口寄せの奥義
第85話 おぼろげな人影
5月の横浜の街は明るい日差しがあふれていた。
山葉さんが運転するBMW M3は込み合った通りを軽快に走り抜ける。
僕は山葉さんと一緒にコーヒー豆の仕入れに来ているのだ。
仕入れ先は横浜市内で輸入から小売りまでやっている老舗のコーヒー店だ。
カフェ青葉では数種類の生豆を仕入れてブレンドしてから自家焙煎している。
「コーヒー豆は価格が安い時に大量に仕入れるお店もあるが、細川さんは風味が落ちるのを嫌ってこまめに仕入れるようにしているんだ」
山葉さんが教えてくれる通り、一度の仕入れ量はそれほど多くない。乗用車のトランクルームに収まる程度の量なので、本当は荷物運びに僕が付いてくる必要もないくらいだ。
「細川さんの次の指令書を開けて見てくれ。」
僕は言われるままに、2番と書かれた封筒を開けてみた。
「後学のために、根岸のカフェ「オルカ」でお昼を食べろって書いてありますよ」
「なんだ、そんなことか。指令書なんて大仰に言うから何事かと思ったよ」
「最近ミリタリー物のゲームに凝っているとか言っていましたからね」
山葉さんは苦笑しながらステアリングを握り、今日も大判のサングラスをかけている。
ポニーテールを揺らして運転する横顔がクールで格好いい。
「ところで、」
僕はおもむろに話し始めた。
「この間の返事はいつ聞かせてもらえるんですか。」
この間というのは、僕が意を決して彼女に交際を申し込んだ時のことだ。
彼女は即答できないから時間をくれと言ったのだが、すでに一か月以上が過ぎている。
次の瞬間、僕は助手席のシートに押し付けられた。BMWが急加速したからだ。
加速したものの、町中なので次の信号で停車している車が目の前に迫ってくる。
山葉さんは今度は急ブレーキを踏んだ。
つんのめるような急制動に、今度は体がシートベルトに押し付けられる。
「すまん。思わず力が入ってしまった」
サングラスのせいで表情が読めないが、彼女は動揺しているようだ。
信号が変わって右折しようとした彼女がステアリングを着る方向を見た僕は叫んだ。
「山葉さんだめですよ、そっちに入ったら逆走してしまう」
「そ、そうだな」
彼女がステアリングを修正したので、大仰にタイヤが鳴った。
運転中にこの話はまずかったようだ。
「山葉さん、返事は後でいいですから運転に集中してください」
彼女はうなずいて、前を見て運転し始めたが、なぜそこまで動揺するのか僕は理解に苦しむところだ。
返事がもらえない事に加えて彼女の怪しいリアクションは僕を不安にするのに十分なものだった。
2番目の指令書が示していたカフェ「オルカ」は高台にある見晴らしのいい店だ。街並みや工場の向こうに海が望めるロケーションだ。
お店に入った僕たちはランチのセットメニューをオーダーした。
「指令書にソーダー水もオーダーしろと書いてありますけど、なんででしょうね」
「とりあえず追加オーダーしようか。きっと彼女が知っているヒット曲とか小説にちなんでいるのではないかな」
細川オーナーがお使いにかこつけて、何か仕掛けを考えているようだが、僕たちはとりあえず指令書に従うことにした。
僕たちが頼んだランチセットはスズキのポワレがメインだった。
「おいしい。ハーブの香りとバターの風味が程よくあっていていいね」
山葉さんは上機嫌だ。
「見晴らしがいいお店っていいですね」
「うん。下北沢界隈では望むべくもないけどね」
海が見える窓辺で、彼女の屈託のない笑顔を見ていると、なんだか彼女とデートを楽しんでいるみたいだ。
食事が終わって、車に戻ったところで、僕たちは第3の指令書を開封した。
「お店のメニューの背景画像に使いたいから、港が見える丘公園のローズガーデンでバラの写真を撮って来いと書いてあるな。ウッチー、カメラを持って来ているか?」
「出がけにオーナーから預かってますよ。念のためスマホと両方で取りましょう」
僕たちは港が見える丘公園まで移動した。
「公園付属の駐車場が空いていてよかったですね」
ぼくが話しかけると、山葉さんが誇らしげに答える。
「うん。中華街の方から来ると登り坂になるから、この辺に置きたかったんだ」
僕たちは取り合えず展望台に行ってみた。小高い丘の上にあるので横浜港やベイブリッジが見渡せるビューポイントだ。
さすがに、公園内は人が多く、しかも老若取り混ぜてカップルの割合が多い。
公園内のローズガーデンでは、開花が早かったバラはすでに花が終わりかけていたが、まだ見ごろのバラもそこかしこにある。
僕はバラの花をデジカメの接写モードで撮影した後で、スマホを使って撮影してみた。
「スマホなんかできれいに撮れるかな?」
山葉さんが首をかしげるので僕は説明した。
「スマホの方が接写が利く場合があるんですよ。バーコードリーダーとか使う必要があるから、近い距離でも取れるようにできているんです」
「ふーん」
彼女はしゃがみ込んでバラの花を覗き込んでいる。
今日の彼女は白のスカートにVネックの白いニットセーターを合わせて普段よりおしゃれな雰囲気だ。
「山葉さんこっちを向いて」
スマホのカメラを向けて声をかけると彼女は顔を上げた。嫌がるかと思ったが彼女は微笑を浮かべてこちらを見ている。
笑顔を浮かべた彼女が目線をこちらに向けているところは、あまり見たことがないことに気が付いた。
ちょっとドキドキしながら画像を撮影して何食わぬ顔で歩きはじめると。彼女も僕の横に並んだ。
「たまには、公園を散策するのもいいものだな」
山葉さんがつぶやいた。
「そうですね」
応えながら横を見ると、穏やかな表情で景色を眺める彼女がいる。僕はこのまま時間が止まればいいのにと思った。
しかし、細川オーナーの指令書は、まだ残っていた。
僕たちは駐車場に戻ると車の中で指令書を開封した。
「ロイヤルタワーホテルの駐車場に行けと書いてありますね」
「港の近くのホテルだな。取り合えず行ってみよう」
山葉さんはBMWを駐車場から出すと指定された場所に向かった。
ロイヤルタワーホテルの駐車場に車を入れた山葉さんは最後の指令書を手に取った。
開封して彼女が読んでいるのを僕も顔を寄せてのぞき込む。オーナーの指令は「山ちゃんへ、ホテルの部屋を予約してあります。あなたがお姉さんだからウッチー君に教えてあげなさい」と書いてあった。
僕と山葉さんは顔を見合わせた。
僕は、彼女が細川オーナーに何か言われた時のパターンとして、「オーナーがそういうなら仕方がない」と言って指令書に従うのではないかと期待を込めて彼女の顔を見つめた。
だが、彼女は指令書をひったくるとぐしゃぐしゃと丸めて口に放り込んだ。
「山葉さん、そんなもの口に入れたらお腹壊しちゃいますよ」
僕は慌てて止めたが、彼女は数回噛み噛みしてからごっくんとそれを飲み込んでしまった。
「最後のやつは見なかったことにしよう」
何だか無表情になった彼女は駐車場から車を出すと無言でカフェ青葉を目指して運転し始めた。
お店に戻ると、彼女は平常通りに仕事を始める。僕もバイトの業務を始めたが、そこに細川オーナーが寄ってきた。
「思ったより早く帰ってきたけど」
彼女は指令書の件を言っているのだ。
「最後の指令書は山葉さんが丸めて飲み込んじゃいましたよ」
「まあまあ、仕方がないわね」
彼女はあきれたように山葉さんの方を見た。
「ほとぼりが冷めたころに次の手を仕掛けるから頑張るのよ」
励ましてくれる細川オーナーは神のように見えた。
僕にしっぽがあればパタパタと振っていたに違いない。
その日の夕方は横浜ロイヤルタワーホテル事件のあおりで、僕と山葉さんは何となくぎくしゃくしていた。
カウンターの内側で二人並んで仕事をしていても何となく気づまりだ。
そんな時に、栗田准教授がカフェ青葉の入り口から入ってくるのが見えた。
この場の空気を変えてくれそうなので僕は歓迎したかったが、栗田准教授と連れ立って入ってきた男女を見て僕の歓迎の気持ちは薄れていった。
その二人は初対面の人達だったが、男性の方の背後に何か人ならぬものの影が張り付いていることに気が付いたからだ。
それは人の形はしているものの、ディテールが失われて目と口の位置が何となくわかる程度のぼやけた姿だった。
生前の姿そのままの幽霊も怖いが、ここまで異形のものとはっきりわかるとそれはそれで怖い。
横にいる山葉さんの様子を見ると、彼女も眉間にしわを寄せて男性の背後の異形のものを見つめている。それは霊視をするときの彼女の癖なのだ。
栗田准教授は僕たちの前に来て、話しかけようとして、僕と彼女の表情に気が付いたようだった。
「やあ、今日はちょっと相談があってきたんだけど、その様子だとすでに何か見えてしまっているいるみたいだね」
山葉さんは眉間にしわを寄せたままで栗田准教授に答えた。
「男の人の後ろに何かいるのが見えるのですが、ぼんやりした形だけで詳細がわからない。ウッチーならもっとはっきり見えているかもしれませんよ」
彼女は僕に話を振ったが、見え方は僕も同様だ。
「僕もぼんやりした形しか見えないんです。見える見えないというよりも本体が人としての情報を失っておぼろげな形をしているのではないかという気がします」
栗田准教授は男性の方を振り返ったが、むろん栗田准教授には「それ」の姿は見えていないはずだ。
「彼は私の研究室の卒業生で西山雄一君です。最近こちらの景平沙也加さんと交際するようになって不可解な現象に悩まされるようになったと言って私に相談してきたのですが」
栗田准教授は山葉さんの方に目を移した。
「どうやら、幽霊が絡むような話のようなので山葉さんに相談に乗ってもらったほうがいい思って連れて来たのです」
山葉さんは腕組みをして考え込んでいた。
「その霊を除霊しろという話なのですか」
「いや、まずは西山さんの話を聞いてもらって、事の次第をはっきりさせたいと思います。対応を考えるのはそれからにしましょう」
栗田准教授の答えに山葉さんは表情を緩めた。
「そういってくださると助かります。私は闇雲に除霊をすることは控えようと思っていたところです。除霊してみたら、その人にとって大事な霊だったりするかもしれませんからね」
僕たちの話を聞いていた西山さんと景平さんは不安げに互いの周囲を見回している。相談に行った先で「そこにいる」とはっきり言われたら不安にもなるだろう。
「とりあえず、お飲み物でもいかがですか」
僕がメニューを示すと栗田准教授一行は、ほっとしたような表情でメニューをめくって飲み物をオーダーし始めた。
僕は西山さんの背後にいる人影が間近に来たので、なんだか落ち着かなかった。
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