第145話 畿内討伐軍
天正十三年 一月十日 鎌倉 建長寺 伊藤伊織
これより伊藤家を主軸とした四国連合に与する軍が畿内に向け出立します。
それに先立ち、今日は叔父上と兄上、景藤の十二回忌として、父上の十四回忌としての法要を、ここ鎌倉は建長寺にて行っています。
「おう、伊織よ。俺とお前は無事永らえてこの時を迎えることになったな。いよいよ平家の赤旗、伊藤家の片喰と風林火山が京に向けて進発するか」
「兄上……確かに伊藤家の者として、畿内へ軍を向けるのは中々に感慨深い物が有りますが……」
「今回は三好の家臣が集めた軍を退けるだけで、別段、畿内を治めるわけではないから、か?」
「ええ、油断大敵では有りますが、此度の戦は結果が見えていますからね。今回の戦で一番の困難を引き受けるのは、三好を退けた後の畿内を押さえる役目の徳川家でしょう」
小太郎からの報告では、家康は既に畿内の主だった領主に手を回し終えているようですが、それも三好を畿内から追い出す迄でしょう。
三好を追い出した後には、畿内の統治を進めたい徳川家と長尾家に従うものと、反発する者に分かれることでしょうしね。
長尾家は当家とは違い、配下の者達を領主に任命し、徴税、徴募を任せています。更に、豪族の領地所有も粗方認めています……唯一、これまでの領主と違うのは、四国連合の一員としての関の扱いと商いに関する取り決めが当家に近いことぐらいでしょうね。三國通宝の流通も活発なようですし。
一方の徳川家はどうなるのか。
家康殿の言い分を聞く限りでは、まるで当家に臣従するかのような政策を並べていますが……。
狸殿の言い分ですからね、割り引いて考える必要があることでしょう。
「然もありなん。まぁ、これまでの徳川家の動きはどうにも怪しい物しか無かったからな。矛を交えたことも複数回。その度に家康殿は詫びに来て、当家にこれでもかと頭を下げたものだが……。うむ。面倒な畿内の統治ぐらいはこなしてもらっても良いだろうさ」
「そうですね……で、代わって徳川家の旧領の尾張・三河・遠江の扱いはどのように考えていますか?兄上。評定では、兄上に扱いを任せようという話でしたが」
「それよな……。古河に付いてきている信尹に話を振ってみたが、やはり駿府に本拠を置いたままで尾張の面倒までを見るのは厄介だということだ。東海道を整備し直してみても、距離的な問題がどうしても出てきてしまうと……」
そうですね、この距離の問題というのが全て、統治の困難さを生み出します。
東山三国で言えば、領内の地理的中心地である諏訪に本拠を構えることで甲斐・信濃・飛騨を纏めてはいますが、やはり遠国になってしまう飛騨、しかも越中に近い山中の把握は非常に困難です。
飛騨の山中には豊富な鉱物が有りますが、そのあたりの開発は思うように進まない。
管理者・技術者・人手と工具を揃えれば問題なく進むのでしょうが……どうにも、道を開き、工房を構え、人が滞在できる拠点を構えるといった施策は諏訪からでは上手く動きません。
私が直接松倉城あたりに入れば可能でしょうが、やはり、関東から遠く離れることの不便さを補って余りある利点などは、どうにも見出せませんからね。
だれか、信頼できる有能な人物が出てくれれば良いのですが……。
「と、まぁそんなわけでな。……実は尾張はお前になんとかして貰えぬものかと考えておるんだが?どうだ?」
「……駿府の兄上で遠いなら、諏訪の私ではもっと遠いことになってしまうでしょう?無理です!」
「だよなぁ……。で、それならばと頭を捻ったのだが、どうだ、伊織よ。いっそのこと尾張は斎藤家に任せられぬか?」
「斉藤ですか……」
龍興殿は四苦八苦しながらもなんとか美濃一国を治めているのが実情。
……ただ、そうですね。
明智殿が筆頭家老となってからの美濃の発展ぶりには目を見張るものがあるのも事実。
竹中殿が混乱の美濃を治める非凡な手腕を見せつけたのならば、明智殿はその美濃を発展させることに非凡な手腕を発揮された。
そう考えるのならば、……竹中殿が存命なら、尾張の混沌を彼が治め、後の発展を明智殿が推し進めるといった構図も描けたのでしょう。だが、既に竹中殿はこの世にいない。
しかし、いない、いないとばかり嘆いていては前に進まないのも真実。
「そうですね。今回の畿内出兵には斎藤家も少なからぬ兵を動かしています。その働きに応じる形で木曽川の流域……斎藤家が当家に頭を下げに来た理由、木曾三川とその流域の津の管理を任せてみるのは良いかも知れません。ただ、名古屋から南の地域はどうしても兄上に見て頂いた方が良いとも思いますがね」
「まぁ、名古屋までは家康が街道整備も行っていたので何とかなるか……そうだな、それで行くとするか!……あとはそうだな」
ちらり、と何やら意味深気な視線を兄上は送ってくる。
なんでしょうかね。
面倒事を持ち込まれる気がして止まないのですが……止めてくださいよ、兄上、そのように太郎丸のような顔をするのは。
「実はだ。今回の行軍を経て、昌幸が三河までの地域をぐるりと廻ったようでな。その結果、東海の水軍基地を三河の吉田城あたりに移せぬものかと相談してきおった。伊勢湾を望むに当たり、三河・尾張・伊勢・志摩のどこかに水軍基地を置きたいそうなのだが、当家の直接支配が尾張までに及ぶのならば、是非とも三河湾に拠点を置きたいと願い出おった」
「……」
「湾奥としては桑名・長島や熱田などが考えられるが、昌幸が現地の漁師連中に話を聞いたところでは、そちらは三川の影響が大きく、雨の影響を受け易い上に水深が浅いそうなのだ。当家は喫水の深い船が主力だからな、それでは敵わんということらしい」
「……三河湾はその条件を備えていると?」
「ああ、そういうことだ……」
「……で、その築港を私に?」
「別にお前自身に頼むわけではないが、やはり築港の経験と実績があるのは伊織だからな。……お主自身が赴くのでなくとも構わんが、どうか総指揮はお前の配下で行ってもらえぬであろうか?頼む、この通りだ!」
はぁ……。
ここ最近は私が鍛えた土木奉行の面々が領内の工事を行うようになり、私もお役御免となって、少しだけ楽になってきたというんですが……。
しかし、そうですね。
私も還暦を越えましたし、ここいらで後身に身を譲るべく、その準備に取り掛かるのも良いかも知れません。
「わかりました。それだけの大工事です。私が吉田に向かいましょう」
「おお!いいのか?!自分から言い出しておいてなんだが、お前自身が出向かなくても良いのではないのか?」
「……兄上もご自分で言い出しながら、何を今更。いいですよ、私が向かいます。東山のことは信綱と昌輝に任せ、信濃は信幸を呼び寄せ、直政には甲斐を丸々任せることとします」
「千代の婿の直政は井伊の嫡男であったな。あいつなら問題あるまい。そして、信幸……信幸……おお!昌幸の嫡男か。今は竜丸の下、岩櫃城で北上野の政を担っておるな……多少は早い気もするが、奴に信濃を任せてみるのか?」
「早い、早いとばかりも言ってはおられぬでしょう。私も兄上もとうに還暦を過ぎました。伊藤家、安中家は長寿揃いとは言え、いつ我らの身がどうなるかはわかりませぬ。……こうして、父上たちが眠る建長寺にてこのような話題が出るのも何かしらのお導きでしょう。これを機に、東山では若武者たちを引き立てて行こうと考えます」
「なるほどな……相分かった。俺も東海で若者たちを引き立てることとしよう。しかし、若い連中となると……昌幸の次男坊に俺の孫二人、後は誰がいる?安中の若手は軒並み北上の城塞群に詰めておるからな。柴田は幼い娘ばかりだし、北畠は嫡男が五つだったか?確か……」
「まずは、その三名を引き立て鍛えることで良いのではありませんか?兄上。彼らも一人で役目をこなすのは困難なのです。自然と、彼ら自身で人を求めることになるのではないでしょうか?」
そう、我らもなんだかんだと言いながら、奥州を離れ、関東を離れ、東山で、東海で人材を探してきたではないですか。
天正十二年 雨水 伊藤景基 名古屋
やれやれ、これで後は明日から始まる出立を待てば良いということか。
昨年から計画された畿内侵攻は、最終的には二十万を大きく超える大軍勢が参加する形となった。
参加する国、家は数え切れず。四国連合の呼びかけに東国の悉くが応え、西国からも大友家と長曾我部家が一軍を以て参加してくる。
私が博多に赴いた時には、大友家と長曾我部家は争っていたようだが、此度の東国での軍の興りを見て和睦を結んだようだ。
一応、尼子家は中立を守るようだが、大友家と長曾我部軍が領内を通過すること、瀬戸内を通過することは許可したようだ
こうなると、三好家はただ一家の身で日ノ本の全てを相手取ることとなりそうだな。
絵図を描いた一人である私が言うのもなんだが、大変なことになったものだ。
当初は畿内から三好家を追い出せば終わりと動いては来たが、大友と長曾我部が本腰入れるのならば、四国の地にて三好家は滅びることになるのであろうな。
当家は関与しない方針ではあるが、あまりに惨いことにならぬようにだけは戸次殿を通じて、大友殿にご伝言をしておこう。
「統領様、お休みでしょうか?」
私が自室兼執務室としているこの部屋の外から声が掛けられる。
「いえ、まだ起きていますよ。一通りの最終確認は終えましたので、これから休もうと思ってはいましたが……話があるのなら、どうぞ中にお入りください。明智殿」
「では、失礼いたしまする」
すすっ、するっ。
静かにふすまが開けられ、明智殿が部屋の中に入られる。
明智光秀殿。
伊織大叔父上に紹介された斎藤家の筆頭家老。私が尾張に入ってからは、この膨大な軍務処理を手伝ってくれる、非常に有能なお方だ。
東山道と東海道を進軍してくる兵、十万強がつつがなく進軍できているのも、この方の力に頼るところ大だ。
「で、どのような内容ですか?」
「はい。実は三好家中の者が当方に降りたいと願い出てきておりまして……」
「……明智殿の下にですか?」
「私の下では御座いませぬ。首を一つ持参し、稲葉山城の殿の下へ……」
「首ですか?」
斎藤家の下に持参する首ですか。
なにか斎藤家がらみで畿内の騒動でも有りましたっけ?
「降りたいと願い出てきたのは、
「……三好家が勢力を伸ばしたころとなると、私と同年代の氏郷殿はまだ生まれていなかったのでは?」
「はい、本人は京産まれだと申しておりましたな」
ふむ。
そのような御仁がなぜ斎藤家に?
「それで、彼が持ち込んだ首は当家を追放された稲葉良道の首でした」
「稲葉殿……確か、北畠殿が三条家当主を呪ったなんぞとかで……」
「左様でございます。三条家の断絶と復興、そこに三条家の娘婿の関係となる石山本願寺法主との利害関係が絡み、家康殿に北畠討伐の朝廷からの命が下った経緯を作った男です」
朝廷、公家がらみの事件に関わり、無用な戦を引き起こす切っ掛けを作った人物ですか……私としてはあまりお近づきになりたくない種類の人だったようですね。
まぁ、そのようなお人がどうなろうとも、正直な処、私には関わり合いの無いことではあります。
ただ、なぜ、今その首を蒲生殿が?
「稲葉殿の首自体に意味は無いでしょう。それは単なる手土産と言いますか、稲葉山に赴くための名分と思われます。……事実、蒲生殿の話に稲葉殿は関係ありませんでした」
「……ふむ。となると、蒲生殿の話とは?」
「蒲生殿曰く、畿内の三好家、一門と重臣の悉くは四国に逃れた模様です。そこで、畿内に残った三好家の者達は蒲生殿のお父上を頭に、最後の抵抗、伊藤家に一矢報いてみせようと兵を集めておったそうなのです。だが、ここに来て彼らの想定をはるかに上回る軍が興されたことを知った者達が続々と離脱。もはや一戦を交えるまでもないということで降伏を願い出ております」
「……そうですか、戦わずに済むというのでしたらそれに越したことは無いのですが……こうして明智殿が夜に私を訪ねてきたということはそれ以上のことが?」
この程度のことでは、明智殿がこの時間に私を訪ねてきたことの意味がわかりません。
「はい。どうやら此度の戦に先立ちまして、徳川殿から三好方の諸将に内応が持ちかけられていたと。……勿論のこと、蒲生殿の下にも」
「それはそうでしょうね。徳川殿は自ら先鋒を願い出てきたお方。それなりの工作を仕掛けていても不思議ではありません」
ええ、当家としてもそれを否定する気は有りませんし、むしろどんどんやれ、といった心持です。
「はい。それは無論結構なことなのですが、問題はその条件。此度、反伊藤の旗色を鮮明にした公家、王家の者を処断すれば帰順を認めると言うたそうです」
ええ、それも問題ないでしょう。
古河に来た二条殿もその旨は言明していました。
「それが……?」
「それがですな……どうやら、氏郷の父上、
「……!」
公家や王家がどうなろうと構いませんが、近衛前久だけはいい加減に、この世から退場いただきたいものです。
今は心を落ち着かせていますが、父上に対する所業を考えると、私自ら奴の首を刎ね飛ばしてやりたい気持ちで一杯です。
「……正直なところ、公家や王家、言ってしまえば帝がどうなろうとも私は気にも留めません。命を落とそうとも、才覚に頼って野に逃れようと気にしませんが……近衛前久だけは別です!」
「……故にこうして、統領様のお耳に入れること、このような時刻にさせて頂きました」
「わかりました……こうして明智殿が話をしに来てくれたということは、近衛前久への対処案は有るということですね?」
「勿論でございます。斎藤家筆頭家老の私としましても、このまま近衛が生き永らえることが良い未来に結びつくとは到底考えつきませんから……」
「……では、明智殿。その処理。お任せしても?」
「お任せください。この明智十兵衛光秀。この場で統領様に誓わせていただきます。必ずや近衛前久のそっ首を叩き落してやります」
「お願いします!」
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