第32話
俺の真下にはエリカがいる。両腕を広げて、大の字のような恰好。はだけた服と力みの感じられない体は無防備そのもの。
エリカは無言だ。俺も同じく、無言だ。
こんな状況、普通ならすぐに退いて、弁明の言葉を並べて、気まずさを取り除くのが良いのだろう。少なくとも、俺とエリカの関係なら、それがベストと思われる。
それなのに、2人してじっと見つめ合っている。
動かないのか、動けないのか。喋らないのか、喋れないのか。
エリカの瞳をこんなにまじまじと見ることなんて今まで無かった。
――――――綺麗だ……。
その瞳に吸い込まれるかのように、視点はそこに集中していて、他を見ることを許してくれない。
ゴクリと生唾を飲んだ音はエリカにも聞こえているはず。
ようやくエリカがポツリと呟く。
「……漫画だと、この後どうなるのだったかしら」
あの後、たしか―――
「こう、だったかしら」
エリカの右手が俺の頬に触れる。暖かい。漫画と同じ……。
「その後は…、まだ読んでないわ…」
俺は知っている。
「どうなるのかしら……」
あのシーンは物語でも重要なところ。
薄暗いムード漂う中で、2人の距離は急接近する。それまで友達としか思っていなかったヒロインのことを、主人公が異性として認識するきっかけとなる、大事なシーン。あくまで、漫画の話……。
俺はまだ一言も発していない。
その瞳に、その表情に、その全てに、恍惚として我を忘れる。
瞳の引力は強さが増し、顔と顔の距離が短くなる。このまま膠着状態が続けば、いずれくっついてしまうのではないか。
1分、2分、時間は過ぎていく。エリカの顔が近くなってくる。
――――――漫画ではどうだったかな……。ああ、でもこれは現実だっけ……。
気づけば、お互いの息遣いを肌で感じるほどに。
――――――このまま、ありもしない引力のせいにして……。
ガチャッ。玄関の方から扉の開く音がした。誰かが帰って来たことを意味する音だ。
音が聞こえた瞬間、俺とエリカはそれまでの行いを隠すかのように飛び起きて距離をとる。悪いことをしていたわけではないのに、気持ち的には同じだった。
ドンドンと、帰って来た人物が階段を上がる。「誰か来てるの?」という声から母だとわかった。母が俺の部屋に来る頃には、俺たちも勉強していた位置に戻り、何事もなかったように取り繕う。実際何もなかったが。
「あら、エリカちゃんじゃない。珍しいわね」
母もエリカのことを知っている。というよりいつも遊ぶ5人のことはよく知っている。家に呼ぶのは初めてだが、学校行事の際によく話しているし、親同士もよく情報交換しているみたいだ。マコトの両親ほどではないが、それぞれ仲良くやっている。
「お邪魔してます」
「マコトちゃん以外で家に来るなんて初めてじゃない?…もしかして―――」
「あー!もういいから!早く行ってくれ!」
「何なのこの子…。反抗期かしら?それよりエリカちゃん夕飯は食べてく?」
どうしてうちの母はそんなに振る舞いたがるんだ…。
「いえ。家で用意してもらっていますし、そろそろ帰ろうと思っていたのでお気持ちだけ頂きます」
「あらそう?相変わらず礼儀正しい子ねぇ。エツジも見習いなさい」
「もういいだろ!早く支度してくれ!俺はエリカ送ってくるから」
これ以上この場所にいると、何を言われるかわからないので、勉強道具を片付けて家を飛び出した。
「ごめんな。急がしちゃって」
「大丈夫よ。本当にそろそろ帰ろうと思っていたから」
隣を歩くエリカに歩幅を合わせながら、ゆっくりと歩く。
日はまだ出ているが、風が通って涼しい。エリカの髪もゆらりとなびいた。
「今日はありがとな。やっぱエリカと勉強すると捗るよなー」
俺が話さないと駄目な気がした。エリカからは「どういたしまして」としか返ってこない。
黙るエリカから「その話じゃない」という心の声が聞こえる。俺自身がこの話じゃないと思っているからか。
でも、この件については安易に触れたくはない。下手すれば、何かが壊れてしまいそうだ。
「復習もできたし、宿題も進んだし、中々充実した一日だった」
繋ぐ言葉にセンスがない。それでも、口を動かし続ける。
「俺は宿題溜め込んで後半苦しくなるタイプなんだよなー」
エリカの家まで半分くらいの距離を残している。このままではもたないだろう。
それからも喋べり続けていたのだが何を言ったかあまり覚えてない。余程中身のない話だったのだろう。
エリカの家まで数十メートルまで来たとき、エリカが立ち止まった。
「どうした?もうすぐそこだろ?」
「……続きが気になるわ」
「……そんなに気になるなら今度貸してやるよ」
エリカと目が合った。その眼差しから真剣さが感じられる。
「……漫画の話じゃないわ。私たちの話よ」
そんなこと、わかってる。
「……もし、あの時、エツジ君のお母さんが帰ってなかったら、私たち…、何をして、どうなってたのかしら…」
答えるべくは「何もせず、何も起こらなかった」だ。波風立てない、模範解答。俺が知ってる俺だったら、そう答えるはず。
「……さあな」
濁す必要はないのに、漏れた一言。正解でも不正解でもない、卑怯な選択肢。
逃げるように、横の建物に視線を移す。エリカがどんな表情をしているか、知りたくても見ることができなかった。
「……そうよね…。変なこと聞いたわね。ごめんなさい」
今日の俺、いや、最近の俺は何だかおかしい。思考と言動が一致しない時がある。こんなの初めてだ。
「ここまででいいわよ」と俺を残してエリカは進んでいく。
残された俺は、エリカの後ろ姿を眺めている。
リズムよく揺れる髪、スラッと伸びた手足、姿勢、エリカを構成する全てが美しく、どこから見てもひたすら綺麗だ。
あの時、母が帰ってなかったら、か。自分に問いかける。
「言えるわけないだろ……」
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