第36話
ヴィオラの願いを叶えるぐらい、アルベルトには容易かった。一人でお茶をしていたヴィオラがそれを切望しているらしいことは、メイドから知らされていた。
馬車に乗って街におりると、ヴィオラはその美しい街並みに顔を綻ばせた。
「素敵な街ですわね、お義兄様」
この街を管理しているアルベルトに、ヴィオラがそう告げると、言われたアルベルトも悪い気はしない。この街並みが完成したのは随分前の時代ではあるが、維持をするのもなかなか大変なことである。
意外にも、貴族たちの間でも休暇の際に訪れる場所として浸透しているから、街の景観維持には惜しみなく金を注いでいるのだ。
そんな街中の、一際景観のいい場所にアルベルトの経営するカフェはあった。
領主であり、オーナーであるアルベルトがやってきたことで、従業員たちは背筋を正して挨拶をした。たまに見かけるライオネスがいることには何も感じなかったようだが、初めて見る美しい少女に目を奪われているのがよく分かった。
「ヴィオラ、マネージャーのハンスだよ」
アルベルトから紹介されたハンスは、美しい少女を前にかしこまってお辞儀をした。噂に聞いていたご令嬢がついにやってきた。と直ぐに察した。
「初めまして、ヴィオラ様」
そう挨拶をすれば、対面する美しい少女がまるでお手本のような淑女の礼をして見せた。その華のような微笑みに、店内にいた従業員たちは一目で魅了されてしまった。
ランチとティータイムの狭間だったためか、客がいないのが幸いだった。
アルベルトが簡単に説明をすると、従業員たちは深く頷き理解した。
ヴィオラは、ウェイトレスの制服が着られることをものすごく喜んで、すぐに着替えに行ってしまった。もちろん、ご令嬢であるからカフェの女性店員が手伝いについて行った。
「客が、近づき過ぎないように注意しろ」
アルベルトがそう言うと、ウェイターたちは承知した。マネージャーはフロア全体を見ることになるが、ウェイターは同じフロアの中を歩くことになる。不埒な客に、目を光らせるのはウェイターの役割になるだろう。
それに、令嬢であるヴィオラが、料理を運ぶなんてことは到底無理なことぐらい、誰もが理解していた。あの華奢な腕ではトレイにはカップがひとつが精一杯になるだろう。しかもこぼさずに、ともなると……
「お義兄様」
着替えたヴィオラがやってきた。そんなわけで、アルベルトの楽しい脳内妄想タイムは終了となった。
「…………ぅ」
アルベルトの口からちょっと声?が漏れた。頬が赤くなり、思わず自分の手で自分の口を塞ぐ。出しては行けない声が出そうだった。なにしろ、脳内妄想をしていたところに本物がやってきたのだから。
「変態だな」
そんな態度をとっているアルベルトに、ライオネスが、小声で呟いた。もちろん、ライオネスは分かっていた。アルベルトが真面目な顔をしながらなにやら考えに耽っていたことぐらい。そして、それがあまり口には出せない類のものだということを。
義理とはいえ妹であるヴィオラの、いわゆる制服姿を見て惚けてしまうだなんて、大変よろしくないことである。脳内妄想と現実がリンクしてショートしてしまったのだろう。咄嗟に隠しきれていないあたり、まだまだ修行が足りないということだ。邸のメイドたちに知られれば、アルベルトは相当にお説教をくらうことだろう。
それに、制服姿の義妹をみておかしな声を出してしまったのだから、そーゆー趣味でも、ありますか?と問いただされてしまうようなことだ。こんなアルベルトをみたら、邸の執事が青筋を立ててしまうことだろう。
「似合っているよ。って、この場合も褒めているのだよ?」
貴族の令嬢に、ウェイトレスの制服が似合うと言うのは果たして褒め言葉となるのか?そう考えると、手放しに褒めるのもどうかと思うアルベルトと、ただ、微笑むだけに終始するライオネスであった。
もちろん、従業員たちはそのような庶民の格好も難なく着こなしてしまうヴィオラに目を奪われてしまっていた。
「じゃあ、練習がてら俺たちのオーダーを取ってほしいな」
アルベルトがそう言うと、マネージャーはヴィオラにメニュー表を渡した。
それを持ってヴィオラはアルベルトとライオネスの席にやってきた。歩く姿も様になっていた。メニュー表を両手でしっかりと抱きしめるように持ち、真っ直ぐに二人を見ながらなのだ。
「いらっしゃいませ」
そう言って微笑むのだから、アルベルトは心臓が飛び出しそうな程に興奮した。もちろん、そんなことが気取られてはいけない。だが、隣に座るライオネスはしっかりと気づいていた。一瞬だけだが、アルベルトの口が緩んだのだ。そして、瞬時に引き締めたのを見逃さなかった。ライオネスだって、あのヴィオラの笑顔は反則だとは思う。勧められたら何でも注文してしまうだろう。
ヴィオラは誰に教わったのか、メニュー表を開いてアルベルトとライオネスそれぞれの前に置いた。
「おすすめはこちらです」
そう言ってまた微笑まれると、もうそれを注文するしか無かった。もちろん、ヴィオラは誰かに教わったわけではない。前世の記憶でメニュー表の左上がその店のイチオシだと思ったからだ。
「そ、それを!」
アルベルトがなんだかぎこちない。そもそも、アルベルトはオーナーなのだから、ヴィオラの接客についてなにかアドバイスをするべきだろう。なのに、アルベルトにそんな余裕が無さすぎた。ライオネスは苦笑しながらメニュー表を指さした。
「俺はコレを」
ライオネスが指さした場所をしっかりと確認したヴィオラは、オーダーを記入する。そもそも、メニューの名前を見てもヴィオラはなんの料理だかさっぱり分からなかった。なにしろ、前世ではいわゆる庶民だったし、侯爵令嬢として生まれ育ったヴィオラの記憶には、海産物を使った料理の名前はなかったのである。
「お飲み物は如何なさいますか?」
そう言って、ドリンクのページを開いて聞いてみた。もちろん、ドリンクもしかりである。名前を見てもよく分からない。読めて理解出来たのはコーヒーぐらいだった。
「か、果実水を」
「お二人共?」
「そうだね」
「かしこまりました。お待ちください」
ヴィオラは二人の前からメニュー表を下げると、厨房へと行ってしまった。もちろん、マネージャーがついて行く。
そうして残念ながら、果実水を持ってきたのも、料理を持ってきたのもウェイターだった。ヴィオラは終始ニコニコしていて、スイーツを食しに来た客を相手にちゃんとオーダーをとっていた。
本当はお腹なんて空いていなかったアルベルトとライオネスは、ゆっくりと時間をかけてそれを完食した。なにしろ、ヴィオラが勧めてきたのはメインの食事だったのだ。魚介類がふんだんにつかわれていて、なかなかのボリュームだったから、ゆっくりと食べなければ食が進まなかったのもまた真実であった。
二人とも終始無言で、目線はずっとヴィオラに注がれていた。
夕方になって、ヴィオラのウェイトレス体験はひとまず終了した。
酒を飲む客が増える時間帯を前に、ヴィオラを帰らせるためだ。酒を飲むような客の相手をヴィオラにさせるわけには行かないので、ヴィオラはランチタイムだけの約束となった。もちろん、安全を確保するために、ヴィオラがいる時間帯は酒の提供を全面禁止とした。
着替えるのに時間がかかるので、ヴィオラはウェイトレスの格好のまま帰ることになった。と、言うのは方便で、ヴィオラが着た制服をカフェに残すのが嫌だったからだ。それに、ヴィオラが毎日カフェで着替えなんかしたら危険だ。アルベルトは咄嗟にそう考えた。
ウェイトレス姿のヴィオラと、馬車という狭い空間に一緒になって、一番動揺していたのはアルベルトだった。そんな姿をライオネスは愉快そうに眺めるのだった。
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