第44話 ファーストキス

 少しためらってから、俺は先生を引き寄せ、背中に両腕を回した。彼女をぎゅっと抱き寄せる。先生は、俺の首根っこにかじりつくようにしてきた。先生の甘い香りが俺の鼻腔を掠めて、胸をぎゅっと締め付けてくる。

 今、気持ちを全部ぶちまけてしまえばどうなるのだろう──泣きじゃくる先生の髪を撫でながら、幾度となく溢れ出そうになったその衝動を必死で抑える。

 本当はもう、苦しくて仕方なかった。俺ならそんな思いをさせない。先生を大事にし続ける。先生が心を開いてくれるまで待つ、だから俺と付き合ってくれ──そう伝えたい気持ちを、ただ抑えつける。

 今はだめだ。今それを伝えるのは──あまりに狡い。それこそ、断れない状況を作って告白したその先輩と同じように、なし崩しで先生と付き合う事になってしまう。

 それは嫌だった。先生のそんな過去を知ってしまったのなら……俺は、もっと先生としっかりと向き合わないといけない。これまで以上に、ただ自分の想いだけをぶつけるんじゃなくて。もっと彼女の事を考えられるようにならないといけない。

 先生がその先輩の事を思い出したくないし顔も合わせたくない、と言った理由が今にしてよくわかる。言いたくなくて当たり前だ。しかし、それにも関わらず、先生は俺の疑念を晴らす為だけに、自分の傷を穿り返してくれたのだ。俺が子供じみた怒りをぶちまけてしまったが為に、また無理をさせてしまったのである。


(本当に……俺は、どうしようもないガキだな)


 ただ、もうそれは仕方がない。俺は圧倒的に人生経験が不足していて、大学生に比べればガキなのはどうしようもない事実だ。

 俺がガキだと自覚していて、対等な存在になりたいと願うなら……まずは、彼女の事をとことん思いやって、考えなければならない。それこそが彼女と対等になる為に必要な条件だ。

 俺は先生に気付かれないように小さく溜め息を吐きながら、遠くから聞こえてくる祭りの音に意識を向けた。楽しそうな声や笑い声、祭りのBGM、それから客引きの声。それぞれが思い思いの祭りを過ごしていて、どこかその世界とこの先生と二人の場所が切り離されているかのように思えてくる。神社の裏の片隅ですすり泣く彼女の存在を感じながら、ただ俺は、彼女の髪を撫でて、抱き締めてやる事しかできなかった。


 ◇◇◇


 先生が泣き止んだのは、それから三〇分ほど経過した頃だった。じっとりとした暑い夏の夜に、屋外で抱き合っていて、きっと彼女の浴衣には俺の汗がしみついてしまっているだろう。


「先生」

「……なあに?」


 涙声で、彼女が首を傾げた。先生はまだ俺の腕の中にいてくれている。それが嬉しかった。


「来年入学したら、俺がその先輩ぶん殴りに行っていいですか?」


 そう訊くと、先生がくすっと笑った。


「今四年生だから、来年はもういないよ」

「なんだ、残念。就活できないくらい殴ってやろうかと思ったのに」

「そんな事したら湊くんが捕まっちゃう。それに、もう大学にもほとんど来てないみたいだから」


 私とも顔合わせてないよ、と先生は付け足した。

 そういう問題じゃないんだけどな、と思いつつも、先生がそう思っているのならそれで良いのか、とも思えた。


「こういった事情もあって……もともと苦手だった男性が、もっと苦手になってしまったのでした」


 先生は少し冗談っぽくそう言った。

 結局、彼女はその一件が原因でサークルを辞めた。聡美さんも激怒して一緒に辞めてくれたようだった。それ以降、先生はサークルには属さず、講義やゼミに精を出すキャンパスライフを過ごしているそうだ。


「もしかして、先生……俗に言う、便所飯とかしてるんですか?」

「怒るよ?」


 先生はげんこつでぽかりと俺を殴るふりをして、笑みを見せた。孤独なぼっちキャンパスライフを送っているわけではないそうだ。曰く、聡美さんの他にも、授業で仲良くなった友達やゼミ生とも仲良くしているらしく、それなりに楽しく過ごしているらしい。

 何にせよ、ようやく先生が笑ってくれたので、ほっと一息吐く。泣いている顔よりも、やっぱり彼女は笑っている方が素敵だった。


「先生ならモテるし、大丈夫でしょ。可愛いし……綺麗だから。きっと、優しい男性に出会えると思います」

「それなら……もう出会ってると思うんだけどな」


 先生が小さな声で何かを言った気がした。


「それってどういう──」


 俺が追及しようとすると、先生は俺の質問から逃れるように、顔を伏せて首元におでこを押し付けてきた。答えたくないらしい。


「えっと……じゃあ、質問を変えます。違ったら、違うって言ってくれていいですから」

「……なに?」

「もしかして、最初のご褒美キスが先生のファーストキスだったりしますか?」


 俺は疑問に思っていた事を口にした。

 そう……さっきの先生との会話を聞く限り、その結論にしか辿り着けないのだ。先生は先輩とキスすらしていない。それ以降、男性がますます苦手になっている。そうなると、あれ以外にキスをする機会があったのだろうか。もちろん、その後に彼氏ができていたのなら話は別だが、それならきっとその先輩との事も引きずっていないはずだ。

 どう答えるのかと黙って見守っていると……彼女は相変わらず俺の首に顔を埋めたまま、こくりと小さく頷いた。


(やっぱり……そうだったんだな)


 予想が的中して、嬉しい気持ちで満たされる反面、どうして俺にはできたんだ、という別の疑問が生まれる。

 俺と先生は、彼氏彼女ですらなくて、家庭教師と生徒で……年下で、高校生で、頼りなくて、ガキで。それなのに、付き合っていた先輩とはキスできなくて、どうして俺にはできたのだろう。

 しかも、好き同士のキスじゃなくて、ご褒美キスだ。人生初めてのキスを、苦手な男性とのキスを、どうして俺ならできたのか。はっきり言って、謎が謎を呼んだ状況だ。


「どうして、したんですか? あんなの、断ればよかったのに」


 俺がそう訊くと、先生は顔を上げて少しだけ不機嫌そうな顔を作って、もう一度こう言った。


「私にだって、話したくない事はあるんだよ?」

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