七 智至へ
沖ノ島からは海流に乗って北海を横切り、直接智至へ向かうのだという。晴天に恵まれることが大前提だが、この航路だとずいぶん早く智至へたどり着けるらしい。それも全て、風と潮目を読むことが出来る
渡海の間中、ソナは胸形の水先案内人について回り、風や潮の読み方を教えてもらっていた。
「何だか変わった王子さまだな」
船縁に寄りかかるアカルの隣で、
「まぁ……そうだな」
「お前はずいぶん親しそうだが、いつ知りあったんだ?」
「見回りの最中だ。良いやつだよ」
「そうか?」
夜玖はあまりソナを歓迎していない口ぶりだ。
「それより、ソナ王子が教えてくれた情報をどう思う?」
アカルは夜玖の顔をうかがった。
情報というのは、金海国の港を出てからソナがアカルに話してくれたことだった。
「
「うん。それって智至と金海の同盟に対抗して、阿羅と伊那の同盟を強固にするって事だよね?」
「まぁそうだが、あちらはもともと同族だろ? それに、かつては筑紫をまとめていた伊那国も、筑紫内戦でずいぶん疲弊したって話じゃないか。いまの筑紫は、伊那国よりも
「ふーん、そうなの?」
夜玖の話はよくわからなかった。
アカルの頭の中には北海沿岸諸国と胸形までの地図しかないから、それ以外の国や力関係になるとほとんどわからない。ただ、ヒオク王子には矢を射られたせいであまり良い感情を持っていない。だから、彼が
「まぁ、お前が仕入れた情報なんだから、お前の口から
「そうだね」
アカルは気のない返事をして、小さく息をついた。
夜玖と違って、アカルは自分に下される評価などに興味はない。
(そうだ……智至へ戻って水生比古さまに報告したら、岩の里に帰れるんだ)
それは、岩の里を出た時からのアカルの希望だった。それなのに、どういう訳か心がそわそわと落ち着かない。
智至へ行けば、あの水生比古と対峙しなくちゃならないのだから、もっと気を引きしめなければ。そう思うのに、いつの間にかぼんやりとソナの姿を眺めていたりする。
(私はいったい、どうしたのだろう)
近頃ふと不安になる。
自分は迷っているのだろうか。本当は、岩の里に帰りたくないと思っているのだろうか。そんな風に自分を疑ってしまう。
(私は、ソナと一緒に西方へ行きたいのかな?)
ソナと一緒に旅立ったら、どんな世界を見ることが出来るだろう。西の果てにはどんな国があって、どんな人たちが暮らしているのだろう。確かに、そう思うだけで心が躍る。
けれど、岩の里を忘れられるのかと問われれば、それは否だ。縁もゆかりもない子供を救い、育ててくれたばば様や里に人たちに、ずっと恩返しがしたかった。
(そうだ、やはりソナと一緒には行けない)
ばば様が何を言っても、自分が帰る場所は一つしかない。
アカルは二度と心が揺らがないように、もう一度しっかりと心に蓋をした。
○ ○
智至の港に着いたのは夕暮れ時だった。
茜色に染まった智至の都は、
広々とした内海には大型船が並んで停泊出来るほどの港があり、そこから見える建物はどれも背が高く、立派な家々がたくさん並んでいた。
港から川に沿うように町が広がり、少し離れた高台に
アカルが一番驚いたのは、門をくぐる度にひとつの里が入るくらいたくさんの建物がある事だった。
(どれだけ建物を作れば気が済むんだ……)
この広大な宮に水生比古が居るのだと思うと緊張したが、アカルは余計なことを考えるのをやめて夜玖の後ろをついて行った。
これが最後だと言われた立派な門をくぐると、広々とした庭の向こうにたくさんの高殿が並んでいるのが見えた。
「わぁ……」
思わずため息が漏れるほど、広大な敷地に立ち並ぶ高宮の群れは壮観だった。
「今夜はもう遅いから、水生比古さまに謁見するのは明日になる。明日に備えて今夜は風呂に入って身ぎれいにしておけ。アカルはその女官について行け。ソナさまは俺が案内する」
「わかった」
夜玖とソナとは高宮群の入口で分かれ、アカルは女官の後について小さな離れ宮に着いた。
女官はアカルが荷物を置くとすぐに湯屋に案内してくれた。客人用の小さな湯屋は、川から温泉を引き込んでいるようだった。
「温泉か。ありがたいな」
アカルは岩の里の近くにあった温泉を思い出した。山の中にあるので暖かい時はいいが、冬は里に帰るまでに湯冷めしてしまうような残念な温泉だった。
女官が用意してくれた薄紅色の衣に着替えて離れ宮に戻ると、簡素な夕餉が用意されていた。
(ソナも夕餉を食べているかな……)
会って話がしたいと思った。けれど、勝手のわからない斐川の宮をウロウロするのは得策ではないと思い諦めた。
温泉の熱を冷まそうと庭に面した戸を開けると、しとしとと雨が降っていた。
(こっちはまだ雨の季節だったな)
戸の向こうに置かれた縁台に出て、雨粒に揺れる庭の木の葉をぼんやりと見ていると、闇の中に煙るような白い人影が見えた。
目を凝らしてもはっきりとは見えなかったが、何となく若い女のような気がした。
(こんな雨の中、何をしているんだろう)
気のせいか、闇の中に佇む白い影はこちらを見ているようだった。アカルはだんだんと気味が悪くなってきて、思わず声をかけた。
「私に、何か用か? 用があるなら、何か言ってくれ!」
アカルが声をかけても白い影は答えない。ただじっとこちらを見ているだけだ。
(もしや、人ではないのか?)
白い影と睨み合うように対峙していると、急に空気が変わった気がした。
透き通るような冷たい波動が辺りを覆いはじめた途端、白い影がゆらゆらと揺らいで薄れてゆく。
(消え……た?)
縁台に立膝をしたまま呆然としていると、声が降ってきた。
「何をしているんだ? 誰かいるのか?」
聞き覚えのある声にハッと顔を上げると、すぐそばに水生比古が立っていた。
肩まで垂れた長髪に、一目で上質だとわかる水色の衣を身に着けた水生比古は、相変わらず冷え冷えとした霊威を放っている。
「水生比古さま、どうしてここに? 謁見は明日と言われたけど」
アカルが眉をひそめると、水生比古は笑った。
「相変わらず無礼な娘だな。明日まで待ちきれなくて迎えに来たんだ。夜玖には客人を迎えに行かせてある。さぁ来い」
水生比古はアカルに手を差出した。
(この手をつかめと言うのか?)
アカルは眉をひそめて水生比古の手をじっと見つめてから、ひとりで立ち上がった。
「
水生比古の手が、アカルのまだ水気を帯びた頭に伸びる。
「よく戻った」
アカルが戸惑うほど、智至の王は満面の笑みを浮かべていた。
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