第176話 比叡山
天正十五年 夏 飯盛山 伊藤元景
「ふぅ。久しぶりの飯盛山はやっぱり暑いわね。三日前までは勿来だったから、尚のことにこの暑さは嫌になるわね!」
ぐっいっ。
ぐいっ。
私の補佐ということで、勿来から付いてきてくれた椿と一緒に、冷えた摂州さいだぁを喉に流し込む。
さいだぁってのは、このしゅわしゅわが長い間苦手だったんだけど、今回の勿来での休養期間に飲んだ柑橘さいだぁの味に目覚めて以降、どうにもこの感覚が大好きになっちゃったわね。
太郎丸からは「飲み過ぎは駄目!」って言われちゃったから、今では十日に一本で我慢をしているけれども、これはどうにも手放せなくなった逸品ね。
会津の山奥で見つかったあぶく泉と同じものが北摂津の山裾で見つかったと聞いた信長が、太郎丸の命令で長尾家の家臣と協議して商いを始めたとか言ってたわね。
実際に動いたのは、秀吉と……長尾家家臣の浅井殿に仕える誰それとか言ってたかしらね。
とにかく!そのおかげで、今日も冷たいさいだぁが飯盛山でも飲めるというのは有難い話よ。
「……いつの間にやら、母上も炭酸好きになられたようで……確か、以前はその泡が喉に引っかかって気持ち悪いと仰せだっと思いますが?」
「そうね、確かに前までは苦手だったのだけれど、勿来で飲んだ柑橘さいだぁが美味しくてね。それ以来さいだぁの虜よ」
「左様ですか……しかし、先ほど母上は三日前と?船でそこまで早く?」
そうね、確かに乗ってきた私も驚いたんだから、話を聞いただけの仁王丸は私たち以上に驚くわよね。
「ええ、嘘偽りなく、私たちは三日前の明け方に勿来、湯本の水軍基地を出たわ。勿来城から飯盛山城までで丁度三日、昨日は堺屋敷に一泊したから、堺の沖に到着するまでの時間は丸二日と少々ってところかしらね」
「……それはなんとも。信長殿もそのような快速船を開発なされましたか……今までは、確かに途中で数か所寄港しておりますが、約十日ほどかけて勿来と堺は結ばれていたと思っておりましたが、直通の快速船ではそこまでの速度を……」
確かに、そう考えると驚きの早さよね。
「そうはいっても、私が今回乗ってきた黒狼丸の船長に言わせると、今回は運よく良い風が捕まったからだと言っていたわよ。一刻で二十海里以上を丸二日進めたのは奇跡のようなものらしいようね」
「……はぁ……なれば、巡航速度で十ノットですか。……いやはや、なんとも時代を先取りし過ぎた船を……と、黒狼丸は父上、景藤様の乗艦だったのでは?確か、御遺言では蘭と彩芽に……」
「確かに父上の遺言では妹の蘭と彩芽に譲るとのことでしたが、どういう因果か、父上が亡くなられたあの年に係留中の黒狼丸は故障が出てしまい、船渠入りとなってしまいました……」
「うむ。それは私も覚えている」
黒狼丸のここまでの経緯、私は詳しく知らないので仁王丸と椿、この二人から教えて貰いましょう。
「父上は中丸兄上が少名で乗艦を造られた後に譲るよう言われていたので、中丸兄上も武凛久の黒狼丸の修理は後回しにしておりました」
「ああ、私も中丸兄上から直接にそう聞いておる」
「……それでといいましょうか、そういった経緯で長年、湯本の船渠に入りっぱなしだった黒狼丸はどうにも村上の紅殿が長年に渡って実験艦として利用していたようでして、今年になって床に伏せがちとなられた紅殿が黒狼丸の新しい姿を記した絵図面を父上に手渡したところ……」
「……太郎丸と信長殿が様々な新技術をつぎ込ませて建造したというわけか……はぁ……いったい一船に幾らかけて造ったことやら……」
……そうね、話を聞く限り、私も太郎丸の擁護は出来ないわね。
あの船って、相当に銭と人をつぎ込んでる……わよね。
私も、太郎丸の「娘たちに与える船なんだから変な妥協は一切しない!」と言っていたのを、もうちょっと深く考えれば良かったのかしら……。
でも、その話を私が聞いた時には、時すでに遅し、ってところか……。
「ともあれ、母上が飯盛山に来てくださったのはいかなる理由でございましょうか?本年より、母上は古河に戻って伊藤家の全体を眺め、私は飯盛山に残り、最前線の畿内を見る……そのような形としてきたはずでございますが……何ぞ危急の案件でも?」
「その件については私の方から……仁王丸兄上、これは一丸兄上が大友の高橋殿から聞いた話が発端でして、ある程度はご報告が上がっているかと思いますが……実は……」
……
…………
「なるほど……明での銀不足からくる物価格差、為替格差を是正するための日ノ本と明での取り決めが必要か……やはり、父上は父上か……俺の世代よりも未来から来ただけのことは有り、こと経済の知識は到底及ばん……か……」
「「……??」」
思わず顔を見合わせる私と椿。
「いや、何でも有りませぬ。こと、このような貨幣のことに関しては、私よりも太郎丸の方が詳しいのは自明です。太郎丸がそのように申すのならば、私の方で反対するいわれは御座いませぬ。ただ、日ノ本を代表しての使節となると……実は、ここ最近になって、些か厄介な案件が勃発しておりますれば……」
なによ、厄介な案件とは、穏やかじゃないわね。
私は目線で仁王丸に続きを促す。
「比叡山が当家の畿内での政に対して強訴を強行しようと画策し、琵琶湖の西岸の瀬田と大津、そして京は山科に僧兵を送り込み、街道の関所を警備しておる者共と諍いを起こしながら峠を倒木で封鎖したり、街道の真ん中で盛大に火を焚いて修行だと称したりと……」
「何よそれ?!このご時世に強訴??清盛公の時代にでも戻ったつもりなの?!……でも……」
それと、私たちで送ろうという日ノ本の使節との関係が何かあるの?
「左様、母上が思われている通り、もはや日ノ本を代表する使節を我らが手で、世界のどこに送ろうとも、本来であれば問題は有りません。ですが、此度は如何にも間が悪い。……今の天台座主の覚恕は高齢ではありますが健在。更に座主は帝の弟でもあります……」
「なるほど。兄上は今の情勢では、使節派遣を宮中の者どもに利用されかねないと思われているのですね?」
「そういうことだ。椿よ……。私としても、せっかく伊藤家の大願であった、王家や公家との縁切りが穏便に進んでいる最中に、今一度面倒な関わりを持つような真似をしたくないのだ……出来れば、このように阿呆な行動は即座に鎮圧し、京の者達に恩を感じさせる形で決着をつけたい。さすれば、今以上にこちらが距離を置こうとも、向うからは何も言えまい」
確かに、平時ならば、歴然とした力関係がある以上、向うからは何も言えないし、仕掛けてくることもないでしょう。
しかし、一度世が乱れれば、その乱れを切っ掛けとして、様々な出来事に絡ませて、謀略を仕掛けてくることはあり得るわね。
それこそが公家のお家芸ですもの。
まったく……それにしても、比叡山による強訴っていつの時代の話よ?
「賽の目、賀茂川、山坊主」だったかしら?思い通りに行かない三つの事柄って奴よね。
「で?今の段階での対応はどうなっているの?」
流石にそのままってことは無いでしょうから、仁王丸達も対応したのでしょう?
「正直なところ……近江側の案件は六角家が断絶となり、当家が直接支配をするところですので、兵さえ送り込めば処置は簡単でありましょう……だが如何せん、未だに旧六角領の掌握は完全ではありませぬ。ここは東海の兵を東から呼び寄せ対処するより致し方ないところでございまして、景貞大叔父上に軍勢を率いて下されと文を送ったところになります」
……確かに伏見と飯盛山の兵でどうこうするには難しいか、……近江は峠の向こうだものね。
木津川を伝っての伊賀、甲賀を通る道筋では、彼の地の地侍達を刺激してしまい、最悪比叡山の坊主共に合力させてしまうかも知れない……。
「山科は?」
「……はい。山科にはこちらから兵を送ることも可能ではありますが、一応の所、あの一帯は朝廷が治める地となっています。懲罰的な意味を持っての処置とはいえ、我らの側から山城の政は朝廷にやらせると言い切りました以上、問題が起きたからといって、すぐに我らが対処してしまっては……」
「何か問題があれば当家に縋りつけば良い、という習慣が付いてしまう……ね」
「……はい」
確かに、これは頭が痛い問題ね。
当家の武力をもってすれば、比叡山の坊主たちが幾ら騒ごうが、簡単に実力で排除できるでしょうけれど、そうしてしまっては折角の宮中勢力を我らから切り離す方針が弱まってしまう。
私たちが山城を治めてしまっては、宮中勢力がこちらの懐に入り込んでしまう隙に繋がってしまうという……。
本当に、公家ってのは厄介な代物ね!
「こちらとしては、早急に事態の収拾を行なうよう宮中に詰問の使者を送りましたが……」
「返答は?」
「昨日、返答の使者として、右京太夫の畠山殿が参られ謝罪と説明をしに来ました」
「ん?畠山って、どの畠山さんかしら?」
畠山氏は名門なだけあって、畿内に繋がりがある系統は数が多過ぎてよくわからないのよね。
「能登の畠山氏で
「なるほど、能登の畠山氏なら当家とは悪くない関係ということで、宮中が送ってきたのね」
「はい、そのような理由かと……それに、やはり今の公家には治政の能力と経験がないため、官位を授ける形で、領地を去らざるを得なかった武将を多数雇い入れております。畠山義高殿もそのような宮仕え武士の一人です」
そうね、宮中勢力が山城の治政を行なうためには、そのような方策ぐらいしか無いでしょう。
それに、隣に……というか、四方を我ら武家に囲まれている以上、権限を与えられた武士達も山城で権力を握って悪さをしようにも出来ないでしょうしね。
公家としても無難な方策よね。
「義高殿の由来はわかったわ。で、どのような弁明をしてきたの?」
「一言で行ってしまえば、彼らには手出しできぬ、と。……比叡山を治める天台座主は帝の弟、更には御神体を収めた神輿を持ちだされては、王家・公家の立場から力づくでの排除の命は下せぬ……と」
……なんの言葉も出てこないわね。
いったいいつから、山城は清盛公の昔に戻ったのよ?!
天正十五年 夏 名古屋 伊藤景貞
「……比叡山、いっそのこと丸ごと焼かれては如何でしょうか?」
静かな顔で恐ろしいことを言い切る奴だな、この光秀という男は。
「……確かに、腐った糠は早めに捨てませぬと、壺中に広がりますからな。ここは早々に排除した方が宜しいかと……御命令頂ければ、我が手勢を率い、一夜にして処置をして参りますが……」
昌幸よ……お主もか。
「兄上……比叡山の坊主共は明確な意思を持って伊藤家に弓を引いたのだ。ここは彼らの要望通りに滅ぼしてやるのが、せめてもの情けなのではないでしょうか?」
伊織……。
どうにも、最近のこいつは色々と吹っ切れすぎてて、一々発言が過激な爺になっておるぞ?
まったくなぁ……。
いったいぜんたい、どうしたものやら……。
俺は腕を組み、しばし目を瞑って思案に耽る。
基本的に俺は幼少期の経験があるので、神仏に対してはある種の畏れを抱いておる。
畏敬の念というやつだな。
神仏に対して恐怖を抱くことは無いが……彼らはやはり、我ら地を這う人間とは違う理で動いておる者達なのだ。
そう、近所づきあいというものは、礼節を持って行うのが望ましい。
今回のことも、比叡山自体が悪さをしているわけではない。
彼の地をねぐらとしておる、薄汚い鼠共が騒いでいるだけだ。
……鼠の駆除のために、いちいち屋敷や蔵を焼き払っては、土地の者達に怒られようという物だ。
「ふむ……鼠退治を専門にしてくれる猫でも居てくれれば良いのだが……」
「「猫??」」
む、いかんな。
思わず考えていた内容を口走ってしまったか。
これでは太郎丸の癖を揶揄うことも出来ん。
「なるほど……流石は景貞様だ。左様、鼠を駆除するのに蔵を丸ごと焼き払う必要はない」
「ほう……ならば、ここは儂が猫になりましょうと、手を挙げるべきですかな?」
「昌幸では猫ではなく、虎を鼠に嗾けることになってしまうでしょうが……」
「はっはっは!そのように伊織様から高い評価を頂けるとは有り難いことですが……ならば、どのような猫を解き放つので?」
「そうですね……」
こいつらめ……。
なまじっか頭の出来が良すぎるために、俺が漏らした単語から、勝手に作戦を練っておるわ。
ああ、なんかこういうのは懐かしいな。
奥州でも関東でも、評定の席で漏らした太郎丸の言葉をきっかけに、安中や柴田の者達が良いように暴走しておったな。
「くっくっく……」
「兄上?」
いかん、いかん。
伊織に不思議そうに見つめられてしまったわ。
「ああ、気にするな。……ただ、今思いついたんだが、比叡山の坊主共は根拠地を本当に山頂に置いておるのか?俺も直にこの目で見たわけではないが、破戒僧共は京の近辺で高利貸しを生業とし、用心棒として雇った者達を僧兵と呼び習わしているとも聞く。そのような者達が霊験あらたかな山頂に居住しておるとは思えんのでな?」
そう、鎌倉山の天狗爺も言うておったな。
多少なりとも、土地の者達に崇められるような山々には、中々に性向卑しき人間は長居出来ぬと……。
「言われてみれば……美濃はここより近く、光秀殿は畿内にも住まわれていたことがあったな?何かご存知だろうか?」
「そうですね……確かに、比叡山には数多くの寺や堂、僧坊などが立ち並びますが、その多くは朽ち果て、ほとんどの僧は山の麓、琵琶湖の畔の大津から坂本の辺りに居を構えていたと記憶しています。……坂本の
なるほどな。
やはり天狗爺の言うことは当たっておるのか。
ならば、遠慮はいらんな。
「よし!大まかな方針は決めた!」
「「ははっ!」」
俺の声に反応し、広間に集まった諸将が頭を下げる。
……今、不意に思ったが、光秀の奴、何で自然な顔してここに居座っているんだ?
お前は斎藤家の家臣なんじゃないのか?
「……?」
俺の視線を感じたのか、光秀が軽く頭を上げ首をひねる。
まぁ、良いか……。
「一つ、東海の軍勢五千を率いて瀬田から大津に向かう!また、近江、伊賀にも知らせを出し兵を出させる。徴兵を断るということは当家に対し含むところがあるということだからな、そのような者達を選別する機会とする」
「「ははっ!」」
「一つ、麓の居住地、日吉神宮寺、奴らが築いた関、砦は全て焼き払う!」
「「ははっ!」」
「一つ、山にある建物は焼き払わん!無抵抗で山に逃げる者は追うな!だが、手向かう者に容赦は要らん!なまぐさ坊主に配慮するいわれはない!全て切り捨てよ!」
「「ははっ!」」
方針は定まったな。
仁王丸も比叡山の東は俺に任せるということだったので、こちらの判断で進めさせてもらおう。
西側のことは公家が処理すればよい。
処理できなければ、公家が滅ぶだけだ。
「景貞様……」
「む?どうした?小太郎、何ぞ意見があるのならば聞こう」
「はっ、ではお言葉に甘えまして……先ほど景貞様がおっしゃられた鼠を狩る猫の役目。よろしければ一つ提案がございます」
「ふむ……続きを」
確かに、山に鼠の大将が逃げても面倒なことにはなるか……。
いっそうのこと、その鼠の大将が王家や公家と共倒れをしてくれても良いかとも思ったが……。
まぁ、面倒事の種は早めに潰しておいた方が良いか。
「伊賀と甲賀の地侍達の中には我ら風魔と似たような生業を為す者がおります。此度の猫の役目、我ら風魔と彼らにお任せいただければ、今後の諜報活動が円滑になるのではないかと思います」
「……なるほどな。徴兵の受け入れを地侍達だけでなく、草の者達にも当てはめるか……しかし、基本的に俺は山に軍を入れることをよしとはせぬぞ?」
「はっ!我らの様なものは軍では御座いませんので……それに、丁度今時分は彼らの腕利きを当家に仕官させるべく、美月様と利益様が当地を廻っておりますれば、そちらの仕事も捗ることに繋がりましょう」
そういえば、美月は利益を用心棒に大和から伊賀、近江で仕官を募っておるのだったな。
「わかった。鼠狩りの役目、ご苦労だが小太郎に任せるぞ?!」
「ははっ!」
これで、方針は決まったな。
俺は皆を見回して、表情を伺う。
うむ。問題なしだな。
「ではっ、第一陣の出立は十日後とする!名古屋城千!岡崎城千!引馬城千!駿府城千!それぞれ支度に掛かれぃ!」
「「ははぁっ!!」」
各城から千ずつ。
領民からの徴兵は一人もいない形なので、東海の最精鋭だ。
精々、旧六角領の奴らの肝を抜いてやるか。
「っと、それから伊織は留守を頼むぞ?」
「……」
……そう不満そうな顔をするな。
伊賀あたりの地侍がおかしな動きをしたら、後詰めのお主が一番重要な働きを求められるのはわかっておるだろうに……。
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