第69話 十二月八日

 新聞には「縮刷版」と呼ばれるものがある。毎日販売している新聞を年度ごとに一冊の本にしたもので、過去の記事はこれで見ることができる。もちろん、最近はインターネットの普及もあり、ネット上でも事件などの記事は見ることは可能ではあるが、その際に必要な「検索ワード」をちゃんと絞り込まないと、それこそ膨大な記事が画面上に溢れ出し、目的のものを探し出すことは困難となる。

 その点、縮刷版の新聞は目的とする日付の記事を一覧で見ることができる。インターネットが「言葉」や「文字」からピンポイントで目的の記事を探すことに対して、新聞は逆に「何があったかわからない」目的の日にちの事柄を俯瞰的に閲覧できるということになる。

 実際、圭司もアメリカにいるときに幾度となくネットによる検索を試みたことがあったが、ニューヨークで不明の女性を探すのに何を手がかりに検索すればいいのか途方に暮れた。そもそも行方不明なのかどうかさえもわからない女性を探すのは——


「ないな」つい口に出して呟いていた。

 圭司は毎朝新聞、ステラは英字新聞「ニュースジャパン」のそれぞれの縮刷版を十二月一日から隅々まで読んでいた。生まれてこのかた、ここまで新聞の全ページを読み込んだことはない。老眼が始まった目には辛い作業だった。

「今何日まで読んだ?」ステラが聞く。「私は十二月八日を読んでいるところ」

「同じだな。十二月八日だよ」

 圭司はそう言った後、十二月八日はジョン・レノンの命日であることを思い出した。一九八〇年十二月八日、ニューヨークにある自宅前で元ビートルズのジョン・レノンがファンを名乗る男に射殺されたのだ。

 ビートルズを愛する世界中のファンたちが泣いた——当時高校生だった姉の史江もその一人——この日は、日本にとっては第二次世界大戦が始まった日でもあった。

 この日付の日本の新聞は、ジョン・レノンの命日であることには触れてはいなかった。音楽を愛する者にとってジョンは世界の音楽シーンを変えてみせた偉大なる音楽家の一人ではあるが、新聞というメディアにとってはあまり関心はないということか。確かに、多くの人命を失った大戦の記憶を失わないようにすることの方が、マスコミとしての使命なのかもしれないが。

 そんなことを思いながら、ふと何かが記憶の端に引っ掛かった。あまり気にしたことはなかったが、考えてみれば圭がストロベリーハウスに預けられた年に圭司はアメリカに渡っていた。その年の十二月八日のことだ。命日のためジョン・レノン事件のあったダコタハウスに圭司も追悼するため向かった日、何かニューヨークで大きな事件があったような——


 気になって何度も隅々まで新聞を読み直したが、圭司の記憶の琴線に触れるような事件は掲載されていない。記憶違いか、別の年の話と勘違いしたか。

「うわあ、ニューヨークでこんな事件が——」突然ステラが口を開いた。

「なんの事件があった?」

 ページを捲る手を止めて圭司がステラを見ると、ステラが読んでいた英字新聞の縮刷版を圭司に見えるようにずらした。

「私がまだテネシーにいた頃ね」

 そうやって見せたのは、ニューヨークの地下鉄で銃の乱射事件の記事だった。新聞の日付は十二月十日となっている。

 

 十二月八日、ニューヨークの地下鉄で銃の乱射事件があった。犯人はジョン・レノンのファンであり、マーク・チャプマンの手により理不尽に亡くなったジョンの魂を鎮めるために——。十数名の人が犠牲になった、未だに犯人の意図が理解不能な事件だった。

 圭司も当時やっと覚えた地下鉄に乗ってダコタハウスへ向かった。もう一本遅い電車だったら、ひょっとしたら巻き込まれていたかもしれないと、後から事件のことを聞いてゾッとした。

 なんて勘違いをしていたんだろう。十二月八日のニューヨークの出来事が日本の新聞で報道されるなら十日付になるのは当たり前じゃないか。

 慌てて十二月十日のページを広げてみた。ニューヨークの事件ではあるが日本の新聞にも、そこそこ大きく事件を取り扱っていた。

 アメリカの病巣——

 銃社会であるアメリカで事件があるたび繰り返される、もはや不毛な議論しか生まないニュースである。そして、記事の一番最後には「犠牲者に日本人がいるかは、現在大使館において調査中である」と記されていた。


 この事件、あれからどうなったんだろう。アメリカで新聞を購読していない圭司は、この続報については知らなかった。だが、残念なことに数日後の新聞まで見たが、ちょうどアメリカは大統領選挙の真っ最中であり、アメリカに関する記事はそれ一色となっていて、なかなか見つからない。

 そこへポケットの電話が震えた。誠からだった。

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