第13話 関ケ原後
僕は日本刀の束の部分をしっかり持って刀身を見た。
刀身には刃紋と呼ばれる模様があり、鋭くとがれた刃は妖しい光を放っている。
僕は刀身の輝きに魅入られたように目が離せなかったが、次の瞬間その光の中に吸い込まれ、気がつくと、僕は山の中を走っていた。
身につけているのは鎧のようだが黒色を基調とした簡素なもので、背中に刀を背負っていることが意識された。
ぼくは、立ち止まろうとしたが体の動きは止められない。
それどころか、傍らに異なる誰かの意思が存在し。僕は幽霊のように「彼」の行動を見守っているだけのようだ。
やがて僕の優柔不断な意識は強い意志を持った「彼」の思考に飲み込まれていった。
「亮吉、朝早くから何処に行く気じゃ」
背後から声をかけてきたのは同じ集落のお熊だった。里の者達の行動範囲を超えたと思って油断した途端にうるさい奴に見つかったものだ。
「鹿の罠を見回りに行くだけじゃ」
見え透いた嘘が通じる相手ではないが、とりあえず誤魔化そうとするのは人の常だ。
「嘘を申せ、戦装束をしておるではないか。新しい領主様が来て、取り締まりが厳しくなっておる故、軽率な真似をされたら里の者皆が迷惑を被るのじゃ。そのようなこともわからぬのか」
お熊の小うるさい小言が始まり、辟易した亮吉は本当のことを話すことにした。
「盟友を助けに行くのじゃ。本山郷の高石右馬之介が一揆を企てたために斬首に処されるとの噂を聞いておろう」
お熊の顔が見る間に青ざめた。
「そのようなことをしたら、そなたも無事では済まぬ。何故におぬしがそこまでせねばならぬのじゃ」
亮吉はお熊を説得できるとは思えないものの、自分の本当の思いを言うことにした。
「高石は本山の地で若一王子宮を奉ずる一族じゃ。わしは、太夫として修行をしている際に若一王子宮を訪ねて高石一族の世話になった」
右馬之助はつぶらな瞳をしたひょうきんな男で、別役の山奥から来たみすぼらしい身なりの自分を手厚くもてなしてくれたのだ。
「だからと言うて、自分も死ぬようなことをしなくても」
「誰が死ぬと申した。本山は伊予や讃岐の国境に近い。わしが手引きして逃がしてやるつもりなのじゃ」
土佐の山は奥深い。確たる勝算があるわけではないが、夜闇に紛れて人跡まれな奥山を逃げれば、大軍をもってしても追いきれない可能性は高い。
「日があるうちに本山郷に入りたいから、もう行くぞ。わしが出立したことを他言するでないぞ」
亮吉はお熊に言い捨てると、振り向きもせずに走り始めた。
「馬鹿」
お熊の声が追いかけてきた。
関ケ原の戦が終わり、長宗我部家に代わって土佐の国を治めることになった山之内家は、長宗我部を慕って恭順を拒む地元の武家や一領具足に過酷な弾圧を行っていた。
春先に、相撲大会を開くと騙し、集まった多数の有力な武士を長浜で磔形にしたのがその最たるものだ。
刑に処された者の遺族に呪詛を頼まれたことも一度ならずあり、依頼のままに呪詛の祈祷を行ったが、亮吉の能力をもってしても一国の領主を呪殺することは容易ではない。
高石右馬之介も事を起こしてしまった以上、ただでは済まないことはお熊の言う通りで、自分が身を投じたところで、事態が変わるものではないと思えた。
しかし、山中に立てこもって死を選ぶより生き延びるよう説得することは可能かもしれない。亮吉は右馬之助を助けたかったのだ
亮吉は集落から山続きの三嶺と呼ばれる山に登った。杣人しか立ち入らぬ深い山だ。
そこから尾根伝いに穴内の里まで抜け、瀬を探して吉野川を渡れば高石が住まう本山郷にたどり着ける。
亮吉は木も生えない高い山の笹原をかき分けながら、お熊に言われたことを考えていた。
三年ほど前の関ヶ原の戦いで世の趨勢は決していた。一領具足の次男坊ごときは戦でもなければ立身は望めない。
そんな焦りの念をお熊に見透かされた気がしてならなかった。
山の尾根は西に向かって低くなるにつれて深い森に覆われるようになった。
行く手には街道が峰を越える峠があった。亮吉は人目を避けるため、峠を前にして尾根を外れて急な斜面を音を立てずに歩く。
峠には藩が差し向けた監視の者も詰めているからだ。
亮吉は人気が無いのを見定めて山の斜面で街道を横切り再び尾根に戻った。
まるでイノシシやキツネが人を避けて動いているようだと思い、亮吉の顔に自虐的な微笑が浮かぶ。
亮吉は山仕事用の山刀を手にして、邪魔になる草木を薙ぎ払いながら進んだ。
山刀は草木を薙ぎ、獲物にとどめを刺すためのもので、自分用にあつらえたものだ。刀身は2尺もあり分厚く作ってある。
戦用の刀は背中に後生大事に背負っていた。腰に差すと藪を抜けるときに邪魔になるのだ。
亮吉はまだ日も高いうちに穴内の里までたどり着き、人目に付かずに川を渡れる場所を探した。
目の前の川は南から北に流れる穴内川で、少し北で西から流れてきた吉野川と合流している。
どうせなら合流点より下流で渡れば川を渡るのは1回で済むため、亮吉は合流点より下流で比較的浅い部分を探して川を渡ることにした。
川の底の石には川魚の鮎が餌にする藻が生えているが、それは、踏むと滑りやすい厄介な代物だ。
亮吉はどうにか吉野川を渡り切り、身支度を調えると再び獣の踏み後を頼りに西に向かおうとした。
しかし、深い森の中を歩いていると、突然二人の侍が現れて亮吉の前に立ちふさがった。
「人目を避けて川を渡るとは妖しき奴じゃ。名を名乗れ」
どうやら、こっそり川を渡ったつもりでも、往来を見張る侍にしっかり見られていたらしい。
「名乗るほどの者ではない。そこを通してくれぬか」
亮吉はとりあえず穏便に頼んでみたが、相手の侍が了承するわけもなかった。
「そうはいかぬ。番屋まで来てもらおうか」
格下に見える侍が口上している間、も
う一人は黙ってこちらを見ている。
「それでは、押し通ると言ったらどうする」
亮吉低い声でつぶやくのを聞いた瞬間、格上の武士が鯉口を切るのが見えた。
声高に名乗り合うような輩はさほど怖くないが、いきなり斬りつけてくる奴は腕に覚えがある。
格上の侍はこの場面で亮吉が最も遭遇したくない類の剣呑な輩だった。
亮吉は飛び退って間合いを取ると、二人に挟まれないように格下の侍の右に回り込もうとする。
「わしも名乗らぬがそれで良いな。名無し殿」
格上の侍はすらりと太刀を抜いて上段に構えた。そしてじりじりと間合いを詰めてくる。
亮吉はため息をつきたい気分だった。よりによって山之内家と共に戦国の世を戦い抜いた武芸者に遭遇してしまったに違いない。
亮吉は不意を突かれたために背中に背負った刀を抜くことすらできない。
背中から降ろして太刀を抜く前に袈裟がけに切られるのが落ちだった。
亮吉が手にしていた山刀を構えると侍の顔にあざけるような笑みが浮かんだ。
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