第142話 醤油、出来てました!
天正十二年 冬 古河 伊藤景基
「結局のところ三好家はこちらの要請は聞かず、戦支度を整えるということです。ただ、当主の義興を初めとした一門衆は畿内を捨て阿波に移っているようですが……」
「阿波にか……確かに阿波は三好家の本領かも知れんが、数年前までは長曾我部に占領されていただろ?果たしてどれだけの体制を整えられるのか……ふむ。いや、体制云々よりも単に逃げ出したのかも知れぬか」
「大叔父上、俺も鎌倉に来る商人達の話として聞いているところでは、三好家の一門初め、多くの重臣連中は四国に逃れているとか。ただ、一方で畿内の城では戦支度の用意が急ぎ進められている模様で、武具、兵糧、弾薬などは飛ぶように売れておるとか」
わざわざ畿内の……ということは堺の商人でしょうか。彼らが三好家に商品を売りつけつつも中丸にご注進を欠かさぬ。
つまり、彼らの見解として、戦は起こる。伊藤家が三好家に勝つ。商売で当座の銭を三好家から集める。いち早く伊藤家に保護を求める。
そんな所だろう。
「ふむ。商人相手に大っぴらに戦支度をしておるのか……面白い。次は三好家相手に大戦か」
「兄上……あまりそう喜ぶのは如何なものかと……。そういう言葉は、今回は完全に肩透かしだった我ら東山の者達にこそふさわしいものでしょう」
……てっきり景貞大叔父上を諫めるていのかと思ったら、伊織大叔父上も戦う気ですか。
「一丸は三好家と戦うことには反対になった?」
顔に出ていたか。
大御所様より指摘されてしまった。
「どうなのでしょう。……正直なところ、こざかしいちょっかいに同調した三好家と戦いたい気持ちはあるのですが、この一月余り、戦後の始末を考えると彼らと戦う利点が見出せなくなったのも事実です。今回は九条殿、一条殿、二条殿の三名がはっきりと公家、王家の始末をつけると明言されましたが……そのあたりの始末の付け方次第によっては、当家が畿内の面倒事に引きずり込まれることになるのではないでしょうか?私が産まれるより前から続いた東国の平穏を求める戦。……今回のことで、畿内の混乱を引き受けるための戦に変わるとは思いたくありませんから……」
「そうね……」
「兄上の懸念はもっともだと思うが、どちらにせよここまで虚仮にされた以上は三好家に責を問わずにはいられまい。……一番楽な方法としては家康に詰め腹を切らすことだとは思うが、それでは畿内の連中がのうのうと生き延びることになる。安易に家康に処分を求めては、公家と王家の連中がまたぞろ武家を犬扱いしてくる時代に逆戻りしかねないと思う。やはり、ここは畿内に伊藤家の旗を一旦は立てるべきではないのか?」
「うむ……」
確かに、私も二条殿らが雁首を揃えて詫びを入れてきたときには、軍を西に出すことを首肯したものだが……どうにも、実際の戦の計画を描いてみると、戦後の処置がどうにも……。
「景基兄上の懸念はもっともだと思います」
「……上様」
「しかし、今回は三好家も当家と一線を交える覚悟がある様子。……当主は一足先に逃げ出しているようではありますが……」
「……仁王丸。続きを」
「はい。……今回の件、三好家と戦い、徳川家に長野家攻めの命を出したことの責任を取らせること。その命を受けた徳川家に責任を取らせること。この二つを武家としての我らが努め、公家と王家に関しては、一切を九条殿、一条殿、二条殿や鷹司殿に投げ、我らは無関係を貫く。この辺りでどうかと思うのです」
……そうですね。
上様が言われるよう、三好家と徳川家に武家として責任を取らせる。
その事には、一切の躊躇もありません。
……私が気に食わないのは畿内の混乱、言ってしまえば公家と王家の厄介事に巻き込まれることだけが嫌なのですから。
「ということはどうする。徳川の、家康の身柄は我らが抑えているが、義興の身柄は抑えておらんぞ?義興の身柄を抑えるには四国まで足を延ばさねばなるまい。当家の水軍ならば、問題なく四国までの上陸を確保できるであろうし、ある程度の兵を上陸させることが出来れば、それこそ四国平定も叶うであろうが……一丸が言うたようにどう治めるのだ?」
「東国を除く地域に関しては治めぬことが良いと思います」
「「治めない??」」
参りました。
上様の言うことがわかりませんね。
「治めないということはどういうことなの?」
「母上、そのままの意味です。東国の外では当家は年貢を集めない、治安維持をしない、徴兵をしない、訴えを受け付けない。そういうことです」
「……なのに戦はしかけるか?俺は今一つ納得できんぞ?」
「義父上、御懸念はわかりますが、そういうことではありません。東国の外は東国の外の民が己の足で立ち、自らの手で治めれば良いということです。……ただ、まったくの無干渉では、それらの地域が荒廃してしまう可能性もあり、そうなった場合、まわりまわって東国に厄介事が降って湧くでしょうから、一応の形は示します」
「……臣従なり、恭順なりの態度を示せば手助けはすると?」
「はい。伊織大叔父上の仰る通りです」
確かに、当家は無制限にではありませんが、一応は東国の外からも臣従や恭順を受けてはいます。
まぁ、六角家の事ではありますが……。長野家はぎりぎり伊勢の関の東なので東国とも言えますからね。
「臣従の態度。……一番わかりやすいのは古河に屋敷を置いて妻子を住まわせることあたりですかね。「臣従」ではありませんが、伊達家、佐竹家、徳川家は古河に屋敷を置いていますね。ただ、彼らが古河に住まわせている者達はばらばらではありますから……そこにある程度の「法則」と「格」を作れば一応の形となる……だが、それでは結局のところ、当家がそれらの地域を治める名分にもなってしまいませんか?」
うむ。私も伊織大叔父上の言い分に賛成だな。
直接の支配を及ばさずとも、その形では結局のところ東国の外も伊藤家の支配地となることになってしまうのではないであろうか。
支配には様々な義務が生じてくることになる。
「はい、実は私の考えはそうなります。いい加減、当家の実力と船を使った人と物の流れを考えるに、日ノ本の東国だけで完結するのはもう難しいのではないでしょうか?一門の者が赴いて直接に治めることは難しいでしょうが、「分国制」、分かれた国が並立する体制なら問題ないのではないでしょうか?」
「ほう。国は分かれてはいるが当家の下に一定の秩序を保つと……」
「はい。合わせて、国同士の戦を禁じ。旧来、戦に発展してきた多くの原因、土地の問題や水利の問題は訴えを
「問注所……鎌倉幕府に近い扱いですか……当家では今のところは各城の事務方内に
そうですね。
ここまでの伊藤家の東国支配は、関宿の戦いから数えて三十と二年程。
ここまでは上手く回ってきましたし、支配地域の拡大にも十分に対応出来てきました。
今では日ノ本の半分が当家の方針にて治まっています。根本的な部分を変えずにいれば、それを日ノ本中に拡大しても混乱は少ないことでしょうか。
「戦を禁じる代わりに争議は当家が厳重に審理をする。そういうことね。……いいでしょう。当家の下につく家の扱いを明文化する作業を進めましょう。……けれど、少しばかり脱線してしまったわね。結局、三好家に対してどのような処罰を降すかという事よね」
「……そうでしたね。上様が言われたことは、三好家を下し、傘下に納めて後の体制に関しての言。日ノ本のその後についても形がある程度見えているのならば、一層の事、完全に三好家を降してしまうのもありかも知れませんね」
……おや?
伊織大叔父上がなにやら過激なことを……。
ちょいちょい。
隣に座る中丸が私の袖を引っ張ります。
「ちょくちょく俺達は忘れることではありますが、当家で一番過激なのは伊織大叔父上なのでは?と思いますな……それよりも、此度の件。夕餉でも孫家飯店で食いながらしませぬか?瑠璃曰く、父上が古河に到着されたようですから」
なるほど、それは名案だな。
「中丸?!言いたいことはしっかりと発言しなさい!」
小声で話していたことを大御所様より叱責される。
「ああ、いえ!伯母上!時間も時間ですし、議題も新たな方向が出てまいりました。続きは明日にしても良いのではと思いまして、夕餉の相談を兄上としておりました……申し訳ございませぬ」
「そう……そうね。まったく冬は日が短くて嫌になるわね。……仁王丸、一応の方向は出せたと思うので、後は明日に回すという中丸の案、どうかしら?私は賛成だけれど?」
「……そうですね。私も賛成です」
「そう!では解散ね。叔父上たちもご苦労様だけれど、明日も古河に居てくださいな」
「構いませんよ。東山の軍は斎藤家と共に廃城となっていた清州に入っていますから。……流石に徳川家を追い出して名古屋城を占拠する程でもなかったですからね。私が古河の滞在を伸ばしても問題はありません」
「俺の方も問題は無いな。ただ、こちらの徳川の連中は戦の後始末も兼ねて、浜松に集まっているが……。まぁ、がら空きとなった岡崎城には昌幸を頭に軍が残っているし、綱高殿と綱成殿も藤枝城で備えている。問題はないさ」
大叔父上たちの話を聞くと、徳川家の東海三国は問題ないようだな。
ふむ……一方で、伊勢・大和の徳川家は誰が見ているのでしたか?確か、
「兄上、評定は終わりましたぞ。……おお、そういえば今宵は利根川の水路を使って江戸の海産物が孫家飯店に届いているはずですぞ?楽しみですな?」
……海の幸か。
それは願ってもいないことだ。
中丸の江戸開発も結構なことのようだな。
1584年 天正十二年 冬 古河
「相変わらず一丸は旨そうに飯を食うな」
「え?そうですか父上?」
「そうだよな?中丸、瑠璃?」
「父上に賛成~!」
「俺も父上に賛成ですな」
「む、別に良いではないか。旨いものを美味そうに食っても良いだろう?!」
ははは。
本当に一丸は食いしん坊さんに育ったな。
正しく阿南の息子だね。
「で、父上。上様、仁王丸の申した「分国制」での日ノ本支配、如何思いますか?俺には今一つピンと来ぬのですが……」
「お、おう。……そうだな「分国制」か……いいんじゃないか?鎌倉幕府は配下に土地を分与することで支配体制を敷いたが、その土地自体が無くなってしまって支配が破綻した。室町幕府は朝廷の発する……と、この場合の大きな部分は南朝の後醍醐帝の任官だな。これに敵対する者達を守護、探題、管領として南北間の争いに勝利したが、もともとの体制が南北の争いに対応したものだったために、南朝を滅ぼしたことで体制の意義が失われてしまった」
「では、「分国制」にはどのような意義が?」
自分の分のてんぷらを食べ終わった一丸が突っ込んでくる。
……相変わらず食うの早いな。
じゅわ~っ。
この数か月は孫さんに付きっ切りで、てんぷらの調理法を習得したという瑠璃が目の前で揚げてくれている。
火箭暖炉をこのように使いこなすとは……孫家飯店恐るべし。そして、流石は姉上の姪。瑠璃は揚げ物が上手だな。
「……はふっはふ。……一番大事なことは、その土地のことはその土地の者が面倒を見るということだ。鎌倉幕府も室町幕府も、どちらも現地の政を管轄する者はあったが、結局は中央からの支配を模索していた事には変わりない。その点、「分国制」はある程度、中央の支配を放棄しているのがミソだ」
「「支配の放棄ですか?!」」
「そうそう。出来ないことは出来ない。面倒事は自分たちで処理しろってことだ」
「それでは、……結局今とはどう違うのですか?土地々々の有力者が乱立する今の状況と……」
あ~!てんぷらうま!
瑠璃も大した腕だな。
蝦夷地の小麦粉も、勿来の塩も油も、安房の柑橘も、……そして最終兵器、七尾の醤油。
くっくっく。
明との直接取引が増えた七尾でなら大豆も定期的に大量入手出来、現地の味噌工房、酒工房と相談すれば醤油開発も可能ではないかということを、信長経由で信忠に伝えたことがこうまで見事に成功するとはな……流石は織田家の血筋よ。世界が変わろうともその反則的なまでの優秀さ。しかも方向性が、ちとおかしな方に走っているその本質に違いはない。
「父上!」
「お、おおぅ!」
やばい、ちょっと一丸の質問の答えを考えていなかった。
「もう……兄上も父上を怒鳴らないの!父上もまだ子供なんだからね。って、はい。海老が揚がったよ」
「ああ、すまんな。……って、父上が子供というのも、何やらおかしな表現だな」
確かに、おかしな表現だが……って、戦国時代と江戸期の領主、大名の違いだな。
「もっきゅもっきゅ……つまりだな。領主たちの政の方向性が変わるということが一番大きなことかな?……近年は大戦などは減って久しい。もっと言えば、戦の数自体が減って久しいのだが、それでも各地の領主が第一に考えなければいけないことは、他領からの侵略に抵抗し、あわよくば他領を従えることが出来る武力の保持だ」
「なるほど……あ、瑠璃よ。悪いが私には穴子を揚げてくれぬか?後は米のお代わりを……」
「ああ、はいはい……って、父上の話も大事だろうけど、食事のことは忘れないのよね、一丸兄上って……」
「おお!俺にも穴子をくれぬか?」
「……了解」
いやいやを装いながらも穴子の下準備を進める瑠璃。
うむ。俺は良い娘を持ったものだ。……この身体は来月に九歳になる身の上だけどね!
「つまり、父上の仰られることは「分国制」という統一された制度が構築されれば、それは兵を養うための国ではなく、民を安んじるための国なりえると、そういうことなのですね」
「そういうこと。結局、我ら武家、武士が力を持ったのは民が平穏に暮らすための力を持っているからだ。武器の発達で、身持ちを崩した悪人が簡単に力を手に入れることが出来るようになってしまった。一部の悪人が、平穏を容易く壊すことが出来る世になってしまった。故に、更なる武の力を持ってして悪人共を退治、罰することが出来る我らが求められる仕儀となった。……人間社会の発展から生まれた力ってことだよな」
武家社会は多くの民に支持されている。
それは、民の平穏にとって、武力が大事なものだからだ。
天下統一、日本統一と言うと愚者の妄言にしか聞こえないが、戦を主眼とした武力の扱いをちょっとだけ方向転換した形の「分国制」はアリだと思う。
ってか、まんま江戸幕府の体制だよね。
「しかし、そうなるとですな、父上。当家は勿論含まれるとして、何家かはその「力」を維持し続けなければいけないということですかな?なんといっても、今夏にあったように、日ノ本一国だけがこの世界に存在しているわけではありませぬからな」
「……そういうことだね。まぁ、そのあたりは四国連合と大友家に……あとはどこだろうな?畿内、四国に西国の東半分か……三好、長曾我部、尼子にそこまでの力と気概があるのかどうか……どうか、どうか、銅貨?……ああ、太平の世が来たら銭不足が襲ってくるのか……」
「父上?」
「いや、何でもない。……そう、力の空白地帯についてだな。う~ん、う~んう~ん?いっそのこと公家連中に山城一国は任したり、徳川家に畿内を任せるか?」
家康も天下人なんだから、そのくらいの苦労と面倒事は背負って行って欲しいよな。
残りの三英傑。信長は当家の水軍から出て行かないだろうし、秀吉も奥州でのびのびと内政に勤しんでいるのが楽しいようだしな。
うん。家康君よ。貧乏くじを引きなさい。
「そ、その……父上?家康殿に力を与えるのは危険なのでは?」
「そうか?今回の事を聞いている限りだと、家康って近衛を当家に売り飛ばしたいだけだったんじゃないか?」
「え、ええ!?いくら何でもそれは……」
「だって、普通に考えたらわかるだろ?徳川家の力じゃ伊藤家には逆立ちをしたって敵いっこない。本気で当家に打ち勝とうとするなら、少なくとも四国連合を解体して、伊藤家を孤立させてからじゃないと話にならない。孤立させて、四方から同時に攻めかかる。それが唯一、伊藤家を倒す方法だと思うぞ?言うても家康も有能な男だ。その程度の事に気づかない筈はないだろう」
ああ、そのぐらい家康が単細胞だったら、俺の前世の段階で東海の悉くが伊藤家の直轄になっていただろうなぁ。
「……簡単には頷けませんが、確かに此度の戦。浜松でこそ衝突が有りましたが、結局は伊勢の南でも西でも北でも東でも徳川軍は動いておりませぬ……」
「確かに……結局のところ、長野家が当家に救援を求めて来たのも徳川から届いた宣戦の書状が原因でしたか……ああ!考えてみれば!」
「うわっ!」「どうした?中丸!」
びっくりした。
急に大声を出すなよ、中丸。
瑠璃もびくっ!ってなってたぞ?
揚げ物中の人を驚かしてはいけません!
「あ、ああ。すまぬな、瑠璃。……そうです。ひっかかりは有ったのです。そもそも、本当に戦を長野家に仕掛けるのならば、どうして長野家の伝令が陸路で駿府に辿り着けたのか……」
「……本心は家康に聞かなきゃわからんが、まぁ、何かしらの考えはあるんだろ?」
俺は別に神様じゃないので、家康の本心まではわからんが、何かしらの思惑があったことは違いないだろう。
まぁ、それでいうと、どうしても浜松での戦が不思議にはなるけどね?
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