第71話 歌姫

 女将さんが訥々と話を続けた。


「いや、春にアメリカに渡るって挨拶にきてから、それっきり。ねえ、あんた、圭司の行き先って聞いてないよね」

 私が大声で呼んで厨房からあの人が出てきながら、「ああ、俺もアメリカとしか聞いてないな」ってかぶりを振ると「やっぱりそうですか——」って紗英ちゃんは少し残念そうな顔でね。

「キクちゃんには? キクちゃんなら、なんか知ってないかい?」

「菊池さんにはなんか聞きにくくって。こんなお腹みたら菊池さん、絶対大騒ぎするでしょ?」紗英ちゃんがクスッと笑ってさ。

「聞きにくいんだけどさ、もしかしてお腹の子の父親って……」

 私だって、言わなくてもだいたいはわかるんだけどさ、一応、ね。

「まあ、それは今更どうでもいいんだけど」って紗英ちゃん、本当にどうでもいいやって顔して肩をすくめるからさ。

「えっ? だって圭司を探してんでしょ?」

「うーん、もう私は無理。だってもう顔見るだけで腹たつもん。相手の嫌なとこばっかり気になるようじゃさ」って下向いちゃって。

「でも、どうすんの。これから」

「もちろん、一人で育てるつもり」

「子育てってそんな簡単なもんじゃないでしょ」

「でも、子供の前でケンカばっかりしてる親って最低でしょ。それくらいなら一人でなんとか頑張るつもりだから」

 男の出る幕じゃないなって、うちの人も諦めてさ。

「じゃあ、なんで圭司を探してたの?」

「一度だけ、会ってさ、子供見せつけて言ってやりたいの。この子が将来大きくなってあんたに会ってみたいって言ったときにさ。会ってみたらこの子が悲しむような、くっだらない生活してたら、絶対私が許さないよって。それだけは、どうしてもそれだけは言っときたいって——」

 ポロポロいっぱい涙流して。止まらなくなって。うちの人はオロオロしてるし、ほんっとこんなとき、男って役に立ちはしない。



 ——口が乾ききって喉がカラカラだ。



 さんざん泣いて、泣いて、そして泣き止んだと思ったら今度は笑ってさ。

「あー、スッキリした」って。

 それだけ言って、「じゃあ、帰ります」って席を立ってね。

 帰り際に私が、「その子、いつ生まれるの」って聞いたら、そしたらさ、すごくうれしそうな顔して振り向いてさあ。

「私の大好きなアムロちゃんと同じ誕生日になるかも」ってVサインまで作って店から出ってたよ。アムロちゃんって、歌手のあの子だろ? 歌姫とかなんとか。

 そして紗英ちゃんはそれっきり——


 うちの人も流石に心配してさあ。キクちゃんには一応あんたの行き先知らないかって聞いてみたけど、知らないって言われちゃったらしいよ。でも、本人がいいって言うのを、勝手にあんたの実家に言うわけにもいかないかって。あれからずっと、もしあんたが帰ってきたら、あんたが帰ってきたらって随分気に病んでたんだよ?

 それから二度と紗英ちゃんも顔を見せなかったから、どうなったのかね。あんた、本当に紗英ちゃんとは会ったことないかい? もしかして、アメリカまで紗英ちゃん、会いにこなかったかい?



 女将さんから別れ際、形見だと思って持ってって、蓮さんの使ってた前掛けを持たされた。綺麗に洗濯してビニールに入れてあった。


 帰りの電車に揺られながら、圭司は帰ってきたときと同じようにボーッと景色を眺め、女将さんの話をなん度も思い返した。

 こんな大事なこと、知らない、でいいわけはない。いいはずがない。


 いいか。紗英ちゃんを探せ——


 何かに掴まっていなければそのまま電車の床にへたり込みそうな気分になりながら、必死に蓮さんの最後の言葉を思い出していた。


 俺のせいだ——

 日本にいるのは後三日。俺は、いったい何をしたらいい——


  ⌘


 家に帰り着く。圭はまだ帰ってなかった。学校が終わってすぐ東京へ向かい、ラジオ番組で新しいアルバムの宣伝があったらしい。

 正直、よかったと思う。今、気持ちが動揺し過ぎていて、せめてあの子が帰ってくるまでに少し落ち着ければいいが、と思う。

 ステラは史江やまた遊びにきた圭太の姉と楽しそうに話をしている。圭司が帰ったことに気がつくと、「おかえり」と手を振って、アルバムだろうか、熱心に見ながらまた笑っていた。彼女らは圭司が今夜は恩人の葬式があったことを知っている。自分が元気がなくても何も思わないだろう。

 一人で部屋に上がり、喪服を脱いでハンガーに掛け、ささっと埃を取った。二階へ上がる前に冷蔵庫から出した缶ビールを開けたとき、路上でさあっと明かりが動いて玄関の前に車が止まるのが見えた。圭が帰ってきたらしい。

 しゃんとしなければ。圭司は自分の両頬を両手のひらでバシッと叩いた。


 ——後三日だ。

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