八 水仙の庭


 帰りの遅い珠美たまみを心配して、アカルともも南宮みなみみやが見える中庭まで迎えに来ていた。


「女官見習いは誰も戻って来ないね」

「うん。もう宴は終わったみたいなのにね」


 美しく整えられた中庭を歩き、二人は回廊の近くで立ち止まった。

 回廊と西門が交差する場所には大きな篝火が焚かれ、たくさんの武人がうろうろしている。各国から使者が来ている今は、いつもより警備が厳重になっている。

 もしも用の無い下働きがここから先に行けば、見張りの兵士に咎められるだろう。


「きっと、他の仕事で忙しいのよね?」

「そうだね」


 二人が来た道を戻ろうと踵を返した時、少し先にある早咲きの水仙の庭に、雅やかな浅葱あさぎ色の衣を纏った青年が現れた。すらりとした細身の体と、女と見紛うような美しい顔が、西門の篝火に照らされている。

 アカルと桃は青年の方を呆然と見つめてしまってから、ハッと我に返って跪いた。


「誰?」

「し、知らないよ」

 小声でやり取りをしていると、目の前に革の長靴が現れた。


「きみたちは、ここで何をしているの?」

 優しい声で問いかけられて、二人は少しだけ顔を上げた。

「か、帰りが遅い同僚を、迎えに来ました」

 緊張のあまり、桃の声が裏返る。

「そう。南宮で仕事をしているなら、たぶん今夜は帰れないよ。きみたちもお帰り」

「は、はい! 失礼いたします」

 深々と頭を下げた桃は、立ち上がるなり林に向かって駆け出した。アカルも桃に後について走り出す。


「待って!」


 右の手首をつかまれた。

 ビリビリビリッ────と、痺れるような痛みが、つかまれた手首からアカルの全身を駆け抜ける。


「……やっぱりそうだ。きみ、私と会ったことを覚えてる?」


 すぐ背後から青年の声がした。確かに、この稲妻のような痺れには覚えがある。

 金海の飯屋に寄った時、『帰り道に気をつけなさい』と声をかけた男がアカルに触れた時も、同じ痺れが全身を走った。


 アカルは恐る恐る振り返った。

 女と見紛うような美しい顔にサラサラの長い前髪。目の前にいる青年は、確かにあの時のヒオク王子の従者と同じ顔をしていた。


(あの時の人だ……どうしてヒオクの従者がこんな所にいるんだろう。いや……そうじゃない。あの時、私は男装をしていた筈だ)


 アカルは混乱する頭を叱咤し、用心深く身構えた。

「あの、お人違いでは?」

 試しにそう言うと、青年はフフッと笑った。


「確かに金海で会った時、きみは少年の姿をしていたね。でも、間違えたりはしないよ。きみはあの時よりも陽だまりのような気配が強くなっているし、手を触れた時に感じるこの痺れもあの時と同じだ」

 青年は優しい微笑みを浮かべながら、つかんでいたアカルの手を軽く振った。


「陽だまり? 私から、そんな気配がするんですか?」

「するよ。自分では気がつかないのかな? とても温かな気配だよ」

 青年はにっこりと微笑んだ。


(金海の飯屋でじっと見られていたのは、そのせいだったのか)

 あの時はとても怖い人のように思えたけれど、今はずいぶん印象が違う。


「私は都萬つま国の王子、依利比古いりひこだ。きみは?」

「……アカルと申します。あの、あなたは阿羅あらの方ではなかったのですね」

 阿羅のヒオク王子と一緒にいたのが、婿入り先の伊那いな国ではなく、都萬国の王子だったのは不思議な気がした。


「きみも、金海の人間ではなかった様だね」

 依利比古はアカルの手をつかんだままだったが、もう稲妻のような痺れは消えている。

「もしかして、私を疑っていますか?」

「ああ、金海に居たきみが、なぜ姫比きびに居るのかってこと? 確かに興味深いけど、疑ってはいないよ。きみのような娘が密偵だと言われても、信じられないからね」

 依利比古は優しい笑顔を浮かべていたが、アカルは何だか馬鹿にされたような気分だった。


「そろそろ手を放してくれませんか? 早く帰らないとみんなが心配します」

「そうか」

 依利比古はアカルの手をつかんだまま空を見上げた。

「もう少し話がしたかったのだが……きみはどんな仕事をしているの?」

「私は、北宮の衣類を洗濯しています」

「そうか。また会って話がしたいな。ああ、そんなに警戒しないで。私は、きみの様な不思議な気配を纏った人を見たのは、生まれて初めてなんだ」


「はぁ」

 アカルは返答に困った。

「あの、そろそろ……」

「わかったよ。次に会うときはもっと時間をもらうよ」

 依利比古が手を離すと、アカルは深々と頭を下げてから逃げるように駆け出して行った。


「────まさか、こんな所で会えるとはね」

 依利比古は少し屈むと、白い花をつけた水仙の茎を手折った。

葉月はづき、あの娘を見張れ」

『はい』

 どこからか声が聞こえ、小鳥の羽ばたきが遠ざかってゆく。


「依利比古さま」

 月弓つきゆみが水仙の向こうに跪いている。

「今の娘、確かにおかしな気配をしていましたね」

「やはりお前もわかるのだな?」

「はい」


「あれだけ強い光を放っていて、よく今まで魔物に喰われなかったものだ」

「誠に不思議ですね。何か守護しているものが居るのかも知れません。ご用心下さい」

 真剣な顔で心配する月弓に、依利比古はハハハッと軽やかに笑った。


「お前はおかしなことを言うね。私はただの人間だよ。あの娘と話をしたところで問題はない。何かあるとすれば、あの娘を見張る葉月ではないのか?」

「はい、そうでしたね」

 月弓は恥ずかしそうに笑った。


 〇     〇


 夜が更けた頃、南宮にある別棟の控えの間には、女官見習いの娘たちが一人また一人覚束ない足取りで戻ってきていた。

 控えの間には、すすり泣くような声があちこちから聞こえている。

 珠美もふらふらと控えの間に入るなり、うずくまって泣き出した。


「どうして……あたしがこんな目に合わなきゃならないのよ」


 女官になるのが夢だった。貧しい里から伝手をたどって阿知宮あちみやの下働きになったのは、いつか女官になって貴人に見初められる為だった。裕福な暮らしは幸せだと思ったからだった。それなのに、女官見習いになって命じられたのは、他国の使者の夜伽をすることだった。


 パンパンパン

 両手を叩く音が響いた。


「あなたたち、何を泣いているんですか? これは、女官になるためには誰もが通る道なのですよ。しっかりなさい!」

 厳しい声で叱咤したのは女官長だった。

「さぁ、早く湯屋へ行って身繕いして来なさい! 朝の仕事は待ってはくれませんよ!」


 女官長に命じられ、娘たちは立ち上がって湯屋へ向かう。

 女官長の言葉は娘たちを正気に戻しはしたが、同時に地獄のような現実を突き付けていた。


(あと何日、こんな日が続くのだろう……)


 奈落の底に落ちたような気持ちで、娘たちは湯屋へ向かった。

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