製のスポーツカーを思い出した。ランボルギーニとかいう会社の宇宙船のようなデザインの車だ。

「臨床心理士ってそんなに儲かるんですか」

ちょっと失礼な質問が千紗の口から洩れた。千紗は言わなければよかったと口を押えたが時すでに遅しだ。

「そんなに儲かるわけではありません。うちは事情が特別なのです」

黒崎氏はクスリと笑う。

「七瀬家の先代が手広く事業をされていた方で、先代がなくなって七瀬所長が財産を相続したのです」

ステアリングを握る黒崎氏はサングラスをかけているので、表情をうかがえない。

「僕は元は先代に雇われた執事だったのです。七瀬所長は臨床心理士の資格を取られたところだったので、七瀬家で雇われていた使用人を職員にして七瀬カウンセリングセンターを開設しました。資産を食いつぶすことなく雇用を継続できるように考えてくれたのですね」

千紗はちらりと七瀬所長を振り返った。若いのに雇用の継続やNPO法人の設立を考えたのがすごいと思ったのだ。

「でも、七瀬カウンセリングセンターで事務所で個人カウンセリングをするだけでは職員に給料を払うのに十分な収入がなかったので、こうしてスクールカウンセリングの仕事に出るようになったのです」

「黒崎、余計なことをしゃべりすぎですわ」

後部座席から七瀬所長の声が響いた。

「すいません。彼女は卒業後うちに来てくれるかもしれないと思ったのでついしゃべりすぎました」

「あら、それは私も期待していますわ。有資格者を増やさないと仕事が回りませんもの」

千紗はドキッとした。たかがインターンシップで来た学生に卒業後来てほしいなどと言ってくれると思っていなかったからだ。

臨床心理士資格を取るには大学院に行かなければならない。千紗が資格を取って働けるのはまだまだ先のことだ。

「大学院に行く間も見学に来ていただいて結構ですから、うちも就職先の選択肢の一つに考えておいていただけたらありがたいですわ」

千紗の考えを読んでいたように七瀬所長が話す。

「はい。そうさせてもらいます」

千紗は元気よく答えた。

黒崎が運転するレクサスは都内の私立高校の敷地に滑り込んだ。

女性問題研究所が、スクールカウンセリング業務を委託されている学校の一つだ。

受付で来校した要務を告げると3人は校長室に通された。

「カウンセリングに適したプライバシーが確保できる部屋が少ないので、校長室に隣接した応接用スペースを使いますのよ」

七瀬所長が説明してくれる。本来の部屋の主である校長先生はカウンセリングのために追い出されたのか姿が見えない。黒崎氏は鞄からドッジファイルを取り出して説明を始めた。

「今日カウンセリングに来られるのは、2年生の女子、次田秀美さん。今年4月に転向してきたのですが、学校になじめない様子で1学期後半から不登校になっています。2学期に入っても登校できていませんが、今日は母親が付き添ってカウンセリングに来るそうです」

「ああ、秀美さんね」

七瀬所長も自分のノートをぱらぱらとめくる。その時学校の事務職員に案内されて高校の制服を着た女の子と母親らしい女性が現れた。

七瀬所長と黒崎氏が素早く席を立つので、千紗も同じようにする。

「カウンセラーの七瀬です。こちらは助手の黒崎、それから今日はインターンシップ制度で大学生の二宮さんが同席します」

紹介されて千紗は慌ててお辞儀をした。母親は会釈を返すが秀美さんは伏し目がちにうつむいたままだ。

「秀美さんが不登校になった経緯を教えていただきたいのですが」

七瀬所長が訊ねると母親の直美さんが口を開く。

「私たちは夫の仕事の都合で4月に関西から引っ越してきました。秀美は新しい友達ができるのを楽しみにしていたのですが、しばらく学校に通ううちに食欲がなくなり、夜眠れないことが多くなりました7月ごろから学校に行きたくないと言って登校しなくなってしまったのですが」

ノートにさらさらとメモを取っていた七瀬所長は目を上げて訊ねた。

「秀美さんは小学校や中学校に通学しているときに体育の授業で苦手でできない種目はありましたか」

「いいえ。他の子どもと同じように普通に授業を受けていたと思いますが」

母親の言葉に秀美さんもかすかにうなずくのが見えた。

「それでは、勉強で極端に苦手な科目はありませんか」

「いいえ。それほど成績がいいわけでもありませんが、勉強したらそれなりの成績を取っていたと思います」

七瀬所長はメモを取る手を止めた。

「それでは秀美さんにお聞きしますが、東京に来て友達を作りたいと思っていたとお聞きしましたが、

転校してから新しい友達はできましたか」

秀美さんは首を振った。

「学校で、朝のホームルームの時間なんかに先生が自己紹介の時間をよく作ってくれるんですけど、親しい友達はできていません」

千紗は七瀬所長が小さくため息をついたのに気づいた。

「秀美さん、あなたは引っ越しで環境が変わったのによく頑張っていましたのよ。ただ、そのせいでちょっと疲れが出ただけ。元気が出てきたらまた学校に来てくださるかしら」

「はい」

秀美さんの顔にかすかに笑顔が浮かんだのを千紗は見た。

カウンセリングが終わると、黒崎氏はドッジファイルを開いて七瀬所長に予定を告げた。

「次は3階の視聴覚教室で2年生のクラス担任の先生方とコンサルテーションの時間です。時間が押しているから少し急ぎましょう」

黒崎に急かされて七瀬所長と千紗が足早に廊下を歩いていると背後から声をかけられた。

「お嬢先生」

休み時間らしく廊下に出ていた生徒が七瀬所長を見つけたらしい。

三人が足を止めると生徒は駆け寄ってくる。

「さっき秀美ちゃんが来ていたでしょう。あの子の障害、直せそうなの?」

七瀬所長は平板な口調で答えた。

「あの子は発達障害などありませんわ。きっと、関西から引っ越して言葉が違ったりして戸惑っただけのこと、そのうち登校してきますから仲良くしてあげて欲しいものですわ」

「えーそうだったの、話が違うじゃん。彼女いつも堀田先生に、自分が普通と違うところとかみんなの前で説明させられているからてっきりそうだと思っていたのに。私たち待っているから早く出てくるように言っといて」

「そうしますわ」

七瀬所長の言葉を聞いて生徒は手を振って駆けていった。

三人が視聴覚教室到着した時には、2年生の担任の先生はすでに揃っていた。

先生達は事前に連絡していた各自の課題について資料を基に説明していく。教育学部の千紗には先生たちが真面目に取り組んでいるのが理解できる。七瀬所長も時折口をはさむが、学校側の取り組みに問題ないとするコメントだ。

最後に秀美さんの担任の堀田先生が説明した時に七瀬所長の眉が上がった。転校生の彼女が早くなじめるように頻繁に自己紹介をさせていると話したからだ。

「彼女が転校する前の学校から何か申し送りがあったのですか」

「はい、発達障害的な傾向が感じられると書いてあったので、気にかけていたのですが」

「私がカウンセリングした限りでは発達障害的な所見は見られません。学校には登校するように言っておきましたから特別扱いしないでそっと様子を見てください。不登校が改善しないようなら診療機関のカウンセリングを紹介いたしますわ」

「わかりました」

堀田先生は素直に話を聞いた。真面目な先生なのだ。

スクールカウンセリングを終えて高校を後にすると、千紗はぐったりするほど疲れを感じた。

何だか1日の密度が濃いと千紗が考えていると七瀬所長が後ろから声をかけた。

「先程の秀美さんの件について、千紗さんはどうお考えかしら」

意見を求められている。

千紗は身を固くして答える。

「私は、堀田先生が発達障害の文言を意識しすぎて秀美さんが新しい環境に溶け込むのを阻害していたような気がしますが」

「私もそう思いますわ。ただし、それを声高に指摘して先生方と軋轢を起こしては私たちは何もできなくなりますの。スクールカウンセリングは常時学校に張り付いているわけではありませんから」

それで婉曲な言い方をしたのか。千紗は七瀬所長の手腕に感心する。

「黒崎、食事はいつものお店にしましょう」

「わかりました。お二人を先に降ろして、ぼくは車を置いてから行きます。」

そんなやり取りの後で、千紗と七瀬所長が降ろされたのはカフェ青葉の前だった。

店内に入るとアルバイトに入っていたクラリンがいち早く見つけてくれた。

「ツーコなにしてん、こんな時間に」

「今日はな、七瀬所長さんの所でインターンシップをしているんや」

千紗が応えると、クラリンはテーブル席に案内してくれる。朝聞いた通り七瀬所長と黒崎氏はこの店の常連らしい。

黒崎氏も来て、注文した日替わりランチが来るのを待っていると、千紗は七瀬所長の要望に違和感を感じた。

どうしたのだろうとよく見ると彼女の顔に髭が出現していた。それは、男性のあごひげ等とは異なるもので、猫のようなひげが頬のあたりからぴんぴんと突き出して見える。

その時クラリンが料理を運んできた。

「本日の日替わりランチが豆腐ハンバーグセットです。お飲み物は食事の後でお持ちしますか」

「そうしてくださいますかしら」

答える七瀬所長の顔を見ると先程見えていた猫ひげは消えている。

疲れているのかなと、千紗は自分の目をこすった。

黒崎はそんな千紗の様子をじっと眺めていた。そして、無言で席を立つとお店のカウンターに向かった。そこでは内村が食器を洗っていた。

「内村さん、ちょっといいですか」

黒崎が呼ぶと内村はいつものようにのほほんとした顔で近寄ってくる。

「なんですか」

「あの二宮さんという女性は何者なのですか」

黒崎の言葉に内村も怪訝な表情をする。

「何かあったのですか」

「彼女は事務所に来てから5分経たないうちに僕と七瀬所長の正体を見抜いてしまったのです」

内村の顔色が変わった。

「それでどうなったのですか」

「その時彼女が知り得た僕たちに関する記憶を消しました」

黒崎は平然とした表情で内村に告げた。


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