第34話 1人目の幽霊

僕はマンションに霊障をもたらしている地縛霊を捕えたつもりだったが、逆に霊が住み着いている時空間の中に引き込まれたようだ。

相手の手首の皮が剥けたことでひるんでいると、彼は逆に僕に掴みかかる。その手のひらの感触はネチャッっとしていて気持ちが悪い。

強烈な腐敗臭を放ちながら迫って来る彼は、おそらく死後二ヶ月たって発見されたというこの部屋の二代前の住人の田辺さんなのだろう。

僕は必死になって押し戻しながら考えていた。霊というのは生前の姿を取ることが多いと聞くのに、彼の場合何故こんなゾンビみたいな姿をしているのか疑問だ。

「あなたは田辺さんですよね。あなたはもう亡くなられているんです。むきになって暴れないでください」

「うるさいな。そんなこと事はわかっている」

彼は更に力を込めてきた。

「僕は病気で倒れたとき、しばらくの間意識があった。テーブルの上のスマホを取ることが出来ずに苦しんでいたのに、誰も助けに来てくれなかったんだ。その時の気持ちがわかるか」

「無念なのはわかりますけど、どうしてこの部屋に居続けるのですか。発見された後で葬儀もあったのでしょう」

 僕は相手が幽霊だということを意識しつつも、必死になって話し続ける。

「いいや。離婚した妻は引き取りを拒否した。僕はゴミみたいに片付けられたんだ。半ば白骨化していた死体は役所が火葬したらしい。死体が運び出された後も僕はこの部屋から出る事ができない」

何だか気の毒な成り行きだが、腐った死体の姿でつかみかかって来られては、同情している余裕はなかった。

田辺さんは僕が彼の話を聞き取れるのをいいことに積年の恨みをぶつけようとしているようだ。

「おまえも俺の仲間にしてやる」

そう言うなり彼は僕の二の腕にガプッと噛みついてきた。

「いててて」

僕は慌てて彼を引きはがした。彼は思ったほど抵抗せず、僕が彼を突き飛ばした形になった。

彼が床に倒れるのを見届けた後で、左手に何かあるのに気がついた。良く見ると、それちぎれた手首だった。

僕は慌てて手首を放り投げ、彼に噛まれた二の腕を見た。

前歯や犬歯が何本か抜け落ちて腕に刺さっている。抜けた歯の根元には神経や血管らしき糸状の物が数センチの長さで付着していた。

「うわ、気持ち悪い」

僕は腕に刺さっていた歯を一本一本引き抜いて放り投げた。

しかし、良く考えてみたら、見た目がゾンビだからといって霊に噛みつかれて僕がゾンビ化するとは思えない。

リビングの床に倒れていた田辺さんらしき霊はゆっくりと起きあがった。

手首がちぎれたところからは黒い液体がドロリと垂れ下がっている。

ホラー映画でゾンビが描かれる場合は、既に死んでいるから不死身という設定が一般的だ。

だが、この人の場合、体の強度が腐敗に応じて低下しているようだ。これ以上暴れると体が崩壊してしまいそうだが、そうなってはたまらないので僕は説得することにした。

「田辺さん。落ち着いてください。彼女に祈祷してもらったらきっとこの部屋から出て来世に行くことが出来ますよ」

「その巫女さんが何とかしてくれるというのか。だいたい、さっきも俺が何か始まるのかと見物していたらあんたが俺を見とがめて尋問してきたんだろ」

田辺さんは興味を示した様子で立ち止まった。

「田辺さんが彼女にふれてみてください。そうすれば彼女もこの時空で動けるようになるはずです」

「そうか、触ってもいいんだな」

そう言うと、田辺さんは祈祷の途中で凝固している山葉さんに歩み寄った。

僕も同時に近寄ってみた。山葉さんが無防備に凝固しているのを見て少しどきっとしていると。田辺さんが彼女の顔に自分の顔を近寄せているのに気がついた。

「誰がそんなことをしろと言った」

僕は思わず、田辺さんを思いきり蹴り倒していた。

僕に蹴られた勢いで腹腔のどこかが破れたらしく、リビングの床には濁った液体と共に田辺さんの腸がぶちまけられていた。

「ああ、やってしまった」

僕が頭を抱えたのと同時に、山葉さんが身動きした。田辺さんが倒れるときに彼女のどこかにふれたようだ。

彼女は最初に匂いに気がつき、巫女姿の白衣の袂で口と鼻を覆ったところで、目の前に腸が飛び出した状態の腐乱死体が倒れていることに気がついたようだ。

「な、なんだこれは」

彼女は後退して僕の腕にしがみついた。

「さっきリビングルームの隅にいた奴です。多分後藤さんが話をしていた元住人の田辺さんだと思います」

その時、田辺さんが床に手を突いて起きあがろうとし始めた。体を起こしたことで更にずるずると内臓が腹腔から出てくる。

「うわあああ」

山葉さんは僕の後ろに隠れた。幽霊が平気な彼女もゾンビは苦手らしい。

「何故こんな事になっている。ウッチー何かしたのか」

「さっき蹴飛ばしてしまったので、お腹の中身がはみ出したみたいですね。」

その間に立ち上がった田辺さんは、救いを求めるように手首のない右腕を山葉さんに差し出した。

「僕を助けてください」

彼は歩いて近寄ろうとして自分の腸を踏んづけて転んだ。目も当てられない有様だ。

「田辺さんそのまま動かないで。僕の質問に答えてください」

田辺さんは床に倒れたまま、白っぽくなった目を動かして僕の方を見た。

「あなたは生前ゾンビが出てくるホラー映画が好きだったのではありませんか」

先ほど僕を仲間にしてやるといって噛みついた事から思いついたのだ。彼は僕の言葉の意味を考えていたようだ。少ししてからゆっくりと答えた。

「うん。確かに死人のはらわたとか言うB級ホラームービーをよく見ていたおぼえがある」

思ったとおりだったので、僕は自分の推理を彼に伝えることにした。

「田辺さんあなたは不幸にも一人でいるときに病死したため、死後もなかなか発見してもらえなかったのですよね」

彼はうなずいた。

「そのために、自分の死体が徐々に腐敗していくのを目の当たりにすることになったので、自分の姿がゾンビのようになっていると思いこんだのではありませんか」

彼はしばらく考えていた。

「それじゃあ、この姿は単に俺の思いこみのせいだと言いたいのか」

彼の言葉に僕はうなずいて見せた。

その時、僕の後ろに隠れてしがみついている山葉さんが田辺さんをのぞきながら言った。

「この時空の中では彼の思念が具体化しているというのか」

「おそらくそうですね。彼の思いこみを反映していた訳ですが、本人がそれに気づけば修正されて元の姿に戻ると思います」

僕が話している間に、田辺さんの姿に変化が見えた。腐乱死体のように見えていた外観が白っぽくぼやけ始めたのだ。

僕と山葉さんが見守る前で田辺さんだった存在は青白い光の固まりになってしまった。

生前の姿に戻ると思っていた僕の予想は見事に裏切られた形だ。

青白い光から言葉が響いた。

「ありがとう。僕はどうやらここで迷っていたらしい。どうか、あなたの手で弔っていただけませんか」

「わかりました。私の流派で儀式を執り行いますがよろしいですか」

山葉さんが前に進み出た。もとより彼女はそのために来ているのだ。

彼女が儀式を執り行う間、青白い光はふわふわと漂っていた。動けば少し尾を引いて見える。まるで人魂のようだ。

一般に神道では遷霊祭として仏教の位牌にあたる霊璽に霊を移し、神として祭りその家を守ってもらう。いざなぎ流でもみこ神の祭文を唱えて神として祭った後に、新たな命として送り出すのだという。

漂っていた青白い光の固まりは儀式の終盤に山葉さんが御幣を大きく払うと、いずこへともなく消え失せていた。

最後に一礼すると彼女は大きく息をつく。

「驚いたな、あんなものが現れるなんて想像もしていなかった」

「すいません。僕が慌てて彼とつかみ合いをしたり蹴とばしたりしたからなのです」

「いいや、ウッチーのおかげで彼を弔うことが出来た。ありがとう」

彼女はさわやかな笑顔を浮かべたが、僕は自分と彼女を除いて周囲の人たちは時間が止まったままなのに気が付いた。

「山葉さん、田辺さんを弔ったのに、周囲の状況が変わらないのは何故でしょう」

彼女も気がついたらしく、周囲を見回している。

「元に戻らないのはおかしいな。少し状況を調べてみよう」

僕達は部屋の中を調べ始めた。そして僕は田辺さんが最初に佇んでいたリビングルームの隅の辺りで床材が変色しているのに気がついた。

「山葉さんこの辺の床材が変色していますね」

彼女は床にかがみ込むと床の匂いをかぎ始めた。

「匂いは残っていないが、人の形に見えるな」

「田辺さんが最後に倒れていた場所ですか」

「おそらくそうだ。普通そんな事件があれば床材の張り替えぐらいするが、後藤さんが費

用をけちってクリーニングだけですませたのかもしれないな」

田辺さんが僕に語った無念をその場から感じ取ったのか山葉さんは一礼した。

事情を知っていればこんな部屋には住みたくないと思うのが普通に違いない。

「この床材そのままにしておいて良いものでしょうか」

「いや、後で後藤さんにフロアの張り替えを提案することにしよう。物に人の思念が染み付くこともあるのだからな」

山葉さんは立ち上がるとパンパンと袴をはたいた。

「田辺さんの件はもう片が付いたが、私たちがこの状態から脱出できないことが問題だ」

「まだ他に原因があるのですね」

彼女はうなずいてリビングルームの中を見回した。部屋の中程では五人が座布団に座ったまま凝固している。

僕達は無言で顔を見合わせた。

「このまま脱出できなかったら僕達は、通常の世界からは神隠しのように消えてしまったとしか見えないのですね」

「おそらくそんなことになるのだろう。この時空の中で私たちにとって永遠のような時間が経過して朽ち果てて塵なったとしても外部の人々にとって、全く時間が経過していないのだからね」

 彼女と二人きりだとしてもそれはあまりうれしい話ではない。僕は息が詰まるような思いで周囲を見回し、リビングルームに座っている人々の中の一人がゆらゆらと体を動かしたのに気がついた。

「今、彼が動きませんでしたか」

「私も見た。正座になれていないから耐えられなくなったという感じだな」

それは、僕たちが今井家の長男だと思いこんでいた十代後半くらいに見える男性だった。

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