第191話 かつて夢見た世界

「ようリン! それにユキちゃんも! いつも一緒なんて妬けるねぇ」


 リンの数少ない友人が、二人の仲を茶化しながら朝から絡んでくる。


「おっはよ~! 今日の小テストの予習は充分かなぁ?」


「うん? そんなのあったかしら~?」


「予習しててもこの記憶力じゃあな……」


「なんだとぉ!?」


 平凡な日常。こんな毎日を過ごしていたかった。


「頼むリン! カンニングさせてくれ!」


「堂々と頼む事じゃあないだろ」


 教室で授業を受け、たまにあるテストに苦労させられ、騒がしい昼休みを過ごし、次の授業の始まりを告げる予鈴に、不満を漏らしてまた授業を受けて……。


「ねえリン……ここ教えて?」


 ユキがいてくれる日常。


 求めていたのはそれだけで、頼って欲しくて、いるだけで嬉しくて。


「二ページ前にやり方が書いてるぞ?」


「それがわかんないの~」


「こらそこ 私語は慎め」


「はーいごめんなさーい」


 注意されてもユキは楽しそうにしている。


「……怒られちゃったね?」


 どれだけ幸せな事だろう。どれだけ望んだ事であろう。


 かつて夢見た理想郷・・・・・・・・・が今、ここにあった。


 とても暖かな、どれだけこうあって欲しいと願ったんだろうか。


「──だな」


 一生懸命に授業を受けるユキの姿を見て、リンは微笑み返す。


 その後も、帰り道を一緒に過ごした。


「あ~疲れた……何故人類はテストなんてものを生み出したのか」


「なんだか論文出せそうだね」


「貰えるのは頑張ったで賞で決まりだな」


「それ実質参加賞だよね!?」


 くだらない会話、そんな事を話してるいつも通りの平和な学園生活、明日明後日の話しが当たり前のように出来るこの平和な日常。


 その『当たり前』と言う幸せを、ちゃんとリンは理解している。


「まあ明日はたいした授業も無いし寝るのが捗るってもんだな」


「授業中の居眠りってどうやるの?」


「いいかいユキちゃん まずはばれない様に教科書の防壁をだな……」


「ユキに何教えてんだ」


「ギャー! リンが怒ったー!」


 だから、リンは夢見てきた。


 この当たり前の幸せをもっと知って貰いたい人がいるから、きっと彼女ならこれ以上に楽しい生活を過ごせている筈だから。


「じゃあなお二人さん! また明日な!」


「まったね~」


 いつもの十字路でいつも通り別れる。この日常の風景を忘れてはならない。


「ほら帰ろ! 私お腹空いちゃった!」


「そうだな……帰ろう」


 この道を進んで行けば、やがて家に着く。


 まずは先にユキを家に送って、寄るのは少しだけの筈が、結局ユキの両親と一緒になって話しが長くなって──。


 薄暗くなった帰り道。だが家に帰れば明るく暖かな家族が迎えてくれるだろう。


 今日あった出来事を話題に食卓は笑顔に包まれる。そして一日はあっという間に過ぎ去って、また平穏な日常が始まるのだろう。


 それはいったい、どれだけ幸せな事であろうか。


「そうだ! 今度一緒に遊園地に行こう!」


「遊園地?」


「そう! 近くに新しく遊園地ができたんだよ! 皆を誘ってさ!」


「……行けたらいいな」


 乗り気な返事では無いリンの言葉。ユキはもしかしてとからかった。


「あっ! もしかして~? 私と二人だけで行きたかったとか~?」


 冗談だよと付け足して笑うユキだったが、距離を詰めてこう言った。


「もしもリンが良いなら……良いよ 二人っきりでも」


 夕日に照らされたその表情は、微かに赤く染まっている。


「えへへ……それだとデートみたいになっちゃうね?」


 恥ずかしそうに言うユキに対し、リンは足を止めて言いった。


「ごめんユキ……俺は行けない」


「え──?」


 驚いた顔で振り向く。リンはユキの誘いを断ったのだ。


「──どうして?」


「帰らなくちゃいけない 『元の世界』に」


 この世界は幻想だと、ここでは無い元の世界に帰るとのだと言う。


「……ここが『本当の世界』だよ」


「違う 本当の世界のユキは今も眠ったままだ・・・・・・・・──俺が約束を破ったらから」


 決して眼を背けてはいけない残酷な現実。


「約束したのに……手を離さないって 守ってみせるって」


 俯きながらユキは言う。


「そうだ……俺はユキの十一年間を奪ってしまった」


 かつて守れなかった約束。取り返しのつかない時間。


「……嫌だよ そんな世界なんて」


 他でもないリンが望まない。きっとユキも辛い現実を背負う事となる。


「ずっと後悔した……ずっと恨み続けた あの日の無力さを恨んで……今までずっとこんな『幸せに溢れた世界』を望み続けてきたんだ」


 自分の殻に閉じこもり、失う事を恐れて、周りとの距離をとっていたリン。


 こんな辛い思いをするぐらいならと、また誰かとの約束が守れないのならと、ずっと向き合う事におびえ続けたリンの日常。


「だけどごめん──ここには"あいつら"がいないんだ」


 ここはかつて夢見た理想郷・・・・・・・・・


 訪れる事の無い幻想に縋り、怠惰な日常を過ごす日々。憂鬱で窮屈で、ずっと息苦しかった殻の中からこの『異世界』という非日常の世界へ迷い込み、過ごした非凡な毎日を、忘れられる筈が無かった。


「もうあいつらのいない世界なんて考えられない……こんな俺を受け入れてくれて 支えてくれる大事な仲間がいないなんて──俺にはもう耐えられない」


「……私は許さない」


 一人だけ幸せになろうなど、そんな事許される筈が無い。


「"許さなくて良い" 拒まれても良い──俺の事は嫌い続けてもかまわない」


 たとえ許されずとも受け入れるしかない。向き合っていくしかない。


「だけど……『生きて欲しい』 何があっても前に進んで欲しい……絶対に諦めないで欲しい──今の俺の『幸せ』はそれなんだ」


 この『理想郷』に自分がいる資格は無い。この世界が訪れる事は絶対に有り得ない。


「心が折れそうになったら支えるから……不安から逃げだしたくなったら手を握るから──今度こそ守って見せるから」


 だとしても、こことは違う『理想』がある信じている。


 たとえこの理想郷に辿り着けずなくても、近づく事はできる筈だからと。


「ずるいよ……リンは」


 出来るかどうかもわからない。自分勝手な理想を掲げた、ただの綺麗事。


「必ず元の世界に帰すから……きっと目を覚ましてくれるって信じてる」


 そんな綺麗事が叶う世界を、リンは信じていた。


「──指きり」


 差し出される小指。リンは少しだけ戸惑ったが、直ぐに受け入れる。


「ああ──約束だ」


 小指と小指を絡ませると、ユキはとても満足そうに、目に浮かばせた涙は溢れて一筋の雫となって、頬を伝って地面へ落ちた。


 幻想の世界が崩壊を始める。ドライが魔法を解いたのだ。


 崩壊の後に待ち受ける現実がたとえ残酷であろうとも、幸せばかりの世界で無かろうとも、リンはもう向き合うと決めていた。


「──約束だからね?」


 最後にそう言い残し、ユキは笑顔のまま幻想へと消えていく。


 最初の景色へと戻され、ドライが目の前に立っていた。


「──本当に良かったのですか?」


 不満そうに、だが少しだけ悲しそうに、ドライは言う。


「……ちょっともったいなかったかもな?」


「……行きなさい この先に魔王様が居られる」


 ドライの背後にある階段の先、その先に魔王は待ち受けている。


「いいのか? 通しても」


「私の術を破ったのです 当然その権利はアナタにある」


 以外にも律儀に約束を守るドライ。


「実を言えば魔王よりもアンタを警戒していた アンタの能力は強すぎる」


 二度と味わいたくないドライの『物語の語り手ストーリーテラー』の力。


 一度喰らえばもう抜け出せない、勝てないと持っていたのだが、以前とは力の使い方がまるで違っていた。


「以前アナタが言ったでしょう? 物語は『平和な日常』が良いと……だからこうして態々物語を書いたんです」


 初めて戦った時、リンが言った物語を書いてみる事にしたドライ。


「意外に──良いものですね こういう物語も」


 そう言ったドライの言葉を聞いて、少しだけ微笑み、魔王の元へ進む。


「もう貴方・・が主役の物語は飽きました 次に書く物語は……そうですね」


 取り出した白紙の本と羽根ペン。ドライは少し考えて、綴っていく。


 争いと憎しみ、そんな悲劇の物語ノンフィクションよりずっと綺麗な物語フィクションに思いを馳せる。


「魔王様がただ『平和な日常』を過ごす──そんな物語・・が叶うのであれば」


 ドライのささやかな願いがぽつりとだけ、つぶやかれた。


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