第45話 結界の内側

 後藤さんはしばらくカフェ青葉に泊まることになり、翌日にカフェ青葉 に向かっていた僕は呆然とした。

 青葉があるべき場所に存在しないのだ。

 道を間違えたのかと思った僕は一旦、下北沢駅まで引き返して普段通る道をなぞってみたが、やはりお店にはたどり着けない。

 十ヶ月近くアルバイトに通ってすっかり憶えた町並みの中で、確かにこの辺だったと思う場所なのにカフェ青葉 をいつしか通り過ぎてしまうのだ。

 もしかしたら、カフェ青葉にまつわる一切の出来事が僕の幻覚だったのだろうかと自分の正気さえ疑い始めた時に、僕は柏木氏が歩いてくるのに気がついた。

 彼も僕の顔を認めると近寄ってくる。

 先日、呪詛返しの祈祷をした時に僕も居合わせたので憶えていたようだ。

「先日電話した柏木です。陰陽師のお姉さんに直接頼もうと出かけてきたのですが。」

 後藤さんが店内にいるかもしれないので、青葉に入れる訳にはいかなかった。それ以前に僕も店の所在がわからない状態だ。

「そうですね。彼女も準備があるので事前に電話連絡してからご来店いただけませんか」

 すると彼は、自分のスマホを示していらだった口調で僕にまくし立てた。

「さっきから何回発信しても繋がらない。俺のことを避けているのじゃないだろうな」

「そんなことはありませんよ」

 否定されると彼はさらにむきになって僕に絡む。

「だいたい店の場所がわからねえ。おまえら隠しているな」

「そんなことが出来るわけ無いでしょう」

 僕が手荒く掴まれた手をふりほどくと、彼も少し我に返ったようだった。

「そういえばそうだな。すまない」

 柏木氏は手を押さえて僕から後ずさった。

「陰陽師さんには又連絡すると伝えておいてくれ」

 彼はそう言うと、きびすを返して駅の方へと戻っていった。

 残された僕は周囲を見回したが、相変わらずカフェ青葉の所在はわからない。

 しかし、歩き去る柏木氏から逆方向に振り返ってみたら目の前に山葉さんが出現していた。

 カフェでバリスタとして働くときの黒いスカートと白いシャツにエプロン姿だ。

「山葉さん」

 嬉しくなった僕が思わず飛びつこうとしたら、彼女は僕の額を抑えて止めた。人間は頭を押さえられると動けないものだ。

「さっきからウッチーが店の前をうろうろしているのが見えるのに入ってこないから心配していたのだ。一体どうしたというのだ」

「青葉の場所がわからなくなっていたんです」

「わからないだと」

 山葉さんはいきなり僕の右手をぎゅっと握った。

「あ」

 山葉さんは握った僕の手をぐいと引っ張る。

 彼女の手の感触に気を取られている間に。僕の目の前にカフェ青葉の店舗が出現していた。

「見えたか」

「見えました」

 山葉さんに促されて店に入ろうとしたときに、何かが僕の鞄から滑り落ちて金属音を立てた。

 それはペンダントだった。首からぶら下げるくらいの鎖が付いていたがそれは切れてしまっており、拾い上げてから店内にはいると山葉さんが振り返った。

「何か落としたのか」

「さっき柏木ともみ合った時に彼が落としたのだと思います」

 僕はペンダントを見せた。


「そんな物その辺に捨てておけばいいのに」

「そうも行かないでしょう。大事にしている物かもしれないですし」

 僕は何気なくペンダントをカウンターの上に置いた。

「今日はお客の数が極端に少ないと思っていたが、どうやら七瀬美咲の仕業のようだ」

「どういう事です」

 僕は山葉さんの話を聞いても要領を得ないので尋ねた。

「あいつが柏木を寄せ付けないように結界を張ったに違いない。なまじ霊感が強い人間はそのために店自体が見えなくなったのだ」

 そう言えば彼女が結界を張ると言っていたのを思い出した。

「でもそこにある物がどうして見えなくなるのですか」

「カエルは動く物しか見えないそうだが、人間の視覚だって見ようとして見たものしか脳に届かないのだ。盲点に隠されてしまったようなものだな」

 理屈で理解できても現実には信じがたい話だ。

「どうやったらそんなことが出来るのです」

「その辺が妖怪たる所以だ」

 山葉さんは七瀬美咲を妖怪と決めつけているが、今日の一件で僕も彼女が人ならぬ者のような気がしていた。

「あらこんにちは」

 僕たちが話しているところに、後藤さんがトレイを持って現れた。山葉さんと同じコスチュームに着替えており、昨日よりも明るい雰囲気に見える。

「泊めてもらうだけでは申し訳ないのでお店を手伝わせてもらうことにしたの」

 彼女は軽い足取りで歩いていたが、カウンターの上に置いてあったペンダントに目をとめると表情を曇らせた。

「これは、柏木が普段から付けていたペンダント」

「さっき彼と外で会ったのです。この店の場所を聞かれて、もみ合いになったのですが、その時に落としたみたいです」

 山葉さんは、僕を軽くにらんで僕を咎める。

「ほら見ろ。だから捨てて来いと言ったのに」

「大丈夫ですよ。それを見たからと言って、具合が悪くなるわけではありません。」

 後藤さんが場の雰囲気をとりなすように言うと、山葉さんはやっと表情を緩めた。

「それを聞いて安心しました。彼は何故あなたを狙うようになったのですか」

 僕が尋ねると山葉さんが余計なことを聞くなと言いたそうに再び僕を睨んだが、後藤さんは手で制した。

「彼も私とつきあい始めた頃はすごく優しかったのです。でも大学の男子同級生のメール等にひどく神経をとがらせるようになり、最後には、私が何か隠していると邪推して手を挙げるようになったのです」

「その辺の思考の流れがわからないんですよね」

 僕はつぶやいた。柏木は粗野な雰囲気ではなくむしろ知的に見え、邪推して手を挙げることに違和感があった。

「いっそのことそのペンダントに染みついた奴の思念を読み取ってみたらどうだ」

 山葉さんが軽い雰囲気で言った。

 僕はつい最近、第2次大戦の遺品に残っていた思念を読んで遺族の元に届けた経験があったが、その過程でインド北部で食料もなく戦い続けて戦死した日本兵の経験をなぞる羽目になった。

「どうやったら、思念が読めるんでしょうね」

「手にとって意識を集中してみたらどうだろう」

 成り行きで、僕はサイコメトラーにチャレンジする羽目になった。七瀬嬢の結界のために店の中にお客さんがいなくて暇だったこともある。

 店の奥で着替えて来た僕は、カウンターの中の丸椅子に座ってペンダントを手に取った。

 意識を集中したくらいで思念が読めるのだろうかと思いながら、僕は少し黒っぽく変色したペンダントを懐疑的な気分で見つめていたが、ふと気がつくとペンダントの黒っぽい変色は消えてきれいな輝きを取り戻していた。

「敏君。このペンダントが気に入ったのかな」

 語りかけてくるのはお母さんだ。何処に行くのも一緒で、僕をこよなく大事にしてくれる。

 彼女は僕を抱き上げると抱きしめてほおずりした。

「美佐子あまり手をかけすぎると幼稚園に行く時にいやがって大変らしいよ」

「大丈夫よこの子は賢いからそれぐらい聞き分けるわよ」

 横にいるお父さんとの会話も僕の平安の邪魔にはならない。

 僕とお母さんの平和な時間はいつまでも続くかに思われた。

 あの日が来るまでは。

「おかあさん。何処に行くの.どうして僕を連れて行ってくれないの。」

 必死になって駆け寄る僕にお母さんは何も答えない。無言のまま、彼女はタクシーに乗り込み、ドアは閉められた。

 タクシーが走り去るのを見ている僕の横に、いつの間にかお父さんが来ていた。

「おまえのお母さんはな、男を作って出て行ったんだ」

 泣きじゃくる僕にお父さんは囁いた。

「優しいからと思って信用しすぎるとこんな事になるんだ。おまえも憶えておけよ」

 意味もよくわからないままに僕はうなずいた。

 僕が手に持ったペンダントは再び黒ずんだ色合いになっていた。

 僕が目を上げると、山葉さんが僕をのぞき込んでいた。

「もしかして、今ペンダントに染み付いた記憶を体験していたのか」

 僕がうなずいてみせると、彼女はため息をついて丸椅子に腰を下ろした。

「まさか本当に何か見るとは思わなかった。嫌な追体験したのか」

 僕はうなずくと、今体験した柏木の過去を話した。

 後藤さんは複雑な表情で佇んでいるが、その横で山葉さんは僕にカフェラテを差し出した。

「柏木とウッチーはタイプが違うからそう簡単に記憶など読めないと思っていた。嫌な思いをさせてすまなかった。」

「大丈夫ですよ。あ、ラテアートまで書いてある。」

 しかも絵柄はカップに前足をかけた子猫だった。彼女の一番お気に入りの絵柄だ。

 山葉さんも者に染みついた思念を読み取った経験があるのだ。物に染みつくほどの思念は往々にして持ち主のトラウマの原因になった体験や、死に至る直前の記憶だったりする。

 それを追体験する者の心にかかる負担を彼女も知っていたのだ 。

「柏木のドメスティックバイオレンスの原因はその幼児体験だったという事かしら。」

 後藤さんの問いに山葉さんが答えた。

「おそらくそうですね。でも成人になった男性がドメスティックバイオレンスや殺人未遂まで起こして、原因がママとの別離体験のトラウマでは言い訳にもならないでしょう。後藤さんは気にすることはありません。」

「そうね。でもストーカー男にさらにマザコンの肩書きが加わると救いようがないわね。」

 二人はどっと笑った。山葉さんと後藤さんは意外と話が合うらしい。

 その時、店の入り口のベルが鳴った。結界を物ともせず店にたどり着く客は何者だろうと僕は振り向いたが、店に入ってきたのは七瀬美咲と黒崎氏だった。

 黒崎氏は勝手知った様子で、美咲嬢のコートを入り口脇のハンガーに掛けている。美咲嬢は僕たちのいるカウンターまで真っ直ぐ歩いてきた。

「後藤さん落ち着いて休むことが出来たかしら。」

「ありがとうございます。ここなら安心できるし、すごく気分転換になりました。」

 二人が会話する横で山葉さんはカウンターをこつこつ叩きながら頬杖を付いていた。

「それはいいのだが七瀬さん。この店の様子を見て何か気がつかないかな。」

「さあ。いつもと変わらないと存じますわ。」

「お客が一人もいないだろ。あんたの結界のせいで常連客ですら店までたどり着けないのだ。」

 美咲嬢はゆっくりと店内を見回して事態に気がついたようだった。

「あらやだ。私の結界が強力すぎましたのね。」

 美咲嬢はハンカチで口を押さえながらコロコロと笑って見せた。

「笑い事ではない。一日だけでも大損害だし、客離れが進んだらこの店がつぶれかねない。どうしてくれるんだ。」

 美咲嬢はパンパンと手を叩いて黒崎氏を呼んだ。

「黒崎。あれを持ってきて。」

 黒崎氏は鞄の中から小切手帳らしき物を取りだして美咲嬢に渡した。彼女はさらさらと金額を書き込むとサインをして山葉さんに渡した。

「今日の損失はこれで許していただけないかしら。」

 金額欄はには0が六つ並んでいるのが見て取れた。山葉さんは小切手を確かめるとうなずいた。

「今日の分としては十分だ。だが、この状態が続くと客が店の存在すら忘れる可能性がある。」

「そうですわね。何か柏木の思念が染みついた物があればそれをもとに彼だけに作用するように結界をカスタマイズ出来ますのに。」

 僕は思わず柏木の落としたペンダントを胸の高さに持ち上げて見せた。後藤さんはそれを指さしている。

「それ、彼の波長を感じます。そんな物を確保しているなんてさすがですわ。」

 彼女が手を差し出すので僕はカウンター越しに手渡した。

「明日からはお客の入りに心配はありませんわ。」

 美咲嬢は自信満々に宣言した。


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