第59話

「……」

 整備室のすぐ側にある手洗い場で、トキヤは一人、手を洗っていた。

 その理由は手に付着した生体クリームを洗い落とすためなのだが、当初トキヤは生体クリームは安全で人間の皮膚に定着しないから、自然に落ちる保湿剤みたいなものである。と、間違ってはいない分析をし、両手にベッタリと生体クリームを付けたまま自室に戻ろうとしたのだが。

「何も汚くないんだがな……」

 絶対に、絶対に、流水で洗い落としてから部屋に戻って欲しい。と、シオンに懇願されたため、トキヤは必要ないと思いつつも、こうして両手をしっかり洗っているのであった。

「よし、こんなところか」

 そして、手から完全に生体クリームが落ちたことを確認したトキヤは、水を止め、濡れた手をハンカチで拭きながら、何となく整備室の方を眺め。

 ……そういえば、バルのやつ、珍しく絡んでこなかったな。

 まだ整備室の中にいる三人のJDの中で一番の問題児であるバルのことを思った。

 ……シオンに生体クリームを塗っている最中はやけに静かだったし、部屋を出るときなんて話し掛けてくるどころか。

「……視線さえ合わそうとしなかったな」

 自分が部屋を出る際にバルが視線を合わさないように自然に見える動作でシオンに近づいていった姿をトキヤは思い返し。

「……」

 その時にチラリと見たバルの横顔から、バルが何を考えてそういった行動を取ったのかを推測することにした。

 ……悪戯を考えている表情ではなかったな。どちらかといえば調子が悪い、というような感じだったが、あの自然な動作が出来るってことは身体に問題はない筈だ。そうなると人格データの不調の線が強いが、メンタルは整っているように思えた。つまり、心のコントロールが取れていないのではなく……。

「……何かを悩んでいるのか? バル……」

 そして、丁度手を拭き終わったタイミングで、バルが何か悩み事を抱えているのではないかという考えに至ったトキヤは。

「――――」

 少し、バルと話をしよう、とトキヤは自室に行くのではなく整備室に戻るために足を進めたのだが……。

「……今日はよく鳴るな」

 身に付けていたデバイスからコール音が鳴り響き、トキヤは足を止め、デバイスに視線を向けた。

「あ、レタさんか」

 そして、そこに表示された名前が技師仲間のレタであったため、トキヤはすぐにデバイスを通話状態にした。

「はい。どうかしましたかレタさん」

 きっと、ライズの武器について何か進展があったのだろう。というような事を想像しながらトキヤは軽い気持ちでレタとの通話を始め。

 

『羽野君。――――グリージョから呼び出しがきたわ。すぐに司令室に向かってくれる?』


 想像もしていなかったレタのその言葉を聞き、トキヤは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。

「……呼び出されたのは、俺とレタさんだけですか?」 

『ええ。伝達内容に秘匿事項があるから、傍受されないように司令室の機器を使えとのことよ。ま、碌な話じゃないってことは想像に難くないわね』

「……そうですね」 

 すぐに行きます。と、トキヤは落ち着いた口調でレタに返事をし、通話を終わらせ。 

「――――くそっ……!」

 トキヤは基地の壁に自分の腕を強く叩きつけた。

「……」 

 敵前線基地の略奪をトキヤ達に命じたグリージョが再びコンタクトを取ってきた。これが意味することは一つしか考えられなかった。

「……始まるのか。俺たちの基地を取り戻す作戦が」

 他に何か思惑があったにせよ、この敵前線基地を制圧したのは奪われた基地を取り戻すための作戦だったのだ。だから、次に行われる作戦は当然基地奪還作戦だろうとトキヤは考えていた。

「……っ!」

 だが、想定よりもだいぶ早い。と、トキヤは思った。敵の大軍が待ち構えている基地に乗り込むのだから、首都の守りを維持しつつ、戦力を揃えるにはまだまだ時間が掛かると考えていたのだが、上の人間達が予想よりもかなり早く動き始めたことにトキヤは驚きを隠せなかった。

 ……上は巧遅よりも拙速を取ったか。……くそっ。鋼の獅子の改良も、シオン達の人格データを統合知能ライリスに納れることも。

 まだ何も出来ていない……! と、トキヤは己の甘い予測と行動の遅さを呪い、奥歯を強く噛み締めたが。

「――――」 

 それでも、その瞳は絶望に染まっていなかった。

 ……だが、まだだ。まだ、俺にはやれることがある。前の作戦の時、グリージョは基地奪還作戦を行うには俺たちの戦力だけでは無理だと言っていた。つまり、次の作戦は、他の基地の部隊との合同作戦になると推測できる。だからせめて、うちの連中が後方支援になれるよう、この作戦会議、うまく立ち回ってみせる。

 そして、トキヤは自分の仲間達が生き残れる可能性を1%でも増やすために、頭を必死に働かせながら、司令室に向かって足を進めた。

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