Ψの悲劇

第27話 Ψの悲劇

下北沢駅を出て通りを歩くと、日差しの強さは相変わらずだが、吹き抜ける風は秋をを感じさせる。

大学の授業の後にカフェ青葉にアルバイトに出かけることも既に日課のようになり、僕は安定して稼げるいいアルバイト先を見つけたと言ってよかった。

しかし、頭上の抜けるような空とは裏腹に僕の心は晴れない。

僕はバイト先のスタッフで陰陽師でもある山葉さんにひそかに恋心を抱きつつある自分を自覚していた。

しかし、彼女にとって僕は人畜無害なアルバイト学生で、出張でご祈祷する時も一緒に連れて行けば心細くない程度の存在にすぎない気がする。

彼女との関係を進展させるには、僕の気持ちを彼女に伝えることが不可欠に思われた。

しかし、僕は思いきって告白したら、断られて何もかも失うかもしれないと思い、行動に移すよりも居心地の良い今の状態を続けることを選んでしまうのだ。

そんなことを考えている時、僕の目の前に何かのチケットが突き出された。

「今度の週末から、駅前のザ・オオイリで新作を上映します。良かったら見に来てくれませんか」

声をかけてきたのは、二重まぶたの大きな目が印象的な整った顔立ちの女性でどうやら自分の所属する劇団のチケットを売っているらしい。

劇団員が自分のノルマのチケットを路上で販売する光景はこの界隈ではよく見かける。

「あなたも出演するのですか」

僕が尋ねると、彼女は満面の笑みで答える。

「ええ、出演していますよ。学生さんなら少し値引きするから買ってくれないかな。」

彼女はチケットをひらひらさせた。チケットの値段は四千円と書いてある。演劇に興味がないわけではないが、高いから今回はやめておこうと思ったときだった。

「それじゃあ。特別にもう1枚セットにして二枚四千円ならどうだ。彼女も誘って一緒に見てくれたら嬉しいな」

 劇団員の女性は絶妙なタイミングで値引き攻勢をかけてきた。

そして、「彼女も誘って」という言葉に僕の心は動く。考えてみたら僕はプライベートで山葉さんと出かけたことはない。

チケットを売りつけられたから一緒に見に行きませんかと言えば、山葉さんをナチュラルに誘う口実になりそうだと僕は頭の中で目まぐるしく考えを巡らせ、購入を決断した。

「二枚下さい」

僕は財布から千円札を四枚取り出しながら言う。

「ありがとうございます」

僕にチケットを手渡しながら彼女が浮かべた笑顔は、演劇を志しているだけあって華やかだった。

チケットを鞄にしまって立ち去ろうとして、振り返ると彼女はまだこちらを見ており、手を振っている。

取り立てて言うほどのことではないが、気分が軽くなった僕はカフェ青葉への道を急いだ。

僕がカフェ青葉に到着して仕事を始めようとすると、カウンターのスツールには雅俊とクラリンが座っている。

「あれ、君ら今日はバイトの日じゃないだろ」

僕が何気なく尋ねるとクラリンはカウンター席で腕組をして言い返す

「失礼やな、今日はお客として来ているの。実はこっちに引っ越そうかと思って物件の下見をしていて、遅くなったからここでご飯食べようかと思って来たんや」

雅俊もクラリンに便乗して無理な注文を始めた。

「スタッフ優待料金として五百円でご飯を食べさせてよ」

僕は雅俊の無茶振りに頭を抱えた。

「アルバイトの俺にそんな権限があるわけないだろ」

僕は最近調理を手伝うこともあるが、勝手に料理を作ってお金を取るなど論外に違いない。

「あら、いい勉強になるから五百円メニューを作って食べさせてあげなさいよ。その代わり使った材料と出来上がりの写真を後で見せて」

 僕の考えとは異なり、通りかかった細川さんはこともなげに告げると、客席に料理を運んでいく。

 雅俊は両手を上げて喜ぶが、僕は大きなため息をついた。

「なんで余計な仕事を増やしてくれるんだよ」

「いいだろ。オーナーが勉強になるから食べさせてあげなさいと言ったんだから」

クラリンが心配そうに成り行きを見ているのに気が付き、僕は仕方なく言った。

「そんな我が儘なことを言う客には俺がほとんど野菜だけの野菜炒め定食を作ってやる」

「いいとも、そいつを頂こう」

売り言葉に買い言葉で、僕は野菜炒め定食を作る羽目になってしまった。

しかし、まずい料理を作るのも沽券に関わるので、結局、豚バラ肉も使い、オイスターソースで味を調え、それなりの味にしてスープとライスを添えて定食風のセットにして雅俊達に出した。

「意外といけるじゃん」

美味しそうに食べる雅俊を見ると、調理した僕は悪くない気分だが、僕は二人の様子を見て、ふと気がついた。

「引っ越すというのは、ひょっとして2人でルームシェアするのかな」

雅俊の箸がとまった。図星のようだ。

「ウッチー。そんなんわかっていてもスルーする所でしょ。いやらしい奴やな」

クラリンは言葉とは裏腹に何だか嬉しそうで、僕は結局雅俊とクラリンのカップルにあてられている。

面白くないので僕は話題を変えることにした。

「週末から駅前のザ・オオイリで上演する劇団を知ってる?」

クラリンは演劇に興味があるので業界の動向について結構詳しい。

「ああ、劇団ミュウが上演する新作のΨの悲劇ね。私見たいからペアでチケット買ったよ」

「僕もさっき来る途中でペアのチケット買わされたんだよ」

「さては、チケットにかこつけて山葉さんを誘う気やな。ウッチーも隅に置けないね」

クラリンはニヤニヤしながら僕の背中をたたく。僕の目論見など彼女には見え透いているようだ。

その時、ご祈祷依頼のお客さんへの対応が終わった山葉さんがカウンターの中に現れた。

「あら、いらっしゃい。今日はお客さんとしてきてくれたのかな」

「こんばんは、近くまで来たので寄ってしまいました」

山葉さんに挨拶しながらクラリンが、僕に向かって目で合図する。演劇に誘えと促しているのだ。

僕がどう切り出そうかとまごまごしていると、クラリンはネタを振ってきた。

「そういえば、ウッチーは今度演劇見にいくんやてな」

「う、うん。劇団ミューの新作のΨの悲劇を見てみようかと思っている」

僕はとっさに先ほどのクラリンの言葉を借りてその場をごまかすが、山葉さんは疑いもせずに話に加わった。

「ほう、私もこの界隈の演劇を見たいと思っていたが、きっかけが無くて行ったことがないのだ」

「じ、実はぼく、チケット二枚持っているんですけど」

途中で言葉を切った僕を山葉さんがじっと見つめ、クラリンと雅俊も手を止めて僕を見守っている。

「良かったら一緒に行きませんか」

「いいよ。私も行きたいと思っていたところだし、店の都合が付いたら一緒に行こうか」

クラリンと雅俊が同時に息を吐き出した。

二人は息を詰めて成り行きを見守っていたのだ。

「それやったら、僕らが代わりにアルバイトに入るし、土曜日の初演を見に行ったらどうです」

雅俊がすかさずカフェ業務のフォローを申し出てくれたので、僕は心の中で「友よ、ありがとう」とつぶやく。

「そうだな。それじゃあ土曜日に行くことにしようか。あとで細川さんに相談しておくよ」

雅俊は思わず両手を挙げて喜んだが、そこを山葉さんが見とがめた。

「何をしているんだ雅俊君」

「いや別に。ところで、山葉さんは悪霊の類を浄霊する能力があるのですよね」

雅俊は話題をそらそうとしたのだが、山葉さんは目を伏せてしまった。

「私の能力は完全ではない。ウッチー協力も得て、儀式の誤りを正し、スキルアップを果たしたが、今でも霊を取り逃がす事がある」

「それなら今度から、浄霊に失敗したら、「てへペロ」をしながら「失敗しちゃったでしゅ」とみんなの前で言ってもらうのはどうです」

何を言い出すんだこいつはと思い、僕は慌てた。

僕は山葉さんが怒り出すのではないかと思い、雅俊の口をふさごうとしたが、僕の背後から山葉さんの声が聞こえた。

「失敗しちゃったでしゅ」

「あ、今見てへんかったし。もう一回やってください」

真っ先にリアクションしたのはクラリンだったが、クラリンは山葉さんにリプレイを求める始末だ。

「クラリン違うだろ」

ぼくは、クラリンを咎めながら山葉さんに問いかけた。

「一体いつ、何で失敗したんですか」

「今、依頼を受けて、祈祷をしていた件だ、依頼者に取り憑いていた霊を引き離すことには成功したが、明後日の方向にに送り出す前に逃げられてしまった」

彼女は唇をかんでいる。

「でも、そのうち行くべき所に行ってくれるのではないのですか」

「性質の悪い霊ならそう簡単にはいかないかもしれない。再び取り憑かれないように依頼者に私の思念が染みついた水晶玉を持たそうとしたら。心霊商法と勘違いしたらしくて逃げられる始末だ」

うまくいかないものだなと僕が考え込んでいると彼女は続けた。

「襟に二本ラインの入ったセーラー服に紺のネクタイ、足元は黒のローファーと白のソックス。ちょっと癖毛で肩ぐらいの長さの髪をした中学生の霊を見かけたらすぐに補導して連れて来てくれ」

どうすれば、僕が中学生の霊を見つけて補導できるというのだと内心では途方に暮れながら僕は答えた。

「見つけたらなんとか連れてきますよ」

山葉さんはうなずいた。雅俊たちは僕たちの会話を聞いてぽかんと口を開けていた。

「あんたら、ほんまに霊能者なんやな」

クラリンがぽつりとつぶやいた。

逃げた霊の件は、懸案事項として保留になったままだが、土曜日に僕と山葉さんは「Ψの悲劇」を見に行くことになった。

待ち合わせ場所にした下北沢駅前で待っていると、東側から歩いてくる彼女が見えた。

ヘアスタイルはいつものポニーテールではなく、ストレートの髪はサラサラと風になびいている。

濃紺のシャツワンピースにヒールの高いサンダル合わせているところは、シックだが、ちょっとおしゃれな雰囲気だ。

「遅れて申し訳ない。出がけに片付けに時間がかかってしまった」

「いいえ。全然待っていません。今来たばかりです」

僕は慌てて答えながら、彼女と待ち合わせしている自分を誇らしく感じている。

僕は山葉さんと共にチケットを買った演劇を上演している劇場まで向かった。

劇場のザ・オオイリは定員が八十名ほどのこじんまりしたサイズだが、客席はほぼ埋まっており人気があることを窺わせる。

僕達のチケットは、観客席の最前列の座席指定が付いていた。

「最前列の席なんてラッキーですね」

「そうだね。初めての観劇だからよく見える席なのはうれしいな」

僕達は、日ごろから駅の近辺で目にしていながら、チケットを買って見に行く機会がなかった演劇を楽しむ気分が高まっていた。

そして、開演して幕が上がると、「Ψの悲劇」が始まった。

高校を舞台に、ヒロインが殺人事件に巻き込まれるサスペンス劇で、ヒロインは僕にチケットを売りつけた劇団員で、パンフレットを見ると彼女の名は齋藤奈々子となっていた。

ヒロインだけあって、奈々子さんの演技にはメリハリがあり、感情がこもっている。

だが、僕は奈々子さんが登場する場面で、山葉さんが眉間にしわを寄せて舞台を見ている事に気がついた。

山葉さんがその表情を浮かべるときは、他の者には見えない霊を見ている場合が多い。

やがて、舞台はヒロインが真犯人のアリバイを崩して自白に追い込むシーンで幕を閉じた。

「僕はてっきり、校長が真犯人だと思っていました」

「いや私はやはり、担任教師が怪しいと思っていたよ」

僕と山葉さんが謎解きについて話しているとカーテンコールが始まり、出演者たちが舞台の袖に集まり始めた。

その時、大きな音とともに舞台の上から照明が落下した。

派手な音を立ててライトが砕け、ガラスの破片が周囲に飛び散る。

舞台中央に来ようとしていたヒロインの奈々子さんはかろうじて直撃を免れた。

「大丈夫ですか山葉さん」

僕は山葉さんが怪我をしていないか心配しして振り返る。自分の周辺にもガラスの破片が飛散するのを感じたからだ。

彼女は腕で破片を防ごうとしたらしく、二の腕から血がにじんでいた。

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