第72話 シング

 東京のラジオの仕事が終わり、もう夜の十一時を過ぎて横浜へ向っていた。隣では圭が夜景を見ながら時折首がカクンと落ちるのがわかる。最近の彼女は昼間は学校へ行き、夕方からテレビやラジオ、そしてその日のうちにまた横浜へ帰る生活が続いている。若いとはいえ疲れも溜まることだろう。

 これを電車を使っていたら、と思うとゾッとする。車を買ってよかったな。そんなことを考えながら圭太はハンドルを握っていた。

 突然、隣で圭がムクッと体を起こすと前屈みにダッシュボードに両手をかけてフロントガラス越しに暗い空を見上げた。

「どうした?」

 圭はすぐには返事をせずに黙っていたが、しばらくして、

「最近、思いっきり空に向かって歌ってないなあって……」

と呟くように言う。確かにここのところずっと、アルバム発売のキャンペーンが続いていて、しゃべることばかりで歌うことが少なくなっていた。

「ああ、そうだな。実は俺もちょっとつまらないと思ってた」

「じゃあさ、どっか大声出せるところに寄り道なんてどう?」

 チラッと助手席を見ると、圭はこれからすごく楽しいことが起こるかもという顔で圭太を覗き込んでいる。

「そうしたいけど、流石にもう遅くないか」とちょっと苦笑いだ。

「ねっ、ちょっとだけ。ラジオが伸びたとか言って。お願い!」

「いや、でも圭のお父さん、なんかいつも怒ってるし……。俺のこと嫌いなんだろうかと思うくらい」

「気のせい、気のせい。それより、えっとねえ、ホンモクってところ行きたい」

 本牧? ああ、本牧埠頭か。ベイブリッジのあるとこな。

「じゃあ、本当にちょっとだけだぞ」

 やった、と声を出して圭はまた空を見上げた。


 もう深夜になろうかという時間にも関わらず、埠頭にはポツリポツリと間隔を置いて車が止まっている。ほとんどが大方デート中なのだろうと想像はできる。

 圭太は人目につかないようにそんな車と離れた街灯のない場所へ車を停車させた。一応世間から顔を知られるようになり、こんなことにも気を使うようになった。きっと圭もこんな息苦しい毎日に溜息をついているのかもしれない。

 躊躇いもせず圭がドアを開けて外に出たので、圭太も仕方なく外に出ると「うっ、寒い」と思わず声が漏れた。冷たい十一月の風が頬に突き刺さるようだ。

 圭がそのまま岸壁に向かって走って行くので、圭太は周りを気にしながら離れないように後ろをついて行く。歩く度に吐きだされる息が白い。

「なあ、本牧に何かあるのか」

 そう言えば、圭はベイブリッジに行きたいとは言わなかった。岸壁の端に立った圭は顔だけくるっと振り向くと、

「ニューヨークにいた時から、ずっとここに来たかったの」

と言い、また海に向かうと辺りを気にせずに歌い出した。

 本牧辺りのサムの店も——

 やけに横浜のネオンが似合うような渋いブルースだった。圭の隣に立って、圭太は黙って聞いていた。いつもよりハスキーがかった圭の声。

「誰の曲だ?」ワンコーラス歌い終わるのを待って聞く。

「レイニーウッドよ。本牧綺談って曲なの」

 ——レイニーウッド? へえ、柳ジョージさんか。

「雨に泣いている、とかなら聞いたことあるけど、今の歌は初めてだ。かっこいい曲だな。今度ちゃんと聴いてみよう」

 それにしても、この子はどんな音楽を聴いて育てば、しかもアメリカ育ちのはずなのに、なぜこんな俺も知らない曲を知ってるんだ。まだやっと十七になろうかってぐらいなのに——

 圭太はその取り合わせが妙におかしくて笑い出しそうだった。

「雨に泣いている、Weeping in the Rainね。日本語にちゃんと訳すと、本当は『雨の中で泣いてる』だけど」

 圭は「知らなかったでしょ」と言うような「したり顔」ですまして笑い、そして「雨に泣いている」を歌い出した。

 アカペラじゃもったいない。俺がクラプトンよりギターを泣かせてみせるのに——

 

 暗闇からパチパチと数人の拍手が聞こえた。音のする方に振り向くと、いつの間にか何組かのカップルが少し離れたところで圭の歌を聴いていたらしい。

「あの、まさかとは思うけど、もしかしてOJガールの……」

 その中の一人が恐る恐る聞いてきた。街灯の少ない場所なので、顔ははっきり見えないが、まだ若いカップルみたいだ。

「ああ——、はい。まあ」圭太が曖昧に返事をする。

「うわあ、マジっすか。俺、ファンなんです!」そう言いながら、彼が近寄ってきた。「あの、あ、握手、いいっすか」

 彼は右手を着ている服で拭いて、差し出してきた。圭と圭太は顔を見合わせ、頷くと、圭から彼と握手をした。

「こんなとこで会えるなんて、夢みたいです。新しいアルバム、もう予約してるんですよ」彼はそう言って、握手した右手をしげしげと眺め、「俺、もう手が洗えない」と呟いた。

 それからそこにいたカップルもみんな近寄ってきて、スマホやシャツにサインをして、ようやく二人は帰路についた。


「まあ、色々しんどいけど、もう少し頑張ろうか」

 圭太がそう言うと、「うん」と圭も笑った。少しはストレス発散できただろうか。


 圭の家に着き門の前で圭を下ろす。入れ替わりに恵を連れて帰ろうと圭太も車から降りると、圭が「今日はありがとう。おやすみ」と言い圭太にハグをした。「おやすみ。また明日な」そう言って圭太がふと上を見ると、二階から圭司——圭の父親——がすごい顔をして睨んでいた。やっべえ——、いや、何もしてないっすから。慌てて言い訳を呟いた。


 入れ替わりで酔っ払いの恵が玄関から出てきた。一応OJガールのマネージャーを名乗るくせに、今日などは自分に全てお任せなのが、どうも納得いかない圭太であった。

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