二 書庫
翌朝になっても、左腕の傷は変わらず熱を持ってズキズキと痛んでいた。
腕に巻かれた長細い布を恐る恐る解くと、くすんだ緑色の薬草に覆われた肌には、くっきりとしたきれいな傷口が見えた。
(良かった、膿んでない)
新しい薬草に取りかえて布を当て、四苦八苦しながら長い布を巻いていると、仕事に出ていた
「言ってくれれば手伝うのに」
顎と右手で布を巻く不格好な姿を見かねて、柚がアカルの手から布を取り上げた。
「柚……ありがとう。助かるよ」
「痛い? きつくない?」
柚は布を巻きながらアカルの顔を見る。
「ううん。もっと強く巻いていいよ。ゆるいと傷が開きそうで怖いから」
今はくっついているように見えるけれど、
「朱瑠は傷の手当ても自分でするんだね。草とか木の実にも詳しいしさ」
柚は感心したように笑う。
「野山を駆けまわって育ったからね。ありがとう柚。これから洗濯でしょ? 手伝うよ」
柚が布を巻き終わると、アカルは立ち上がった。
「手伝うって、その怪我じゃまだ仕事できないでしょ?」
「だから手伝うだけだよ。
アカルは籠の中に入っていた皀の黒くて細長い実を一本つかむと、そのまま水場へ向かった。
水を入れた桶の中で
「朱瑠はいつもこれで洗ってるよね」
「うん。これで洗うと布も傷まないんだ。柚も使ってみて」
「ありがとう」
「ちょっと朱瑠、何やってるのよ!」
水場にしゃがみこんでいると、洗濯物の籠を抱えた
「珠美も使う?」
「そうじゃなくて、あんたにお客さんよ!」
「え?」
わなわなと震える珠美の後ろから、濃紺の衣に身を包んだ鷹弥が大股でやって来るのが見えた。口を引き結んだ硬い表情をしている。
「鷹弥……さま」
慌てて立ち上がったアカルは、みんなが膝をついているのを見てもう一度しゃがみ込んだ。それでも、こっちへ歩いて来る鷹弥から目が離せない。
(かなり怒ってるな)
勝手に出て来たのだからそれは仕方がない。けれど、みんながいる場所で余計なことを言うのだけはやめて欲しい。
「やはり、ここに居たんだな」
「……はい。申し訳ありません」
アカルは睨むように鷹弥を見上げたが、意外にも鷹弥は穏やかな笑みを返してきた。
「思ったより元気そうで安心した。だが、まだここの仕事は無理だろう。ちょうどお前でも出来る簡単な仕事がある。木簡の整理だ。そのままでいいからついて来い」
鷹弥の提案は下働きの娘にとっては破格の待遇だったが、アカルが心配していたような親し気な会話でも、強引に連れ戻しに来たわけでもなかった。
「はい」
宇良のことも話しておきたかったし、アカルは素直に鷹弥の後について行くことにした。
長い回廊を上り左手にある平宮に着くと、鷹弥は立派な木の扉を開けた。
扉の中は棚と文机のある仕事部屋になっていて、奥の壁にはさらに奥へと続く扉があった。
「この部屋には人が来るが、奥の部屋までは誰も来ない」
鷹弥はそう言って奥の部屋へ入って行く。アカルは黙って後に続いた。
「ここは書庫だ。ここの木簡を片付けている事にしたから、お前はここで休め」
アカルは部屋の中をぐるりと見回した。書庫と言うだけあって束ねられた木簡がたくさん置かれた棚があったが、その片隅には暖かそうな毛皮の敷布と手焙り火鉢が置いてあった。
「下働きの小屋でもちゃんと休めるのに」
鷹弥の過保護ぶりにアカルはため息をつく。
「そんな青白い顔をしているくせに……いいから座れ」
鷹弥はアカルの背中を押して手焙り火鉢の前に座らせた。
「鷹弥さまこそ、寝てないんじゃないの? 宇良さまの偽物が出たんだって?」
「聞いたのか」
鷹弥はため息をつきながらアカルの前に座った。目の下に薄っすらと隈が見える。
「俺たちが出ている間に、どうもおかしなことが起きていたらしい」
「うん。実はさ……その件に関係あるかわからないけど、鷹弥さまに話しておきたい事があるんだ」
そう前置きをしてから、アカルはあの気味の悪い視線のことを鷹弥に話した。
鷹弥は黙って聞いていたが、次第に眉間のしわが深くなっていった。
「その視線は、お前が
「うん。だけど、昨日目が覚めてからは一度も感じないんだ」
「なるほど……お前が川辺で倒れた時刻と、高笑いする
鷹弥は腕組みをして考え込んでいたが、しばらくすると顔を上げた。
「アカル、宇良に何かが憑りついてないか、視てくれないか?」
「うん、いいよ。たぶん何もないと思うけどね」
宇良の偽物は魑魅魍魎の類ではなく、人のような気がした。ただ、普通の人ではなく、アカルや
アカルがじっと考え込んでいると、鷹弥の手がアカルの頬に触れた。
「せっかく会えたのに、ゆっくり話をする暇もなかったな」
淋しそうな目をする鷹弥にアカルは笑いかけた。
「仕方ないよ。色々あったし、ここではお互い立場が違うもの。私は会えただけで十分。だってさ、イマリカたちが盗賊に攫われなかったら、きっと一生会えなかったよね?」
「そうだな。お前にこんな怪我をさせてしまって、本当に済まなかった」
「こんな傷たいした事ないよ。それに、鷹弥さまのせいじゃないだろ」
アカルが胸を張ると、鷹弥は呆れたようにため息をつく。
「シサムが見つかれば、お前は岩の里へ帰るんだろ?」
「うん。早く帰って冬支度を手伝わないと。倉の米は殆ど盗賊に盗られちゃったから、この冬は厳しいと思うんだ」
「そうか……俺も美咲たちの心配がなくなったら、戻るつもりだ」
「え?」
アカルは目を見張ったまま鷹弥を見つめた。
「俺も、岩の里に帰りたい」
真剣な顔で鷹弥は繰り返す。
「いいの? だって、ここは鷹弥さまの故郷でしょ?」
鷹弥が帰って来るのは嬉しいのに、喜んでいいのかわからない。
「故郷と言っても、ここには辛い思い出の方が多いんだ」
「そう……なのか」
アカルは唇をぎゅっと強く結んだ。
美咲たちが鷹弥の家族だと知った時から、何となくそんな気はしていた。
岩の里にいた時の鷹弥も、今思えばいつも暗い目をしていた。よほど辛いことがあったのだろうと想像はしても、それを訊く勇気はない。
「岩の里には、楽しい思い出はあった?」
アカルがおどけて訊くと、鷹弥は微笑んだ。
「ああ。里の人はみんな優しかった。俺は心を開けなかったけど、それでも里で暮らした十年はとても幸せだった」
「そうか、それなら良かった。鷹弥さまが帰ってきたら、きっとみんな喜ぶよ。今度は心を開けるといいね」
「そうだな。お前が一緒ならきっと……」
鷹弥に見つめられて、アカルはドキッとした。
いつの間にか背中に回っていた鷹弥の腕に優しく抱きしめられて、胸の鼓動が早くなる。
(今日の鷹弥は、なんか、変だ)
いつもなら、アカルが無茶をすれば頭ごなしに怒るのに、今日はまだ怒らない。それどころか、妙に淋しそうな微笑みを浮かべたりする。
幼い頃からずっと傍にいて、抱きつくことなど日常茶飯事だったのに、鷹弥の様子がいつもと違うからアカルも緊張してしまう。
トクトクトクトク
鷹弥から伝わる鼓動と自分の鼓動が一緒になって、アカルの頭はさらに混乱した。
その時、仕事部屋の方から音がした。
「鷹弥さま、いらっしゃいますか?」
誰かの声が聞こえ、鷹弥の体が離れた。
立ち上がった鷹弥が書庫から出て行くと、アカルはふーっと息を吐いて目を閉じた。
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