駒亭へ~④
髪の毛が乾きだしたところで、父が出てきた。年頃の娘の前だから裸で出てくるようなことはせず、もうパジャマに着替えている。短めに揃えられた頭の毛は、すでに乾いているように見えた。本人は気にしているが薄くなった分、乾きも早いのだろう。
そんな馬鹿なことを考えているとは気付かない父は適当にコップを探しだし、美樹と同じく冷蔵庫からお茶を出して注ぎ、テーブルを挟んで反対側に腰かけた。しばらく沈黙した後、突然思い出したかのように尋ねてきた。
「そういえば、今日は美樹の下宿に陸上部の子達が遊びに来ることになってなかったか?」
何気ない様子で聞かれたため、自然に短く返答する。
「そう。でも当然中止」
父は何か思うことがあったのか、コップを触りながら視線を下に向けたまま聞いてきた。
「それって中止になったのか? 延期じゃなくて?」
予想外の言葉に一瞬言葉に詰まるが、さりげなく独り言のように呟く。
「日を改めるならここに呼ぶことになるかな。でも千夜さんの許可もいるし、あの子達が見たがっていたのは、複数人で下宿している駒亭の部屋だと思うからしばらくは延期ね。早くても駒亭に戻ってからの話になると思うよ」
「そうなのか?」
「多分。駒亭で他に同じ学年の子とか先輩がいるから興味があるようなことを言っていたし。ほら高校生じゃないけど、若い人達がシェアハウスしている番組が前に流行ったでしょ。ああいうノリにちょっと好奇心が湧いたみたいよ」
「じゃあ、少なくとも駒亭の工事が終わる一カ月先までは無理ってことか」
そこで父はまた下を向いてマグカップからお茶を一口飲んで独り言のように囁いた。
「延期じゃなく、そのまま中止になればいいのに」
その言葉が聞こえなかったかのように装い、美樹もお茶を一口飲んで話を終わらせた。
おそらく父は心配しているのだろう。陸上部の子達が美樹の部屋へ遊びに来ることになったと以前母に知らせた時、電話の向こうで一瞬息を飲み、すぐに
「大丈夫なの?」
と聞いてきたくらいだ。あの時のようなことが起きないか、母だけでなく父や井畑にいる家族、親戚、皆が危惧しているのだろう。
特に田口家から母は、下宿し始めてからまだそれほど経っていないと言うのに、何もないか、美樹は大丈夫かと何度も尋ねられているらしい。直接母からは聞かないが、GWには井畑へ帰らないと連絡を入れた時、兄がそう教えてくれた。
だから母を困らせるようなことはするな、と何度も口を酸っぱくして注意されたのだ。母からその話を聞いた父も同様に、美樹を案じていることも聞いている。私は兄達に助けられた。その為兄や両親に逆らうことなどできないし、その忠告は正しい。
それでも陸上部の子達が部屋に来たい、という要望を断れなかった。だからそうなってしまった事情も経緯も、母にはしっかりと説明をしておかなければと考え、実家に連絡したのだ。話を聞いた時の母は、諦めたような溜息をついて言った。
「しょうがないか。田口の家には内緒にするから、実とお父さん以外に言っちゃ駄目よ」
実際のところ、兄には母より前に説明してあった。その上で
「今回はやむを得ないようだけど、母さんには美樹の口から説明しておけよ。父さんには俺と母さんから後で話しておくから。でもきっと父さんも俺と同じで、田口の家や他の親戚達の耳には入れるなと言うだろ。母さんは分からないけど、そうするように言うから」
と溜息をついていたが、その心配は必要なかった。母もまた同じことを考えていたらしい。
美樹が引き籠っていた時、祖父母や両親、そして兄と父の妹である
その家族会議で美樹をよく知らない場所へ行かせたらどうだと提案され、それを受け入れたのだ。アキラの件が影響し、中学三年の三学期を終えた後、学校へ行けなくなってしまった美樹は、部屋に引き籠り続けた。そんな妹を兄は何とかしようとしてくれたのだ。
「同じM県だけど、井畑から電車で二時間以上はかかるM市の若竹学園がいいと思う。あそこなら遠くて通えないから、井畑を離れる理由ができる。不自然ではないだろう。余りにも遠くなら逃げたと言われかねないけど、若竹ならその印象は薄らぐだろう」
医師からうつ病の診断書を貰い自宅で療養中となっていたが、家から出なくなって半年近く経った頃に、兄は美樹にそう話を持ちかけた。父もその続きを説明してくれた。
「井畑からも若竹の六年制へは、何年かに一人は入学する子がいるし、高校から進学する子も余りいないがゼロじゃない。お前の場合とは同じじゃないが、井畑と若竹とは距離はあってもそうした繋がりがある。父さんも仕事絡みでM市にはよく出張で行くし、学園とはちょっとした伝手もある。若竹は特別区に指定されているから、その中核を担う学園が指定する下宿屋にも顔が利く。もちろん学園には正式に試験や面接を受けて入らないといけないが、合格すれば住む場所は紹介して貰える。考えてみないか」
皆の説得を受けて美樹は努力をし、無事入ることができて現在に至っている。あの事件がなければ、そのまま井畑中学から高校へと持ち上がりしていただろう。
だがそれも自分が蒔いた種だ。心配と迷惑をかけたのは家族だけではない。狭い田舎だから親戚や近所の人もそうだ。田口家は特に、である。昔から同じミカン農家で山や土地も隣り合っているが、今や両家は密接な関係にあった。
特に美樹の祖父である和多津
さらにその後叔母の久代が正明の次男、母の弟の
地元の人望が厚くて市議でもある正明は、次の市長にどうかと押されているほどの実力者だ。そして田口家には母の兄である
さすがにまだ若く父を差し置いてはできないと断っているようだが、母の話によると本人は満更でもないらしい。そういった内輪の話は茂の妻で義理の姉、
美樹にとって伯母に当たる彼女は、母の通っていた大学の先輩でもあるらしい。伯母の卒業後に母が入学したため学生時代に交流は無かったが、母の短大時代の友人の姉でもあったという。聞くところによると彼女の実家は名古屋の星が丘にあり、大層な資産家の娘だそうだ。
伯母は元銀行員の知的でおしとやかな美人だが、田舎のミカン農家に嫁いでも働き者で人当たりがよく茂に負けず劣らず人望も厚いと、もっぱらの評判になっていた。お嬢様ではあるが田舎の人達を取りこむ魅力もあるようだ。
とにかく田口家は井畑に知らないものはいない名家で実力者である。その親戚で同じく古くから井畑の農業を支えてきた和多津家も、また地元では一目置かれる存在だった。そんな名家の娘が問題を抱えて井畑を去り、この若竹にいるのだ。それだけでも井畑では長年の嫉妬もあり、ここぞとばかりに有象無象の噂が立った。
だから井畑を離れた今でも、問題を起こされては和多津家も田口家も困るのだ。名家に汚点はいらない。特に田口家に対しては、父が母とできちゃった結婚をした時から借りのある関係だ。
その為平穏で、息を潜めるように過ごさなければならない。これ以上両家に迷惑をかける訳にはいかないのだ。
渡辺家で一夜を過ごした美樹達は目を覚ますと準備を整え、千夜に挨拶をする為一階へ下りた。既に彼女は起きて庭の草木に水やりをしており、挨拶は庭先で済ませることができた。
「おはようございます。昨日は有難うございました。これからも宜しくお願い致します」
「お気をつけてお帰り下さい。また今度、ゆっくりと寄っていって下さいね」
と父に挨拶を返し、美樹に対しても
「早く駒亭で朝食を食べて、学園へも行かなきゃいけないでしょ。いってらっしゃい」
と送り出してくれた。父はこの後駒亭へ挨拶に行った後、市役所での打ち合わせがあるのでゆっくりはしていられない。美樹も朝食を済ませ、早めに学園へ向かいたかったから助かった。千夜に促され足早でその場を後にし、二人は駒亭へと向かった。
「おはようございます」
戸惑いながら、いつもと違う入口から食堂に入り挨拶をする。昨日までは部屋から食堂に続く渡り廊下を通り、一階の隅に用意されたお決まりの席に着くのだが、今日からは違う。お客が出入りする正面入口は、まだ営業時間外なので閉まっている。その為他の家で間借りしている人達は、裏の勝手口を使っていた。
夕食事には正面入口が開いている。それでも下宿生は裏口から出入りする習慣がついていた。それは昔からのようだ。美樹に続いて父が挨拶する。
「おはようございます。昨日は大変お世話になりました」
当然女将や大将は忙しく動き回っていた。複数の従業員と共に下宿生の朝食の準備から弁当の準備、食堂で出す料理の仕込み等があるからだ。
下宿生は朝六時半から八時までの間に朝食を取ることと決まっている。それまでに大将達は朝食の支度をし、食事が済んだら大学生には弁当を渡さなければならない。加えて食堂自体も朝八時から開けているので、その準備が必要だ。
それ以上に大変なのは、やはり仕出し弁当の用意だろう。朝食の宅配はやっていないが、昼食だけで用意する弁当の数は軽く五百を超えるらしい。その数を作るには朝早くから準備をしなければならないし、加えて学園などで販売する分も必要だ。
その上順次昼までに配達もしなければならない。よって早くから従業員達は出勤し、仕事に励んでいた。とにかく女将達は朝から忙しい。挨拶した美樹達の方をちらりと見ると、
「おはようございます。昨日はゆっくりできましたか? 一さんも美樹ちゃんと一緒に朝食、食べていかれますか? すぐにご用意できますけど」
早口で喋りながら盆に料理の乗った皿を乗せていく。今日はハムと目玉焼きの横にレタスとトマトを乗せた皿と、筍とカボチャの煮物が入った小鉢だ。二皿載せた盆に空の椀が二つある。椀は汁物用とご飯用でそして箸。そこまでセットした彼女はもう一度こちらを向いた。その目がどうするのと聞いている。父が気づいて口を開いた。
「私はここで失礼します。これから市役所で打ち合わせがありますから、朝食はあちらで食べます。お気遣い有難うございます」
「休日出勤ですか。大変ですね。すいません、この通りうちも朝からばたばたしていましてお構いもできませんで。お気をつけてお帰り下さいね。また今度はごゆっくりと」
そう言い残すと奥の調理室に引っ込み、元気な声であれやそれやと従業員達に指示していた。その様子を見てすぐに失礼した方がいいと思ったらしく、
「じゃあ父さんは帰るからな。何かあったら電話して来いよ」
そう言って今度は板場の中にいる大将の姿を探し、頭だけ下げ挨拶をして出て行った。外まで見送りたかったが、美樹もそれほど時間がある訳ではない。それに自分の朝食のおかずが、既に用意されている。そこで汁用の椀を取り、脇にある大きな鍋の蓋を開けた。
今日は豆腐とワカメの入ったお味噌汁だ。軽く一杯よそい、大きなジャーを開けてお茶碗にご飯を軽くよそうとそれぞれをお盆の上に乗せた。おかず以外のご飯と汁物は、セルフで好きな分だけ食べていい。
美樹は下宿生用の席まで盆を運び、すでに用意されているおかずが置かれている席についた。別に決まってはいないが、何となくここは誰々が座る席だと自然に形成されていく。その様子を見た女将達が、事前におかずを各々の場所へとセットするのだ。
朝食に手をつけながら壁にかかった時計を見た。六時四十五分を少し過ぎている。いつもはなるべく一番に朝食を食べるようにしていた。早い時間なら他の下宿生は余り来ないからだ。
時々部活の早朝練習等がある場合は、特例で六時頃から食べるケースもあるらしい。ただそういう場合を除けばだいたいは、七時から八時の間に来るという。
それを知っている為早く食べ終わり、他の子が来る頃には食べ終えて早めに学園へ向かうようにしていた。周りの下宿生に気を使うのも使われるのも嫌だし、学園に早く着いても授業の予習や復習など、やることはいくらでもある。なるべく人と深く関わらないように、という心理が働いてそんな習慣がついた。
いつもならそうしていたが今日はいつもより少し遅れた為か、下宿生が勝手口から入ってくる気配がした。そちらを見ないよう意識して食べていると、少し離れた席につこうとする男子に気付く。その場所から六年制に通う来音という子だと察した。
何となく視線を感じた為顔を上げそちらを向くと、盆を持った彼と目があった。やはりシンだ。彼は頭をちょこんと下げて挨拶をしてきたので、美樹も返した。
「おはようございます」「おはようございます」
彼とはたまに顔を合わす。美樹ほど早くないが、入れ違う位の時間に来るからだ。その為入ってきた時間と場所の位置から彼だろうと予想できた。今までも顔を合わせた時は挨拶ぐらいするが、会話を交わしたことはない。学園内でも会った記憶は無かった。
そんな彼が挨拶した後、盆は食卓の上に置いたが席にはつかず、まだ何か言いたげな顔をしていた。珍しいこともあると思い、こちらから声をかけた。
「ん? なに?」
すると意外な言葉が返ってきた。
「昨日は大変だったみたいで、引っ越しされたようですね、渡辺さんのお宅に」
「え?」
どうして下宿先まで知っているのという顔をした美樹の意図を察したらしい。彼は慌てて付け加えた。
「今僕が下宿している大家さんから聞きました。家の隣の隣に引っ越してきたって」
そこに奥から出てきた女将が、会話に入ってきた。
「シン君が下宿している立花さんの家って、渡辺さんの家の近くだったね。隣の隣になるのか。私も今聞いて気づいたわよ。何で気づかなかったのかな」
後の方はぶつぶつと独り言のように喋りながら、用事を済ませた彼女はまた奥へと引っ込んでいく。その背中を見つめていた視線を彼に戻し、
「そうなの?」
と尋ねたら、そのようですと頷いた。そこで話は済んだとばかりに席に座った彼は、目の前の食事に手をつけ始めた。
「ご近所さんね。まあ元々こことも離れてないから、今までだってご近所さんだけど」
そう言って笑うと彼もそうですねと小さく笑い、また食事を続けた。
それ以上話題も膨らまず、美樹は残りの食事を食べ始めた。二人の間に沈黙が続く。そんな様子から、彼もまた同じく他の人との関わりを必要最小限にしているのかもしれないと感じた。
そういえば彼は駒亭での下宿歴が四年目に入るため、今年からこの周辺にいる下宿生の中では大学生も含め一番の古株だと気付く。
駒亭に入った時、何か判らないことがあったら三年目になる白谷さんに聞いてもいいのよ、厳密にいえば彼女よりシン君の方が古株になるけど彼は通いだから、と以前女将さんが言っていたことを思い出す。
その時自分は駒亭で下宿しているから、彼とは余り関わることは無いだろうと思って聞き流していたが、今は同じ駒亭へ通う身だ。不明な点や困った事があれば家も近い為、今後は女将の次に頼りになるのは彼かもしれない。
元々接点が少ないため程良い距離を取った上で、必要な話だけを尋ねることはできそうだ。しかし後一カ月程度だからそんな機会はまず無いだろうと思い直した美樹は、朝食を食べ終わり、
「ごちそうさまでした」
と手を合わせてから、盆を持って立ち上がった。
所定の場所に置き、弁当を受け取った。土曜日なので購買部は閉まっている。だが部活はお昼を挟んで午後からもあるので、事前に用意して貰っていたのだ。
「じゃあ、お先に」
勝手口から出る前にシンへ声をかけ、
「行ってきます!」
と、奥にいる女将さん達に向けて挨拶してから外へ出た。
「行ってらっしゃい!」
と、複数の従業員の人達の言葉が後ろから聞こえた。その中で女将の声が一段と大きく聞こえる。そんなところはさすがだ。元気な声に後押しされ、学園に向かう足取りがほんの少し軽くなったような気がした。
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