第七話 シャバに別れを 遠山 紗月
駅のトイレに入った。親子が居た。母親が赤いポーチを肩にかけた十歳くらいの娘の髪を引っ張っていた。私に背を向けている母親は、見られている事に気づかず淡々と娘に語りかけている。
「どうして漏らしたの?」
「ごめんなさい」
「あともう少しだったのに。あともう少しで間に合ったのに」
「ごめんなさい」
「貴方は腐った精子から産まれた出来損ないのクズよ」
「精子ってなぁに?」
「もうやだ。本当にやだ。なんで私が小便もらしたガキの世話なんてしなきゃいけないの?」
「ごめんなさい」
「産まなきゃよかった」
「うん」
「アンタ」
「うん」
「気持ち悪いわ」
母親は娘を思い切り蹴飛ばし、個室の中に入った。
女の子は何か訴えるような悲しげな目つきで私を見つめてきた。
どうして?
そんなセリフが聞こえてきそうだった。
毎日あんな調子なんだろう。
家に帰ったら何をされるんだろうか。
女の子が口を開いた。
「産まなきゃよかったんだってさ」
「ん」
「じゃあ、なんで産んだのかな?」
私は女の子の頭を撫でた。
「コンドーム付け忘れて、妊娠して、中絶するのが怖かったから。多分」
「ふぅん」
女の子の腕を掴み、私は言った。
「私の家に来る?」
女の子は頷いた。
「少しでも良くなるなら」
「知らない人に付いてっちゃダメって、お母さんに言われなかった?」
「大丈夫。言われてない」
「そっか。言われてないなら、仕方ないね」
高校を卒業して叔母さんの家を出た。叔母さんは事あるごとに私に暴力をふるった。特に援交での収入が少ない時はいつも以上に殴られ、蹴られた。六年間よく耐えてきたと思う。
今は放火事件で全焼したものの、空き家を改装して新装オープンしたイノンチプでバイトをしている。月の収入は約十ニ万円。家賃が安い札幌に住んでるとはいえ、十二万円での一人暮らしは相当キツイ。寝て食うだけの生活が精一杯。援交で稼いだ貯金はとっくのとうに底を尽きた。でもこれ以上必死こいて働く気はなかった。援交もやめた。
女の子の名前は桜井未来というらしい。なかなか皮肉が効いた名前だった。年は十一歳。
未来ちゃんのためにハーゲンダッツのアイスを買ってあげた。未来ちゃんはアイスを平らげるとゲーム機に注目した。お母さんにゲーム機をねだったら顔面をぶん殴られた事があるらしい。私はぷよぷよの接待プレイで未来ちゃんを喜ばせた。
ゲームをしている間に夕方になった。私は未来ちゃんを部屋に残してコンビニ弁当を買いに行った。いつもは安いものを買うけど、今日は六百八十円の焼き肉弁当とジュースを買った。
部屋に戻ると、未来ちゃんは部屋を漁る事なく、おとなしくゲームをしながら私の帰りを待っていた。
「ご飯、買ってきたよ」
焼き肉弁当を貪り食う未来ちゃんを眺めながら、私は考え込んだ。
これから、どうしよう。
とにかく養護施設? みたいな所に送るべきだろうけど、しかし。
「ちょっと体見せてくれる?」
「いいよ」
未来ちゃんの服を脱がして体の傷を確認してみた。背中とお腹に擦り傷や小さな痣があった。
「この傷、どうしたの?」
「お母さんにやられた」
「うーん。なるほど」
この程度の傷では虐待の証拠にならない。母親が「転んだんです」とか適当な嘘を言えばまかり通ってしまう。
「お母さんにいつもどんな事言われてる?」
「クソ野郎とか、呪われた子とか、デスノートがあったら真っ先に殺してるとか、産みたくなかったとか、何も出来ない間抜けとか、将来絶対ビッチになるとか」
「意味、分かる?」
「よく分からない」
「ご飯はちゃんと食べてる?」
未来ちゃんはガリガリだった。骨が歩いているような子だった。
「お米と味噌汁、たまにくれる。でも何もくれない日もある」
「お父さんは?」
「いない」
「お母さんはお仕事してるの?」
「んー。分かんない。いつもお家にいる」
じゃあ生活保護でも受けてるのかな?
「学校は?」
「行ってるけど、高校には行かせないって言われてる。お金かかるから」
高校まで行かせてくれた叔母さんが善人に思えてきた。
「文房具とか、学校で必要な物はどうしてるの?」
「友達がくれる」
「人生、楽しい?」
「大変」
「お母さんの事、殺したいと思う?」
「出来れば」
暴力は受けていないけど、言葉の暴力は相当に受けている。ご飯はまともに与えられない。働きもせず生活保護を受けている母親に経済力はない。高校に行ける見込みはゼロ。学校で必要な物さえ与えられていない。
これが虐待と言わず、なんという。少なくとも大人に保護されるべき権利を、この子は持っている。でもその権利は捨てられ、ひどい扱いを受ける日々。
でもこれだけの条件で養護施設は未来ちゃんを受け入れてくれるのだろうか? ちょっと、キツイかも。
私は台所からコップを二つ持ってきてオレンジジュースを注いだ。未来ちゃんは一気飲み。私は一口飲んだ。
「紗月お姉ちゃん、お母さんの事、殺してくれるの?」
「話が飛躍したわね」
「私、お母さん、殺せるよ」
未来ちゃんは赤いポーチの中からナイフを取り出した。私は漫画のようにジュースを吹き出した。
「何それ!?」
「盗んだ」
「は?」
「私、よくお母さんに万引きさせられてるの。惣菜とか、お弁当とか」
「それで……ナイフも?」
「この前スーパーでお寿司盗んだ。その時、ついでに」
決定的だった。母親に万引きをやらされてるなら、十分に養護施設に入る資格があるだろう。それにいま未来ちゃんは殺せるといった。十歳の女の子からこんな言葉が簡単に出てくるのなら、施設の人間だって放っておかないだろう。
「未来ちゃん。今から私の言う事、よく聞いてね」
「うん」
「貴方のお母さんは、お母さんの資格を持っていない」
「うん」
「貴方は施設に保護されるべきだし、これ以上苦痛を味わう必要はない」
「うん」
「だから、私は未来ちゃんを養護施設に連れて行く」
「養護学級?」
「いや違う。えーと……。私もよく分かんないけど、未来ちゃんみたいにね、お母さんにいじめられてる子どもを守ってくれる施設があるの」
「私はその施設って所で住むの?」
「そうだよ」
「じゃあ、もうお母さんにいじめられなくて済むの?」
「そうだよ」
未来ちゃんは両手でコップを握りしめながら、言った。
「そこでは、お小遣いもらえるのかな?」
「いや、知らないけど……」
ふと思った。施設に入って身の安全が保証されても、他の子達のように贅沢は出来ないだろう。規律正しい集団生活の中で生きていくことになる。両親に守られ、甘やかされ、ぬくぬく生きてるガキは沢山いるけど、この子はぬくぬく出来ない。
それは、可哀想だ。
「未来ちゃん。施設に入ったら色々と大変な事があると思う」
「うん」
「だからお姉ちゃんがね、施設に入る前に、色々な所に連れて行ってあげる」
「本当!?」
「うん。遊園地でも、どこでも」
未来ちゃんは私に抱きついてきた。
私はこの子を守ろうと誓った。施設に入っても毎日のように会いに行こう。私は一人でこんな大きな子どもを育てられる人間ではないけど、影で支える事は出来る。
私のお腹は一時満たされ、そして空っぽになった。
ゲロ吐きそうになる気色悪い事実が、少しだけ見えなくなった気がした。
そうだ、もし私が中一の時に子供を産んでいたら、その子はいま何歳だろう? 私はあと数日で二十三歳になる。つまり、そう、十一歳のはず。
ますます、現実がどこかにぶっ飛んでいく気がした。
遊園地、ゲーセン、映画館、カフェ、スイーツ屋、雑貨屋、オモチャ屋、色々な所に連れて行き、色々な物を買ってあげた。もちろん全ての場所でクレジットカードを使った。これは久しぶりに援交をして口座の残額を増やす必要があるだろう。
未来ちゃんは二十四時間フルタイムで爆発的に喜んでいた。何にでも興味を示し、はしゃぎ、走り回った。未来ちゃんを見ていると私も楽しい気持ちになった。幸せだった。
未来ちゃんは良い子だった。私がバイトに行っている時はおとなしく家で待っていてくれる。だから安心して仕事が出来た。虐待されてるのにも関わらずあんなに良い子でいる事が信じられないくらいだった。
夜の九時。仕事帰りに自転車を飛ばしてスーパーへ寄った。未来ちゃんに手作り料理を振る舞ってやろうと思った。でも未来ちゃんにお金を使いすぎたせいで、安物の食材しか買えなかった。
店を出た時、駐車場で可奈子を見かけた。可奈子はバイクに寄りかかりながらタバコを吸っていた。頭にはごついヘッドホンを付けていた。私は可奈子のブログを毎日見ているから知っている。あれはデンマーク製で、二十万円のヘッドホン。可奈子は高給取りなのだ。
店の方からカッコイイ男が近づいてきた。二人は親しげに何か会話をして、キスをした。男がバイクにまたがり、可奈子が後ろに乗って男の腰にしがみついた。バイクは勢い良く走りだした。こっちに近づいてくる。
目の前を通り過ぎた。可奈子は、私に気が付かなかった。
片手にはスーパーの袋。料理を振る舞う相手は、見ず知らずの子供。
可奈子があぁやって楽しい人生を送っている裏で、私は何をしている?
笑っちゃうよね。
おままごと。
家に帰って料理を作り、未来ちゃんに食べさせた。未来ちゃんは変な箸の持ち方でガツガツと食べた。美味しい? って聞いたら「口に入る物はなんでも美味しい!」と言った。貧乏なアフリカ人も納得してくれそうな答えだった。
スマホがぶるぶると震えた。メールが一件。「結婚しました」という件名。私はメールを削除した。おままごとの邪魔すんな。
未来ちゃんは私の料理を完食した。その後お風呂に入れてやり、二人で映画を観た。またスマホが震えた。可奈子からメールが来ていた。
『誕生日おめでとう。今どこで何してる。飯ちゃんと食ってるか』
そうか。私はこのセリフを誰かに言いたかったのか。
飯、ちゃんと食ってるか。大人のセリフだ。
みんな色々ありながらも立派な大人になった。私はまだガキだった。子供の頃からクズだった。理不尽な不幸は沢山あった。でもそれは言い訳にはならない。藤田さんは昔言っていた。
『クズってのはどこにでもいるもんだけどねぇ、難しい言葉を使ったり、いちいち哲学的な解釈を自分に与える必要はないのさ。答えは簡単よ。クズはクズ。それ以上でも以下でもない。クズが言い訳して許されると思ったら大間違いさ』
似たような言い回しは沢山聞いた。でも難しい言葉を使ったり、いちいち哲学的な解釈を自分に与える必要はない、という文句は一貫していた。
そう、私は、ただのクズ。深い理由も哲学的な解釈も必要ない。私はクズですの一言だけで遠山紗月という人間を説明できる。
お姉ちゃんは突き飛ばされた直後、悲鳴をあげた。
いやだ。助けて。
それがお姉ちゃんの、最後の言葉。
私は多分、永遠にクズを突き通す。
「ねぇ未来ちゃん。まだどこか行きたい所ある?」
「舞台観に行きたい。私ね、あのね、いつか役者になりたいの」
「役者か。良いね。私も役者目指せば良かったかも」
観劇が最後のおままごとになる。劇を観終わった後、私は未来ちゃんを施設に連れて行く。そして私はまた、一人になる。
劇場の前で全てが終わった。私と未来ちゃんは手を繋いで歩いていた。この舞台かなり人気らしいよ楽しみだねとか言って、二人ではしゃいでた。後ろから誰かに肩を叩かれた。未来ちゃんの母親だった。逃げようとしたけど、母親はすぐに未来ちゃんの腕を引っ張り抱きしめた。
「誘拐?」
私は黙っていた。母親は警察に電話した。すぐに警察がやってきた。母親が事情を話した。確かに立派な誘拐だった。
私は未来ちゃんが母親にされていた事を全て話した。警察官は笑った。
「君は頭がおかしいのか?」
母親は未来ちゃんの手を繋いでいた。未来ちゃんは泣いていた。
私は豪快に腹を抱えて笑った。
「いやーすみません。可愛い子だったので、つい連れ回しちゃいました」
可哀想な女の子を匿って、遊ばせていました。そう説明するよりも、自然で合理的と思える説明だった。私も少しは社会に順応し、大人になれただろうか。
私は刑務所に入った。ついに前科者になった。
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