猫は暗闇で笑う

第91話 式王子の帰還

七瀬美咲は木立の中を痛む右足を庇いながら駆け続けた。

見上げるような樹高の木々が続き、明り一つ見えないがここは東京のど中心部に位置している。

美咲は追われていた。

相手が人の姿を取っていれば対処はたやすいが、強い力を持った人ならぬものの気配が美咲を追い立てていた。

雑踏の中では敵の気配は感じられても、周囲を取り囲む一般の人々の思念が邪魔をして相手の所在すらわからない。

それならばと美咲は明治神宮の森に逃げ込んだのだ。

神社の境内には誰が施したのかもわからない強い結界が張られており、美咲はそれを使って追っ手を撒くつもりだった。

神社の西側の境界はオリンピックセンターに接している。美咲はセキュリティーの赤外線に引っかからないように気を付けながら塀を超え、植込みと花壇をまたぐとオリンピックセンターの敷地に入った。

黒崎は屋敷までたどり着いただろうかと、美咲は部下の身を案じた。

彼は人間界の序列では美咲の部下であるが、彼女の眷属でもある。

美咲は平静を装うと、公園のように整備されたオリンピックセンターの敷地を抜けて正門から外に出た。

黒崎なら上手く追っ手を撒けたはず、心配するべきは自分の身の安全だ。

ゲートを抜けた正面の道路は車通りは少なかった。高速道路のランプから降りて来たタクシーに目を止めた美咲は手を上げて止める。

タクシーに乗り込んで行き先を告げようとした美咲は。自分の顔を確認した運転手の目が怪しく光るのを見た。

運転手は行き先も聞かずにタクシーを急発進させる。

読まれていた。

みすみす敵の手にはまってしまったのかと、美咲は唇をかんだ。

タクシーは井の頭通りに入って西に進んでいく。

自分の屋敷の方向に進んでくれるのはありがたいが、家まで送ってくれるとも思えなかった。

美咲は交差点で信号待ちの車列に前方をふさがれたタクシーがスピードを落とすのを見計らってドアを開けると、走行中のタクシーから飛び降りた。

路面で回転してスピードを殺してから素早く立ち上がると跳躍する。こうなると怪我をした足を気遣っている余裕はない。

美咲は路面から道路わきの民家の塀の上に跳び、そこからさらに屋根の上に跳ぶ。

現代風な平べったいパネルで葺かれた屋根の上をトトトッと軽い足音を残して走り、さらに隣家の屋根に跳躍した。

2階に家人がいたら足音に気づかれるかもしれないが、せいぜい猫と勘違いする程度だろう。

「ディオーヌのドレスが台無しですわ。」

美咲は独り言をつぶやきながら、さらに隣の家に跳躍した。

ヒールの折れたパンプスは道路の端に投げ捨てる。

タクシーが追ってくる気配はなかったが、人外の気配は相変わらず背後に感じられた。

屋敷は目前なのでこのまま逃げ込むこともできたが、追ってくる気配に自分の家を教えるのも面白くなかった。

「そういえばこの近くにあいつが住んでいるのでしたわね」

周囲の家並みを見回して、自分の位置をつかんだ美咲の顔に微笑が浮かんだ。


同時刻、カフェ青葉の2階の居住スペースで、山葉さんは言葉を選びながら僕に告げた。

「ウッチーは私を買いかぶりすぎだ。私は中高一貫の女子高から、女子大に進学したので男性に免疫がない。それゆえに不愛想な態度をとるのを君は何か高尚なものと勘違いしているのだ、それに加えて私は神事にばかり傾倒して努力を怠ったから女子力もゼロなのだ。いい大学に行って引手あまたになりそうなウッチーが私などを選んでいいのか」

謙遜も過ぎれば煩わしい。カフェ青葉は営業を終えてオーナーの細川さんも自宅に帰ったので僕たち二人きりだ。

細川オーナーはかねてから、仕事が遅くなったときは2階に泊ってもいいと言ってくれていたので、僕としては気に病むことは何もないのだが、肝心の彼女がなんだか煮え切らない。

僕はパステルカラーで統一された彼女の部屋のベッドに腰掛けると、そこに置いてあった大きなクマのぬいぐるみを抱えてみた。

きっと僕の眉毛もぬいぐるみのようにハの字になっているに違いない。

「今更そんなことを気にしなくてもいいんですよ。僕の気持ちはわかっているでしょう?」

彼女は僕の顔をじっと見てから顔を赤らめた。そして永遠のように思える時間をおいてからゆっくりとうなずいた。

僕がぬいぐるみをベッドに放り出して立ち上がった時だった。突然ざわりと背筋が総毛立つような気配が襲ってきた。

彼女をを抱きしめようと伸ばした僕の手が止まる。そして彼女も僕と同じように何かを感じた様子だった。

「何か家の中に入って来た」

山葉さんがつぶやいた。

彼女の言葉はストレートに真実を告げる場合が多く、僕はいざなぎ流の神々がお気に入りの巫女を奪われまいと乱入してきたのだろうかと青ざめた。

「一階に何かいるみたいだ、行ってみよう」

彼女は身をひるがえして自室のドアを開けると階下に向かった。

いいところで邪魔が入った僕はのろのろと彼女の後に続く。

階下に降りてみても人の気配はなかった。

「一体何だったんでしょうねさっきの気配は」

僕が聞くともなく口にした言葉に彼女も無言で首をひねっている。僕たちは二人で店の奥のガレージやコーヒーの焙煎ルーム、そして厨房と見て回り、再び廊下に出た。

次は店の中を見てみようと思って、何気なくいざなぎの間に目をやった僕は、祈祷用の祭壇の上からこちらを見つめている眼に気が付いた。

「山葉さん、あそこ」

店の中に入ろうとしていた彼女は足を止めてあきれたようにつぶやいた。

「猫だったのか」

祭壇に座っているのはヒマラヤン系に見える猫だった。ヒマラヤンとして売られている猫は顔立ちはペルシャ猫に近い平べったくてかわいらしいタイプが多いがその猫はむしろシャムネコ寄りで鼻筋が通っている。

山葉さんがしゃがみ込んで呼ぶと、猫は祭壇から飛び降りて彼女の手にすり寄る。

「後ろ足に怪我をしているみたいですね」

「そうだな、きっと発情期でうろうろしていて喧嘩でもしたんだな」

僕たちの会話に抗議するようにその猫はニャアと鳴いた。

「2階の窓を開けていたからそこから入ったのですね」

「うん、しかし問題はこの猫ちゃんではなさそうだ。妙な気配は消えていないから、この子は外にいる邪な存在を嫌って逃げ込んできたのかもしれないな」

山葉さんは壁越しに外を見透かすように周囲を見回した。そういえば僕が感じている嫌な気配も消えていない。

「少し邪気を祓ってみよう。準備してくるから待っていてくれ」

彼女は猫の頭をなでると二階の自分の部屋に上がっていった。残された僕は所在なく猫のあごの下を撫でてやった。

そういえば、どこかで見かけたことのある猫だ。近所で飼われている猫が迷い込んだのかもしれない。

猫は僕の足元まで来るとスリスリと頭をこすりつけた。

巫女姿に着替えて2階から降りて来た山葉さんは部屋の中心に据えた「みてぐら」に式神をセットした。

「今日は五色の王子の式王子を使ってみる」

彼女は御幣を手にして法文を唱え始めた。

それぞれの式王子は和紙を日本刀で切って作ったものだが、細かい切込みが立体的な造形となっており、それぞれに顔が付いている。

山葉さんは舞うような動作と共に法文を唱えていたが、五色の式王子は突然空中に舞い上がった。

式神たちはまるで編隊を組むように部屋の中を旋回すると唐突に姿を消した。

それはまるで別の時空に転移したかのようだ。

山葉さん自身も驚いたような表情を浮かべたが、祈祷は止めない。

僕は建物が振動しているのに気が付いた。

地震とは異なる細かい振動が床や壁を揺るがしていて通路を挟んだ厨房からは食器類がカタカタと音を立てているのが聞こえる。

やがて、ズズズンと体に響く重低音と共に強い振動が伝わって来た。山葉さんも詠唱をやめて佇んだ。

しばらくして、再び大きな音と振動が響いたが先ほどより音も振動も小さくなっていた。その後も何回か音と振動は繰り返されたが、次第に遠ざかっていくように感じられ、やがて聞えなくなった。そしてその直後に、ザアッと音を立てて式王子が部屋の中空に出現した。

部屋の中をふわりと漂った式神たちは力尽きたように畳の上にばらばらと落ちるとそこで動かなくなった。

「結局、正体はわからなかったが、追い払うことはできたみたいだな」

山葉さんは猫がスンスンと匂いを嗅いでいる式王子を取り上げると、「みてぐら」と一緒に梱包し始めた。役目を終えた式王子は「みてぐら」と共に土中深く封じ込めるのだ。

梱包を終えて一息ついている彼女を僕は後ろから抱きしめた。彼女はハッとした様子だが抗うことはしない。

「さっきの大きな音で警察が来るかもしれませんね」

僕は彼女の耳元でささやいた。

「まさか。あの音は普通の人には聞こえないよ」

山葉さんが応えた時、僕の手が彼女の磁器のように滑らかな胸元から襟の奥に伸びた。

彼女はピクリと身動きすると、オズオズととした様子で僕を振り向いた。

「ウッチー。猫ちゃんが見ているから二階の私の部屋に行こう」

僕が足元を見ると先ほどの猫が僕を見上げてニャアと鳴いた。

翌朝、僕は、出勤してきてニヤニヤする細川さんに居心地の悪い思いをしながら朝ごはんを食べさせてもらい、大学に行くことになった。

迷い込んできた猫は、山葉さんが美咲嬢のお屋敷の近くでよく見かけるというので、ぼくが抱えて連れて行き、その辺でリリースすることになった。

七瀬家の屋敷近くに来たところで、猫はもぞもぞと身動きすると僕の腕から飛び降りた。どうやら、自分の縄張りに戻ったことを悟ったらしい。

猫はまだ足を引きずっていたが、ひょいと塀の上に飛び乗ってからニャアと一声鳴くと塀の上を歩いていく。

美咲嬢が猫を飼っている話は聞かないからきっと近所で飼われているのだろう。

僕は猫の後姿を見送ってから下北沢駅に向かった。

僕は下北沢駅の地下にある小田急線のホームに降りてから新宿行きの快速電車に乗った。電車が発車し、吊革につかまりながら僕は昨夜の記憶を反芻した。

自然と顔がにやけそうになるのを必死で抑える。僕は正面にある電車の窓ガラスに映った自分の顔を見てにやけた顔になっていないかチェックしようとしたが、窓ガラスに映った自分を含めた乗客の顔の中に見覚えのある二つの顔があることに気が付いた。クラリンと雅俊だ。

僕が恐る恐る振り返ると二人は既に僕に気が付いていたようで、笑顔を浮かべていた。

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