第91話 松平狂騒 ~前編~

元亀二年 晩春 古河 伊藤元景


 やはり、面白い策を太郎丸は考えるわね。


 確かに、大元のところはこれまでと同じ、敵の主力と逆方向に戦場を作り、兵力と物資を一方向に集中させない状況を作りだすということ。


 ただ、特に今回は海を使うことで、長い海岸線を持つ松平家にとっては、非常に嫌な策と言えるでしょうね。


 「これで、伊那で景貞が戦うと同時に、松平の海岸が襲われるというわけか……敵ながら同情を禁じえぬな」

 「当家は終始友好的な対応を続けてきたのです。その手を振り払ったのは松平の方、彼らにどのような事情があるのかは知りませんが、そのツケは自分で払ってもらうとしましょう」

 「それは、そうじゃな。しかし、これで当面の目途はついたというもの……」


 っどどっどど!


 ……嫌な足音ね。


 「た、大変でございます。武田がにわかに兵を動かし、木曽殿が落とした中野城、また当家の御厨城に向け進軍中とのこと!」


 ……ここにきてじり貧の武田が動いたか。

 このまま時がたてば、ただ滅亡するだけという状態。周辺が動き出したこの機に、何とか甲斐の再統一と南側の出口確保に動いたというわけね。


 当然、武田単独での動きというわけはないでしょうから……これが駿府に集まった軍が待ち望んだ事と言うわけね。


 ただ、武田と松平には悪いけれど、両家が幾ら頑張っても詰みの盤面は覆せないわよ?


 「多少は大変ではあるけれど、これで敵の策のすべてが見えたわね。では、当初の予定通りに対処をしましょう。昌貞には西武蔵の軍一万五千を率いて甲斐に侵攻、中野城の救援を。政繁には東武蔵の軍一万五千を率いて御厨城の救援、更にそこから北上して富士吉田城の攻略を命じます。伊織叔父上には相模・伊豆・河東の軍で御厨城の守備と、興国寺城の西に動いて松平軍に富士川を北上させないように伝えてください。甲斐が終わるまで、両軍を集結させないように伝えてください」

 「「はっ!」」


 伝令が返事をする。三将には、私が予めしたためておいた書状を届けさせる。

 武田の動きは太郎丸にも伝えましょう。

 太郎丸と吉法師なら、なんか面白い策を他に考え付くかも知れない。


 「元景よ、甲斐の差配は真田殿を初めとする信濃衆に任せることに変わりは無しか?」

 「ええ、甲斐は真田殿、諏訪殿、高遠殿、木曽殿に任せましょう。内陸は彼らに、我らは東海道を。まずは、松平を屈服させることに集中しましょう」

 「そうだな、いみじくも、今回の太郎丸の作戦で海路の重要性が再び明らかになったのだからな。まずは松平じゃな」


 これからの対応を見てということだけれど、吉原や富士宮の郷士たちも松平と武田に同調するようなら、蒲原城までは抑える必要が出て来るかしらね?

 ……そのあたりは伊織叔父上に任せましょうか。


 とりあえずは武田と松平を連携させないこと。駿河と甲斐の連絡を絶ち、個別に撃破する。

 何事も当初の予定通りに進めるべきね。


元亀二年 初夏 伊那 伊藤景貞


 「ふむ、こちら側はなんともあっけないものだったか……早いところ天竜川側の背後に回るか」

 「景貞様、そのお役目は我らにお任せあれ。景貞様には飯田城の守備に回られている顕景様の援護をしていただければよろしいかと」

 「ん?お前だけが手柄を取るつもりか?棟寅よ?……と冗談だ」


 東山道を使って進軍してきた尾張衆一万五千は妻籠と飯田を結ぶ新街道、松平家康が先年の進軍時に作った、その街道で全滅した。

 飯田からは俺が一万を率い、妻籠側からは棟寅が一万を率い隘路で挟み撃ちとした。

 さらに山頂から矢と石を馳走し、尾張衆は見る影もなく消滅した。


 尾張弱兵とは聞いておったが、いかにも脆すぎたな。

 そして、その脆さ、兵の損失具合から考えると武将の討ち死にやら捕縛なんぞがあっても良いと思うのだが……ふむ、最初から武将連中は逃げる気だったのだろうな。


 しかし、可哀想なのは兵どもだ。

 眼冥めっぽうに逃げ惑った兵たちの、果たして幾人が故郷に戻れるのであろうな。

 可哀想ではあるが、これも戦いの常というものだ。

 だが、次回以降、尾張の者達は兵の心を繋ぎ止める事が出来ないであろうな。


 「まぁ、山を迂回するのは、山の民たるお主に任せた方が良かろう。では、頼むぞ棟寅。俺は三河・遠江勢が進軍している天竜川沿いの丘上から奇襲の一つでも掛けて来るさ」

 「……はっ!お任せを。ただ、そちら側の敵将は松平家康。中々の指揮ぶりの者と聞いております。また、前回の敗戦も丘上からの奇襲でしたので、多少は備えをしているかも知れませぬ。どうか、敵の動きがおかしかったのならば、奇襲は仕掛けず、敵の動きをけん制するだけにとどめた方が宜しいかと」


 ……なるほどな。

 父上をして、年齢に似合わぬ老練な指揮ぶりと言わせた男だからな、用心をするに越したことは無いか。


 「わかった。助言通り、無茶はすまい。まずは家康の動きを見てから仕掛けることとしよう。……まぁ、奇襲を仕掛けずとも、横あいの丘上に風林火山の旗が立てば奴も心胆を寒からしむことになるだろうからな」

 「それが宜しいかと存じます。では、某はこれより軍を纏め、敵の後背に回り込みまする」

 「うむ。頼んだぞ。お主の攻撃を合図に俺達も動く」

 「はっ!」


 油断をしてはいけないが、どう考えても、これで伊那方面の戦いは終わりだな。


 「忠樹!清平!これより軍を返し、飯田の南、天竜川を望む丘上に向かうぞ!」

 「「はっ!!」」


 負傷兵と味方の亡骸だけは回収して飯田城に運ぼう。

 ……ただ、申し訳ないが松平の者達は近隣の村の者達に任せるほかないな。

 すまん!これも戦国の倣いということで許してくれ。


 俺は合掌をし、命を山間に散らした者達を悼んだ。


 ……

 …………


 「忠樹……あれが家康の軍か?どうにも、俺には違う人物が率いているもののように見えるのだが……それに陣も……こういっては何だが、みすぼらしいぞ」


 天竜川沿いの飯田城の南に松平軍一万五千は布陣している。

 布陣はしているのだが、どうにもおかしい。


 家康は戦上手と呼ばれているはずだが、どうにもこの陣からは、戦上手といった雰囲気がない。

 何より、まずもって陣が川に近すぎる……あれでは、ほとんど背水の陣ではないか?

 天竜川は北が上流だ。あんな場所では川の水を溢れさせられれば、一発で陣は壊滅するぞ。


 「景貞様……松平があのような陣を立てるとわかっていれば、川を堰止めましたのにな!なれば一網打尽というものでした」

 「まったくだ。それに、なんだ……俺たちが丘上に現れたのを見つけたとたんに、奴ら慌てふためいておるぞ。棟寅が回り込むのを待たずとも良かったかも知れんな……」

 「そうですな。……ただ、そうは言っても、退路を断つ形は必勝の構え。今回は損害が減ることを喜び、しっかりと勝利を頂戴しましょうぞ」

 「そうだな……」


 しかし、肩透かしも良いところだ。

 ふむ。

 やはり、家康は一足先に自分だけ逃げ帰ったのではないか?

 逃げ足は相当に速いとは聞いておったが、これほどみすぼらしい陣を構える男だとは聞いていないからな。


 うわあぁぁっぁ!!


 どうやら、棟寅が後背に現れたようだな。

 敵軍の狼狽っぷりが凄まじい。

 やはり家康は逃げた後か。


 「では、我らも行くぞ!風林火山の旗印、その目に焼き付けるが良いわ!」


 どどどっど!

 どどどっどどど!


 騎馬隊を先頭に逆落としを仕掛ける。

 無駄に刀を振るうことは無いな、敵陣の横合いに突っ込みそのまま左右の二隊に分かれ円運動をするように元の丘上に戻る。


 ふん。勝敗は決したな。


元亀二年 晩夏 吉原 伊藤伊織


 「敵は、もう城から出て来る元気もありませんか」


 梅雨も終わった辺りで、駿府城に集っていた松平軍はそのほとんどを蒲原城に入れた。

 駿府からの兵で二万近い数、その数を頼りに吉原や富士宮の豪族たちはこぞって松平に合力し、最大限の兵を集め蒲原城に合流した。

 おかげで、伊藤家は何の抵抗もなく富士川の東岸に陣を構えゆったりと対峙している。


 松平軍が富士川の東に陣を張った場合は、こちらとしては警戒しなければいけない地域が増えてしまい、少々面倒な状況となってしまうところでしたが、清康は城に入り、川の東に出ようとはしませんでした。


 「伊織様。今日も懲りずに駿府から補給隊を繰り出してきたので、海から砲弾を馳走してやりましたぞ」


 太郎丸の策で、小山城、鳴海城を海上から破壊してきた信長率いる水軍のほとんど、彼らは今、駿河湾に停泊している。


 清康は蒲原城に二万五千近い兵を入れたは良いが、どうにも補給に困っているようです。


 もとより蒲原城はそこまで大きな城というわけではなく、廓も本丸合わせて二つ、あれでは保管出来る食料もたかが知れるでしょう。

 補給物資は駿府から運んで来れば問題なしと考えていたのでしょうが……。


 残念ながら、駿府と蒲原を結ぶ海沿いの道、興津と由比の間というのは非常に狭く、ほとんどが海岸に面している、いえ、街道が海岸そのものと言えるような地形です。

 そんな道を大層な輜重隊が通る……信長にとっては良い射撃訓練の的のようですね。水軍が到着してからは、一輌たりとも荷車を通してはいません。


 「伊織様、ご報告を」

 「……お願いします小太郎」

 「はっ!やはり、伊織様の予想通りに、清康は興津から北回りの獣道を使って輜重隊を出したようですが、稲子に陣取った昌貞様と身延衆によって計画が潰えたようです。この報が蒲原城にも届いたのでしょう。城内は大わらわで清康も統制が取れなくなってきている模様……近々、武将、豪族同士での諍いから離反、争いが始まること疑いようもありますまい」

 「ふむ。小太郎よ。その前に蒲原の全軍を上げて打って出るようなことにはならんのか?」


 信長の予想も当然ですね。

 こちらは蒲原城の二万五千を上回る軍勢で吉原に陣を張ってはいますが、……松平も食料が無くなる前に打って出ることは考え付いてしかるべきでしょうからね。


 「積極策だとした場合は、どうにかして渡河をして我らと一戦を挑む。消極策では稲子の昌貞を排除するために動くか……」

 「清康殿は戦には強いが、根本的な所で吝嗇だからな。稲子の軍は一万五千、これを排除するためにはほぼ蒲原に集めた全軍を出さなければならず、そうなれば蒲原城はただで奪われる。そして、こちらを攻撃するためには富士川を渡河せざるを得ない。しかも、寡兵で敵の目の前での渡河……損害を考えたら実行には移せないでしょう」

 「すると、清康殿はどのように考えるかな?」

 「一刻も早く駿府に引き上げる算段を考えていることでしょうな」


 そうでしょうね。

 元から、駿府からの一方向の進軍で伊藤家に仕掛けること自体が無理なやり方なのです。

 無理な方法を選択した挙句、蒲原城に閉じ込められ身動きが出来なくなってしまった……。


 「そろそろ降伏しますかね」

 「そうでしょうな。城で飢え死にするか、無謀な戦いを選ぶか、敵前逃亡をして追撃を食らうか……それらを選ぶよりは降伏するでしょうな。蒲原城を明け渡し、清康殿が隠居するか、腹を切るか……そのあたりでしょうな」

 「そのあたりでしょうな」


 ええ、そのあたりでしょうね。


 「どちらにしろ、松平では収まったと思われた家督相続の争いが再燃しますか」

 「するでしょうな。清康殿は無謀な出兵の責を取り隠居。ただ、その後を継ぐべき家康殿は伊那で軍を壊滅させ、本人は戦闘が始まる前に逃亡。後を任された形の今川氏真殿は景貞殿の捕虜となり関東に送られている最中です。今川旧臣はここぞとばかりに家康殿を声高に非難するでしょうな」


 松平も前途多難ですね。


 「勝家が率いた尾張衆は文字通りの壊滅で、あやつが松平の姫を貰った一門衆だとしても、後継に関する発言権は此度で失ったことだろう。生き残った者達も奴の言葉は聞くまい。更に、無様に逃亡した家康も家中を纏める発言力は失ったであろう。清康殿は言わずもがな……こうなると、松平家中で最も発言力があるのは今川義元ということになるのではないか?家康の息子は奴にとっても血縁だからな、その童を担ぎ上げて、本人は外戚として松平で権勢を振るう……ふむ。戦に敗れて領国のことごとくを失っても、こんな復権の仕方があるか。びっくりですな」


 なにやら、信長の言う筋書きが最も濃いように思えますね。

 後は……。


 「後は、領国が分断されるかということですかね」

 「ほう。伊織様、分断とは?」

 「尾張を織田旧臣が、三河を広忠が、遠江を家康が、駿河を家康の息子を担いだ今川が、ということです。少なくとも、今一度、今の松平の領国が一つにまとまるには時間が相当に掛かりそうですね。当家にとっては隣国は静かな方が有難いことですが、……松平が弱体化したことで、更に西の勢力がこちらにやってくることになるのは勘弁して欲しいところですね」


 特段、松平には近衛の力が及んでいるとは聞きませんでしたが、一向宗の話はよく聞きました。

 石山の法主は三条に近いとも聞きましたから、そのあたりの厄介事を持ち込まれては大いに困ります。


 「そうですな。堺の商人からの情報ですと西国、……九州と周防、長門は大内・大友連合で安泰ですが、それよりも京よりの場所では、あまりにも金と物が集まらず、満足な戦も行えない状況のようですな。将も兵も総出で鋤鍬を担いで畑仕事に勤しまなければ、満足に食料が集まらないとか言うておりますな」

 「そうですか……畿内が最も貧しい地域となって来ているのですか……」

 「まぁ、商人たちはそのように言うてはおりますが、流石に南部の領地よりはましでしょうな。あそこまで北ですと米は満足に作れませんからな。かといって、他の作物を育てられるような伝手もない。近々、大きな動きが有りそうですな」


 西が鎮まれば、今度は北ですか。

 今は戦国乱世と理解していますが、もう少し落ち着いて欲しいものです。

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