第7話 先生の初恋

「あ、そうだ。ちょっと話があるんだけど」


 母さんが出してくれていたクッキーを頬張っていると、先生が唐突に切り出した。


「え、話、って……!?」


 思わず身構えてしまう。来るのか。三日前のご褒美に対する叱責がこのタイミングで来るのか。


「うん。もう六月も半ばじゃない? だから、そろそろ志望校とか決めた方がいいかなって思って」

「あ、そっち……」

「そっち?」

「いえ、何でもないです」


 先生としての話かよ、とほっとする反面、少し残念に思う俺であった。


「もうどこか決めてたりする? 一応、こういうの持ってきたんだけど」


 先生は少し分厚めの本をカバンから取り出して、机に置いた。学校とかで見る、受験案内書だ。

 わざわざ俺の為にそんな重い本を持ってきてくれたなんて……何だか、それだけでぽわっと暖かい気持ちになってしまう。


「まだ決めてないんですけど……先生の学校も載ってます?」

「明大? 明大は、えっと……ここかな」


 言いながら、彼女はページをめくって、自分の大学の場所を開いた。


「へえ……色んな学部があるんですね。キャンパスもたくさんある」

「うん、明大も学部はたくさんあるよ。あと、学部によってはキャンパスも違うんだけど、文系の主要な学部はお茶の水にあるかな」


 二人で一冊の本を覗き込みながら話す。先生のシャンプーの香りがふわりとして、それだけでドキドキしてしまう。


「先生の教育学部もお茶の水のキャンパスなんですね。あれ、そういえば、先生って桜ヶ丘に住んでるんですよね?」

「うん。そうだよ。それがどうかした?」


 何となく近所に住んでいるんだろうな、と勝手に思っていたが、そこで少し疑問が浮かんだ。桜ヶ丘からお茶の水までは、決して近いわけではない。新宿まで出て乗り換えるから、多分四〇分から五〇分はかかるだろう。


「どうして桜ヶ丘なんですか? もっとお茶の水から近いところに住めばよかったのに」

「ああ……」


 そう訊くと、先生は少し懐かしむように目を細めて、卓上カレンダーへと視線を移した。

 

「桜ヶ丘には、ちょっとした想い出があって」

「想い出?」

「うん、小さな頃の想い出。だから、東京に進学したら桜ヶ丘に住もうって思ってたの」


 先生は昔桜ヶ丘に住んでいたけれど、親の転勤の都合で千葉県に引っ越してしまったそうだ。それで、大学進学を機にひとり暮らしを始めたのだという。実家から通う事もできなくはないが、通学時間の事を考えての事だそうだ。


(先生って、ひとり暮らしなんだ。桜ヶ丘に住んでるって事は……偶然会う事もある、んだよな)


 そんな事を考えつつ、ふとその想い出というのが気になった。

 わざわざ一人暮らしをするのに、昔住んでいた場所に越してくるという事は、余程大切な想い出なのではないだろうか。


「どんな想い出なんですか? その小さな頃の想い出って」

「ん? えっとね……」


 先生は視線を卓上カレンダーから机の上のテキストに移した。その時、先生はとても柔らかい表情をしていた。


「ヒーローみたいな男の子に助けられて、恋をした想い出」

「えっ、恋!?」


 聞き捨てならない言葉に思わず心臓を握られたような気分になった。先生は、その人を追って桜ヶ丘にわざわざ住んでいる、という事なのか……?


「って言っても、小学校三年生の頃の話だけどね」


 俺が顔を引き攣らせていたのに気付かず、先生が恥ずかしそうに付け足した。その補足に俺がどれほどほっとさせられたか、きっとこの無自覚天使は気付いていないだろう。


「先生の初恋ですか?」


 こっそりと安堵の息を吐いて、訊いた。昔の頃の想い出ならば、気にする必要もなさそうだ。


「うん。あの時は気付いてなかったと思うけど……初恋だったと思う。でも私、引っ越す前にお別れの挨拶できなくて」


 下を向いて、右手の人差し指を左手で弄びながら言う。


「どうして?」

「お別れ言うの、辛くって……逃げ出しちゃった」


 ひどいよね、と冗談っぽく付け加えた。お別れを結局言い出せずに『今度遊ぶ時はこっちから連絡する』と言って、そのまま引っ越してしまったらしい。

 今の年齢なら、千葉と東京程度の距離だと、スマホで連絡とって会える時に会えればいいや、と思えるけれど、小学生だとそれも厳しい。東京の西部にあるここ桜ヶ丘と千葉だと、地味に遠い。永遠の別れと感じる理由もわかる気がした。


「その人に会う為に桜ヶ丘に戻ってきた、とか?」

「まさか。何となくその頃の想い出が眩しくて、ここが特別な場所になってるだけだよ」


 家賃も安かったし、と先生は笑いながら付け足した。

 その笑顔があまりに可愛くて、思わず胸が締め付けられてしまった。もしその初恋相手がこの笑顔を見たら……きっと彼女を好きになるんだろうな、というのは何となくわかった。だから、余計に不安になってしまうのだ。


「もし……その人と再会できたら、どうしますか?」

「えっ? んー……どうだろう?」


 俺が訊くと、先生は言葉を詰まらせて、困ったような表情をしていた。

 それからまた指先を自分の手で弄って、視線を宙に泳がせる。


「私は気付くと思うけど、もう向こうは忘れちゃってるんじゃないかな? 私より小さかったし」


 小さい、という事は、先生より年下なのだろうか。或いは同い年くらいで体の小さい男の子だったのかもしれない。

 先生の初恋相手……少し羨ましいな、と思ってしまった。

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