第36話 吉法師の嫁

天文二十四年 晩春 忍 伊藤景元


 大道寺政繁殿が当家を訪れてから、時を置かず、伊勢氏康は相模、伊豆、武蔵の一部守兵を残し、その全兵をもって安房は館山城を落とすべく三浦半島へ集結を開始した。


 当家と隣接しているともいえる武蔵からも兵を出したのは、意外を通り越して、呆れしかない。


 里見に対して大兵力による必勝を狙ったのだろうが、そもそもの動員計画が破たんしておる。

 伊勢家全領からかき集めた三万の兵、それだけの兵を輸送できる船が三浦半島のどこに隠してあるんじゃ?

 三浦か?浦賀か?油壷か?城ヶ島か?

 そもそもあの近辺の海を支配しておった三浦一族を女子供から付近の領民まで、生きとし生けるすべての者を殺しに殺しまくったのはお前たちじゃろうて……。

 頭の中に蛆でも湧いとるのか?


 ともあれ、儂は伊勢軍の先遣隊が海に出たあたりを狙って、箕輪城、国峰城の兵から七千を選んで忍城へと迫った。


 厩橋城の者達は今回留守番じゃ。

 兵も民も平井から移ったものが多く、未だ生活基盤の確保に忙しいであろうからな。そのような者達を戦に連れて行く必要はあるまいて。


 上野から武蔵、忍までに一切の妨害は無く、ゆっくりと進んだというのに、三日とかからずに城を包囲する形で陣を整えることが出来た。

 よっぽど武蔵の防衛兵力が少なかったのであろうな……一瞬、このまま勢いに任せて攻めれば簡単に落とせるとも思ったが、今回は伊勢軍の兵を引かせるのが目的。無駄な戦闘はしたくないからの。


 ただ、今までの氏康の思考傾向から考えるに、三浦に集結させた兵を丸ごとそのままに全軍転身させて、ご苦労なことに忍までやって来る確率が高いと儂らは読んでおる。

 まぁ、その時は三浦から忍まで、果たして兵のどれだけが残って付いてくるかが見ものじゃ。三万の半分、一万五千の軍を維持出来ていたとしたら上出来よな。


 まずありえないじゃろうが、たとえ三万そのままで忍に来たとしても、後詰めに上野から五千、古河からの下総軍で一万二三千の総勢二万五千でお出迎えじゃ。

 兵糧も満足に準備できていない中、長駆領内を無為に移動してきた軍、移動の限界を叩けば容易い戦となるじゃろうから特に問題は無いであろう。


 しこうして、伊勢軍は三浦に集結していた全軍、既に洋上に出ていた兵も含め全軍で忍へと移動してきた。総兵ざっと二万。

 予想していたのよりは多かったわ。氏康の評価を上方修正せねばな?などと思っていたのだが、その兵の大部分、八千ほどは大道寺政繁の率いる軍であった。


 政繁は己の陣を氏康の本陣からは距離を取ったところに設置し、すわ開戦かという前日に北条鱗の旗を取り外し、丸に片喰の旗と風林火山の旗を掲げさせた。

 風林火山は儂と景虎のみが使用する形で使ってきたが、伊勢家も当家と同じく赤旗を掲げとるからな。

 一目でわかるように風林火山の旗を用意させたわ!


 正面に儂の率いる七千の軍、後方に伊藤家の旗をたなびかす大道寺政繁率いる八千の軍に挟まれた形の伊勢軍は身動きが出来ず、結局その日は開戦とはならなんだ。


 氏康が進退に窮したその翌日、日の出とともに氏康の軍の利根川側、そこに景虎が赤地に風林火山の旗を押し立てて陣を構えた。


 自分らの倍の兵が三方より囲む形での陣構え、伊勢家の将兵は戦う意思など直ぐに失くしてしまったようじゃな。

 一人、また一人と伊藤家に囲まれていない方角、荒川を目指して逃げ出した。


 後は川に追い立てるように叩けばよい。


 当家には被害らしい被害は出ていないが、伊勢軍は見るも無残な始末じゃ。

 組織的な戦いは望むべくもなく、いいように叩かれ、突かれ、撃たれ、崩されておる。


 「して、業篤よ。氏康めは捕らえたか?」

 「いえ、ご隠居様、残念ながら。どうやら敵軍の大将は我先にと逃げ出していたようですな。陣も何もそのままに、姿かたちも見当たりませぬ」


 ふむ。相変わらず、逃げ足は速いの。

 まぁ、当主たる者おのれの身を第一に考えることを悪いとは言わぬ。

 だが、それでは敗戦の度に、将が、兵が、民がと、次々にいなくなるぞ。

 かような無様な家に対し、敵方が和睦などと考えるはずもない……その逃げ出した先には滅亡しかあらぬ。


 ありがたいことに、当家のご先祖様は何度も戦に敗れたが、自分だけが真っ先に逃げるような真似はなさらなかった。

 そのおかげで敵方から滅ぼされることもなく、民から見捨てられることもなく、苦難の時期は過ごしたが、こうして儂らが生きておる。


 「ご隠居様、信濃守様と大道寺政繁殿がこちらに……」

 「うむ。通してくれ……と、その前に。江戸城を取りに向かった義昭殿からは何か?」

 「はっ。先ほど江戸城に佐竹の旗、「扇に月丸」の白旗があがったのを確認できた旨の連絡が入ってまいりました」

 「うむ。さようか」


 義昭殿には事前に、荒川以北から伊勢家を追い出す作戦を伝えておった。


 この話を聞いた義昭殿は、即座に伊勢家の武蔵からの退路を扼すべく、江戸城を佐竹で落とすことを考えられた。

 策は見事に成功したようじゃな。


 これにて武蔵の地では河越城のみ一城が、伊勢家の城として孤立することと相成った。


天文二十四年 夏 勿来


 「こうして久しぶりに太郎丸の顔を見に手土産持参で来たわけだが……ん?お主、阿南様以外に妻を娶ったのか?俺より四つも下なのにやるのぉ!」

 「……いや、妻というわけではなくだな……須賀川に行っておる忠嘉の代わりに、俺の警護と直営を率いることになった安中の輝という……吉法師も知っておるであろう忠清の娘で、姉上の妹弟子だ……」


 安中輝。無口な娘で俺の二つ、景竜の一つ下で、鹿島神宮に入りびたり姉上の妹弟子として、卜伝門下での二人目の免許皆伝の腕前らしい……。


 俺の方には覚えがないのだが、ちょくちょく棚倉では一緒にはなっていたようで、再会の時には「若殿に再会できてうれしゅうございます」などといって泣き出したのには参った。

 絹のような艶の黒髪に白い肌……目鼻立ちもパッチリくっきり系の美人で、正直、こんな美人に会っていたら俺が忘れる筈がないと思うんだが……?


 姉上に聞いてみたら、輝は極度の照れ屋で、幼い時は前髪を伸ばして顔を隠す癖があったらしい。

 姉上には普通に接することが出来るのだが、景竜を除く男には緊張してどうにもならなかったらしい。

 どうして、景竜は大丈夫だったのかと聞くと、男には見えなかったので大丈夫だったとのこと……はてさて、どう解釈すれば良いのやらだよ。


 そんな輝さん、自分でもこのままではいけないと思ったらしく、卜伝から免許皆伝を伝えられたことを良い機会にと心機一転、前髪も切り落とし、これまでの性格を直すべく曾祖父と祖父と父親、忠平と忠宗と忠清だな、三人に相談したらしい。


 そこで、「そういうことなら若殿のおそばに仕え、その気性を直していけばよい!」と助言を受け、今日のようなことになったようである。


 勿来はそもそもの風土が棚倉とは違う。海の存在は大きいしね。

 気分を一新するに環境を変えることは大事だ。


 うん。……そのことには文句はないんだけど、どうして阿南並みに俺の横にくっつくのかな?


 右隣には阿南、左隣には輝……城では大き目の椅子に座っていたのだが、三人では物理的に座ることが不可能になったので、大き目のソファを作ってもらい使用している。一個じゃもったいないので複数。

 おかげで、ここ、俺の私室は前世世界で言うところのちょっとしたリビングルーム状態である。


 と、俺のことは良いんだ!

 吉法師の隣に座ってる絶世の美女は誰だ!という話だよ!


 「うん。俺もこのことは聞かれるとは思っておったが、吉法師、お前もようやく妻を娶ったのか?」


 藤吉郎も初対面らしく、「誰でしょうかの?この美女は?もしや天女様かいのぉ?」などと言って呆けた顔で吉法師の隣に座った女性に見とれている。


 「うん?そうか、輝殿か、俺は尾張屋の吉法師だ。よろしく頼む……で、こいつはだな、俺の女房で名を蝶という。よろしく頼むぞ!」


 なんか、吉法師が照れてて可愛い……というか、ウケルな。


 が、やっぱり信長の妻の名前は蝶なのね……。

 十代前半で家が潰されたからか、側室を作る必要がなく、これまでに女っ気は無かったようだが、ようやく運命の女性に出会えたらしい。

 顔も良く、金も持っていたから、それまでは遊ぶに困らなかったろうしな……。


 「吉法師殿の御妻女ですか、私は阿南です。お互いの夫は親友ですもの、私たちも仲良くしましょうね。よろしくお願いしますわ」

 「こちらこそよろしくお願いいたしますわ。阿南様」


 ……まだ、南の口調が改まったのになれない……。


 本人曰く、私も十五になり輝も若殿の傍に仕えるようになり(いや、輝の「そばに仕える」っていうのは、その意味での「そば」じゃないからね!)、大人の女としての一歩を踏み出そうと考えたのです。とのことである。

 この言葉を意味深にお腹をさすりながら言われた時には参った……。


 ……

 …………


 いや、まぁ、そういうことになることはなるようなこととしてなるようにしていたけどね……。


 だって、夫婦だし……。


 「まぁ、そういうわけだ。で、話のついでに一つ願い事を先にしたい……ご覧の通りに蝶は生来体が弱くてな。見た目は俺よりも下に見えようが、実は三つほど上じゃ……いたい、俺をつねるなお蝶!」


 おおぅ。濃厚なラヴ空気が流れてくるよ……。


 「いや、そういうわけでな、太郎丸は出産後に病を得られた椿の方様や妹御の清殿を快癒させた経験がある。どうか、蝶を元気な体にしてはもらえぬか?頼む。この通りだ」


 静かに、そして深々と頭を下げる吉法師。


 「止めてくれ。そのように頭を下げずとも、俺たちは友ではないか。友が困っているのだ。手助けをするのに理由はいらん。俺の力で良いのなら、好きなだけ頼ってくれ」

 「恩に着る!」


 再度頭を下げる吉法師。

 そんなん、頭を下げんで良いのに……よっぽど惚れているんだね。


 しかし、養生、養生かぁ。


 蝶殿をパッと見た感じ、まず一番に気になるのはその白さだな。白いというか青白い、はっきり言って血色が悪すぎるな。身体もやせ細っているし……。

 ただ、咳をしていたりするわけでもないから、いわゆる結核の線もなさそう……。

 心臓関係の病気だったらお手上げだけど、この時代特有の栄養不足による体調、生育不良であるならば、精の付く食べ物をとり、適度な運動と適度な日光浴、清潔な環境と温泉の合わせ技で多少は症状が改善されるかも知れない。


 よし、勿来城にも部屋は余っているがここはひとつ……。


 「ならば、一つ提案なのだが……蝶殿もいきなり奥州の見ず知らずの城に来たとて、心安らかに養生などは出来ぬであろう?偶然にも北の方で新たな館を立てている最中でな?もしよかったらそこを使ってはくれぬか。館を建てることは決めたのだが、俺はやはり勿来の方が好きなので動きたく無くてな」


 うん。我ながら怪しさ倍増の提案だ。


 「ぬ?良いのか?太郎丸、そのようなことなど……」

 「あ、いや~、少々お待ち下され殿」


 バレバレの話の持って行き方だったのだが、吉法師は外に出てばっかりでこちらの状況は今一つわかってなかったか……。

 ウッカリ、二つ返事で頷かれたら、俺が騙したみたいになって感じ悪いよ……?


 しかしながら、ナイス藤吉郎だな。

 ギリギリのタイミングでの良い差し込みだ!


 目線で、よろしく頼むと合図を送る。


 「殿はご存じなかったのかも知れませぬが、先年岩城家は伊達家と伊藤家によりお取り潰しとなり、勿来の北、湯本、飯野平から楢葉郡までが伊藤家の治めるところとなっておりまする」

 「おう、藤吉郎。そこまでは俺も知っているぞ?楢葉郡までが太郎丸の所領となったから湯本で大規模な港湾都市開発を行うと言うておっただろう……それがどうした?」

 「はいはい。殿、左様でございます。で、ですな、岩城家の旧本拠城だったのが飯野平城ですがあまりに住民の印象が悪く、これを廃城にして新たな城を更にの小川に建てておりますので……」

 「あ!」


 漸く気付いたか!吉法師!


 「言い回しが変になってしまって済まない。だが、どうだ。俺とお前の付き合いも足掛け八年……どうか、お前の力を俺に貸してはくれぬか?もちろん、俺達の関係も呼び方も変える気はない。ただ、尾張屋の面々、その全ての力をこの地で使ってほしいのだ!」


 飾り気無し。本心の勧誘だ。


 「いつかは正式にそのような話を貰うであろうと考えておった。お前は他の馬鹿どもと違って、俺と話が合うし、俺の翼を自由に羽ばたかせてくれるであろうこともわかる……呼び方一つにしても気にせぬしな」


 吉法師は天井を見上げ、ここではないどこかの空を頭の中に思い描きながら、ふぅと一つ息を吐き出した。


 「しかし、俺には……スマヌが皆は席をはずしてくれぬか?太郎丸と二人で話をさせて欲しい」


 吉法師の願いに皆が席を外す……いや、輝も外すのだぞ?護衛とかは今はいらぬわ。


 まったく……って、阿南様。あなたもですよ?

 輝に引っ張られて最後に退場する阿南。かわいいかわいいかわいいかわいいかわいい俺の天使である。


 居間には俺と吉法師の二人だけが残った。


 ずっ。

 どちらからというわけでもなく、互いに茶を一口。


 「ふぅ。たぶんお前も気が付いているだろう。確かに俺は松平に仕えているわけではないが、縁が完全に切れているわけでもない」

 「……で、あろうな」

 「ああ。仕官はしていないが、ある程度の銭を毎年納めておる。理由は……」

 「家族の無事と引き換えか?」


 前世世界の信長も妙に家族愛に厚い男だった。

 愛以外の他にも理由は沢山あったのだろうが、弟を含む一族の謀反への対処は非常に温情に満ちたものであったし、親、子への対応が、この時代の常識にはそぐわないように見えた。

 これらはそのどれもが愛情が元となった行動のように俺には思える。


 「さすがに俺とて、親族すべての面倒をみようとまでは考えておらぬし、みれるとも己惚れてはおらん。俺が銭を納めることと引き換えに、松平清康と取引したのは四名の命の保証だ。父上、母上、爺様に妹の市の四人分だ。既に父上は死に、母上は父上の死と同時に実家の六角を頼って尾張を出て行った。爺様は病で既に意識がなく……もう持たないだろう。残されたのは妹の市だけだったんだが……」

 「だが?松平が約束でも破りそうなのか?」


 大きく首を振る吉法師。


 「いや、清康殿は度し難い吝嗇ではあるが約束は守る男だ。実際に今では初めの頃の四分の一の銭しか受け取らぬしな……そうではなく、今回、新たに恩が出来た。蝶のことでな」

 「まぁ、斎藤家の姫様をさらったのなら何かしらの助け舟を松平家にはしてもらっただろうからな……」

 「知っておったか……」

 「たまたまな」


 前世世界では教科書レベルの事実だからほとんどの日本人が知っているぞ。

 まぁ、俺の死後に新史実が発見され、帰蝶が斎藤家とは縁もゆかりもない女性だった……なんてこともあるかもしれんがね。


 「恩には報いなければ俺の魂が許さん。清康殿は今回のことは気にするなと言ってくれたが、俺の気が済まんのでな。二分の一の額をあと五年納めると伝えてきたのだ」

 「ふむ。あと五年か……ならば五年たったら小川城の城主となってくれるか?」


 くくく。

 忍び笑いというか苦笑いをする吉法師。

 イケメンの苦笑とか高画質のアップにも耐えられるんじゃないか?知らんけど。


 「俺も腹を括ったわ……しかと五年後には、この織田三郎信長、全霊を持ちまして若殿にお仕えいたしましょうぞ!」

 「ああ、そういうのはいい、いい。吉法師と俺はいつまでも「俺とお前」の仲だ。いついかなる場所でもな!」


 織田信長とのマブダチポジションなんて憧れの立場。

 そう簡単に失うつもりはないさ。

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