枯渇

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枯渇

 昭和55年、某日。


 柔らかな日差しが若草色の畳に注ぎ、藺草の艶々とした表面を優しく照らしている。

 開けた窓から吹き抜ける風は清らかで、机に向かっている男にかかる前髪を静かに揺らしていた。


 伏せた長い睫毛と鼻梁の伸びた鼻を見れば一目で見惚れてしまうような眉目の男は、時折何かを思い出す様に目を瞑りながらも手元を真剣に動かしていた。


 すると、突然男の透き通った黒目が襖を捉える。

 その途端に、こんこんと襖を叩く音がし


「失礼致します」


 という声の後に、髪を一つに束ねた女が襖の奥から顔をのぞかせた。

 女は緊張した面持ちで、男の方を見ずに頭を下げた。


「本日からこちらで働かせて頂きます、三村と申します。宜しくお願い致します」


 そう頭を下げ続ける女に男は一言だけ、よろしくね、と言った後微かに微笑んだ。

 顔を上げた女はその表情を見て思わず頬を染め、赤い顔を俯かせながら小声で


「あの、主にどんな仕事をすればよいでしょうか」


 と問うと、男は興味がなくなったように視線を女から自分の手元に向け

「掃除と料理をお願いします」とだけ言った。


 男は横顔も美しいが、どこか人を寄せない様な雰囲気を持っている。

 その雰囲気を女も感じ取り、無言で一つ頭を下げた後台所に向かった。



 それから数日経ち、女は環境に慣れつつあった。


 男は基本自分の部屋に籠もっており、ご飯時だけ居間にやってくる。

 いつも一口味噌汁を啜り、美味しいと口に出した後は無言で食べ続ける。

 何を考えているかは全く分からなかったが、恐らく変わり者なのだろうと女は思っていた。

 美しいのに勿体ない人だと。


 初めて家に訪れた際に「鍵は空いてるからいつでも勝手に入ってください」と言われ、男の不用心さに女は驚いた。

 また家の掃除を頼まれたが、男の家は殆ど汚れておらず、あまり使われてないであろう部屋に少し埃が被っている位だった。

 なぜ自分は家政婦として呼ばれたのだろうと女は初め困惑したが、今となっては特に不自由無く仕事ができる事に満足していた。


 男の事を追求しようとは思わなかったが、少しだけ気になるものがあった。

 男はいつも机の上で工作の様な物をしている。

 掃除だと言っても部屋に入るのを嫌がられる為、あまりじっくりとは見た事が無かったが、箱の様な物が置いてあるのを女は見た。

 ただ分かるのは男があの箱に異常な執着を持っているという点のみだった。


 そんなある日、珍しい事に女が男に部屋に呼ばれた。


「なんでしょう」

「明日用事で出かけるので、分からない事があったら今聞いてください」

「分からない事……」


 突然の問いに女は少し考える様に視線を彷徨わせると、ふと机の上の例の箱に目が留まった。


「わあ」


 思わず女が感嘆の声を漏らす。

 箱は天井と壁が一つ切り取られていて、中身が見えるようになっている。

 どこかの部屋を模したミニチュアの様で、精巧で丁寧な作りがとても美しかった。

 女の声に男は目を細めて笑った。


「あ……申し訳ありません。あまりにも綺麗だったもので」

「ありがとうございます、これは自信作なんです」

「普段から作っていらっしゃるんですか?」

「いえ、これが初めてですよ」


 男の言葉に女は首を傾げた。

 初めてなのに自信作だという点と、あまりにも普通の部屋を模している事に違和感を覚えたからだった。


「これは、どこの部屋ですか?この家ではないように見えますが……」


 女が控えめに覗き込むと男は愛おしむ様にミニチュアを眺めながら答えた。


「これは僕の友人の家を模しているんですよ」

「友人の方の……それは素敵ですね」

「そうでしょう。僕にとってその友人は宝物の様な存在なんです」


 僕は不幸な男でね、と珍しく饒舌に話す男は、女に向けてというよりも独り言の様に語りだした。


「僕はね、父と父の浮気相手との間に出来た子なんです。

 優しかった僕の母は、それを知ると気を病んで自殺してしまいました。

 愚かな父も母を追うように死に、五歳で僕は孤独になりました。

 嘘の幸せだったとしても、それまでは本当に幸せな日々を送っていたんです。


 それで祖父母に引き取られましたが、やはり浮気相手との子という事で蔑まれました。

 お金は十分にあったので必要最低限の生活はさせて貰っていましたが、愛情は微塵もなく、毎日寝付いた後居間の方から僕の悪口が聞こえてくるんです。

 でも、幼いから何を責められてるのかが分からなくて。

 それが辛くて辛くて、ずっと布団の中で縮こまっていました。


 そんな僕も大人になって、祖父母も亡くなり一人暮らしをするようになりました。

 近所の電気屋で働いていたんですが、何せ友人も家族もいないものだから雰囲気が暗くて誰も寄り付かないんです。

 当時の僕は不幸の匂いでもしそうな位で、仕事は誰よりも真面目だから置いて貰えましたけど本当だったらくびにされておかしくありませんでした。


 でもある日、新しく仲間が入ってきて。

 それがさっきの友人です。

 彼は陽気なやつで僕なんかにも毎日毎日話しかけてくるんです。

 初めは鬱陶しいなと思っていたんですが、彼の恋の話やくだらない話を聞いてると段々面白くなってきて。

 その内僕からも話しかけるようになって、仲良くなったんです。


 彼は本当にいい人で、この家も彼が紹介してくれたんです。

 彼のつてで手頃な価格で借りる事が出来て、僕一人では何も出来なかったのに彼が何でも助けてくれたんです。


 彼と飲み明かしたり、美味しい物を食べに行ったり、旅に行ったりして。

 彼といるとずっと笑っていられるんですよ。

 思い出も溢れそうな位あります。


 そんな彼がご飯時に、結婚すると僕に報告してくれたんです。

 彼が僕に紹介してくれた女の人は本当に美人で優しい方で、彼にお似合いでした。

 僕は二人の笑顔を見たその瞬間が本当に本当に幸せで、こうして形に残しているんです」


 男は言い終えると一つ息を吐いて、話しすぎましたねと申し訳なさそうに笑った。

 女は想像以上に重い男の過去を息を止めて聞いていたが、男にとって光となった友人との幸せな話を聞いてホッと息をついた。


 男は確かに不幸な境遇ではあったが、こうして確かな幸せを掴むことが出来たのだと。

 それが全てこのミニチュアに表れているのだと女は思った。


「素敵な方ですね、とても心が温まりました。

 きっとご友人もこの作品を見たら大喜びされるでしょうね」


 女が微笑んでそう言うと、男もまた微笑んでこう言った。


「そうですね。天国で逢えたらいいのですが。」

「え」


 女が固まると、男は窓の外を見つめながら言葉を紡ぎ出した。


「不幸というものは影の様に付き纏いますが、幸せは煙の様に匂いだけ残して消えてしまうんです。

 幸せが崩れるきっかけ何て些細で、でもその些細な解れが全てを壊してしまう。

 僕はそれを誰よりも知っています。

 でも普通に生きてきた人は、幸せが続くと信じて疑わないんです。

 当たり前の様に、その蜜をたらふく飲み込んでしまう。


 終わり良ければ全て良し、という言葉があるでしょう。

 僕はもう不幸になりたくないし、彼にもなってほしくない。

 この先訪れるかもしれない不幸を彼には味わってほしくないんです。


 だってもしかしたら、彼女が浮気をするかもしれない。

 それとも病気をして、先に逝ってしまうかもしれない。

 そしたら彼は、不幸のどん底に落ちてしまう。


 そのためにはあの幸福な瞬間で、僕は留めておかなきゃいけなかったんです。

 皆が縋っているのは神ではありません。

 死の影にしがみついているだけ、死しか人を救うことは出来ません。


 生き物が完璧に生きることは不可能です。

 どんなに善人でも、どんなに環境に恵まれていても、生きていれば苦難に見舞われます。

 僕は彼の苦しむ姿は見たくないんです。

 それこそ誰かが言ってた、美しい物は殺さなきゃいけないというように。


 本当は僕もあの時一緒に死にたかったけど、どうしてもこの作品を完成させなきゃいけないから死ねませんでした。


 僕はこの家で死のうと思うんです。

 彼がくれたこの家で、この作品を抱いて死にます。

 でも腐ってしまっては彼の元には行けないから、家政婦を雇いました。


 どうか僕の後始末をお願いしたいんです」


 女は蒼白で、握りしめた手は小刻みに震えていた。

 男はそれを見ると視線を逸らして、何事もなかったかの様に


「では、明日留守番を宜しくお願いします」


 と言った。そして思い出したように顔を上げ、


「ああ、そうだ。今日は茄子の味噌汁が飲みたいです」


 と笑いながら女に言うと、後ずさる様にして襖に近づいていた女は怯えた顔をして立ち止まった。

 そして何度も頷きながら部屋から出ると、駆け足で玄関に向かう音が聞こえた。

 そして玄関の戸を勢いよく閉める音が聞こえると、男は溜息を一つ吐いて


「仕方ない、仕方ないね」


 とくうに向かって呟いた。

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枯渇 saw @washi94

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