十 冬至の儀式
アカルは書庫の壁際に座り膝を抱えていた。
ここで鷹弥を待つように言われて、ずいぶん時間が経つ。
手焙り火鉢の上に手をかざしながら、アカルは書庫に並んだ木簡の棚をぼんやり見つめた。
岩の里は
問題は、金海で依利比古に会ったことだ。
それなのに、アカルはなぜか鷹弥にその話しをしたくなかった。
「うーん」
アカルは頭を抱えた。自分の気持ちが自分でよくわからない。
髪をかきむしりながら天井を仰いだ時、ふいに、茶色と緑色が混ざった宝石のような瞳を思い出した。
(あ……そうか。ソナのこと、話したくなかったのかな?)
金海で依利比古に会った時、アカルはソナと一緒だった。そのことを鷹弥が知ったら、
心の中に踏み込まれるのは嫌だった。
(なぁんだ。そんなに悩む事じゃなかったな)
水生比古の時は、目の前にソナが居たからチクチクいじられたけれど、鷹弥はソナの存在を知らない。同行者がいた事など話さなければいいのだ────そう決めたはずなのに、心の中はぐずぐずでなかなか気持ちが定まらない。
結局、結論が出ないうちに、鷹弥が書庫に戻って来てしまった。。
「アカル、お前、依利比古とどこで会った?」
入って来た勢いのまま、鷹弥はアカルのすぐ前に膝をついた。
「ゆ、昨夜。
黒森に答えた通りに話すと、鷹弥はアカルの顔をじっと見た。
「お前が目を逸らすのは、隠し事をしている時だよな」
「逸らしてないよ!」
「逸らした!」
アカルが睨み返すと、鷹弥は怖い顔をしたままアカルに手を伸ばした。
思わずアカルが座ったまま後退ると、鷹弥も膝立ちで間合いを詰めてくる。壁際まで追い詰められたアカルは鷹弥を睨んだ。
「あいつが、俺になんて言ったかわかるか? お前を自分の側仕えに貸してくれって言ったんだ。どんな酔狂な男でも、庭で一度会っただけの下働きを側仕えにしたいとは思わないだろ? 正直に話してくれ。それとも、俺には話せないようなことなのか?」
鷹弥はアカルの両肩をつかんだ。
「違うよ。そういう事じゃないんだ」
「じゃあどういう事なんだ?」
がくがくと肩を揺さぶられて、アカルはとうとう音を上げた。
「わ、わかったから放して!」
両手で鷹弥を押し戻し、アカルは息を整えた。
「この前、西伯の姫について金海に行った話をしたよね? あの人とは、金海の飯屋で会ったんだ。一緒にいたのが阿羅国の王子だったから、阿羅の人だと思ったけど、都萬の王子だったんだね。昨日聞いたよ。
あの人は、私が西伯の姫の病を治したことを知ってたんだ。姫の病は、都萬の巫女がかけた呪いだったんだってさ。聞いた時は、さすがに殺されるんじゃないかと思ったけど、都萬に来ないかって誘われた。もちろん、断ったよ! さっき林の中で話していたのはその話だよ」
洗いざらい話すと、鷹弥はアカルを引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「やっぱり、お前を置いて行くんじゃなかった。俺が居たら……お前にそんな危ない事はさせなかったのに」
鷹弥の体が震えているような気がして、アカルは胸が痛んだ。いつまでたっても鷹弥には心配をかけてばかりだ。
「私は大丈夫だよ」
「大丈夫なものか! あいつはお前を諦めてない。お前の力を利用する為ならきっと何だってする。国を背負っている者たちがどんなに冷酷か、お前は知らないからそんなことが言えるんだ!」
鷹弥は叫ぶようにそう言ってアカルを見つめた。
「私だって、少しは成長してるんだ。岩の里しか知らなかった頃の私じゃない。少しは信用してくれ!」
「信用? お前のことは信じてるさ。だが、やつらに権力や力で来られたら、お前一人じゃ絶対に太刀打ちできないだろ? 岩の里に戻るのも危険だ。シサムは黒森に送らせるから、お前はここにいろ。もう俺の目の届かない所へ行くな」
「そんな……勝手に決めないでよ!」
アカルは鷹弥の体を押しのけた。
〇 〇
日暮れとともに始まった冬至の儀式は、再び太陽が登るまで火を燃やし続ける炎の儀式だ。もちろん、すべての使者が一晩中付き合う訳ではなく、本当に夜明けまでこの場にいるのは、祭事を司る者と巫女たちだけだ。
海に面した
王族と使者のために設けられた高床の宴席には、女官たちが酒と料理を運んでいた。
宴席に
都萬の王子は麗しいという噂は聞いていたけれど、そんな言葉ではとても言い表せない。同じ宴席にいる身分の高い男たちともまるで違う。彼は、とても人の子とは思えないほど美しい姿形をしているのだ。
彼の纏う
「酒を注いでくれないか?」
依利比古に声をかけられて、珠美は飛び上がりそうになった。
「は、はい」
珠美はドキドキしながら片口の酒器を手に取った。
「どうぞ」
大きな篝火や手焙り火鉢があるとはいえ、広々した高床の宴席はかなり寒い。
露天なので風があれば酒が器からこぼれる事もある。珠美は酒器の注ぎ口から白濁した酒が杯に注がれるのを、注意深く見つめていた。
「きみは、朱瑠の同僚なんだって?」
「えっ?」
麗しい王子の口から意外な名前が出て、珠美は酒をこぼしそうになるほど驚いた。
「朱瑠を、ご存じなのですか?」
「ああ。以前、異国で会ったことがあるんだ。この
依利比古はにっこりと珠美に笑いかけた。
「異国……朱瑠が?」
酒器を持った珠美の手が震えた。
「朱瑠は、貧しい小さな里の出だと聞いています。とても異国になど……」
「ああ、確かにそうだね。でも、異国の姫の病を治したみたいだったよ。これは私の勝手な想像だけど、朱瑠は、歴史ある小さな里の巫女なのではないかな?」
「朱瑠が、巫女?」
珠美は呆然と依利比古の言葉を繰り返した。
「依利比古さま! 少しよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
依利比古が愛想よく答える。
珠美はそっと頭を下げるとその場から離れた。
珠美が席を外したのを目の端で追ってから、宇良は依利比古の杯に酒を注いだ。
「あの女官見習いはお役に立てていますか?」
「ええ、もちろんです」
「それは良かった。依利比古さまが希望された娘はただの下働きで、とても宴席に出せるような者ではないとの事でしたから、代わりにあの娘を」
依利比古はクスクスと笑いながら片口の酒器を手に取り、宇良の杯に酒を注いだ。
「気を遣わせて申し訳ありません。鷹弥というあなたの側近は、私と朱瑠を会わせたくはないようですね」
「ああ……彼はきっと、初めて冬至の儀の差配を任されて緊張しているのでしょう。粗相があってはいけませんからね」
宇良は的外れな答えを口にして笑ったが、依利比古は指摘しなかった。
「けれど、こうして依利比古さまとお話が出来るのは嬉しいことです」
「私もですよ、宇良さま。戦の間は、瀬戸内諸国にはご迷惑をおかけしました」
「筑紫の方は落ち着いたと聞きましたが?」
「ええ。
実を言うと、
「鉄を、必要なだけ?」
宇良は目を細めて用心深く依利比古の顔を窺った。
「はい。今まで滞っていた分も、お届けすることが出来ると思います」
依利比古は微笑んだ。
瀬戸内の覇権に固執する太丹王よりは、まだ宇良王子の方が御しやすい。
依利比古は宇良を引き入れることに決めていた。
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